第2-2話 POSは魔法より強い
朝の鐘が三度、鳴った。
一度目は市場の扉を開き、
二度目は税の扉を開き、
三度目は――変化の扉を開いた。
夜の風が吹き抜けた後、
広場に張られた幕が新しくなっていた。
〈価格表示義務のお知らせ〉
〈初期装備 無利子貸与 試験運用〉
〈採取品 公正買付 標準価格 公布〉
三枚の布が、三つの刃のように掲げられている。
茶店の女が腰に手を当てて叫んだ。
「見てよ! 文字を貼れって書いてある!」
声は油を塗ったみたいに滑らかで、
終わりだけが尖っていた。
「客は値札を見ない、物を見るの!」
「だからこそ。」
シノブは短く返した。
「これからは、物を見て、値も見る。」
女の唇が止まり、空気が一瞬静まる。
石畳には夜の冷気が残り、
乾いた水の跡にポーションと金属とゼルの匂いが層を成していた。
シノブは広場の中央に木の台を据えた。
薄いルーンを刻んだ〈決算魔法板〉。
昨夜、三時間かけて焼き上げた板だった。
掌で表面を撫でる。
木目が息をしている。
そこに、妖精書記のリルが近づいた。
「紙は。」
「ここに。」
差し出された紙束の一枚目。
〈時間〉〈品目〉〈数量〉〈単価〉。
そしてその下に、白い空欄。
空欄は、可能と責任の象徴だった。
露店の者たちは夜明け前から紙を切り、線を引き、文字を書いた。
粗い紙にインクが滲み、
〈深夜限定〉〈在庫不明〉〈本日だけ〉――
誇張は大きく、根拠は小さい。
シノブは陽の角度を見計らいながら、
一枚を持ち上げた。
裏に王立商業組合の印章が透けている。
印は美しい。美しいものは、たいてい危険だ。
「値札を貼れと言うから貼ったが、客が怯える!」
ポーション屋の主人が叫んだ。
手の甲にはインクの跡が残っていた。
「怯えているのは値じゃない。」
シノブは笑った。
「――秘密です。」
その笑みは、柔らかくて長い。
だが、意志だった。
革の前掛けをした男が、
握りしめた紙を持って歩み寄る。
彼の肩の後ろでは、
妻と思しき女性が赤子を抱いていた。
哺乳瓶の中の湯は、まだぬるかった。
それでも空気は冷えて、湯気さえ霞んでいる。
「これを貼ると……客が離れるんです。」
男の声は低く揺れていた。
「この前、長男の縁談が流れて。
向こうの親に聞かれたんです、『商売うまくいってるか』って。
笑って答えたけど……値を書いたら、恥ずかしくなりそうで。」
シノブは紙を受け取った。
〈ポーション一瓶 ― 六〉。
その下に薄い追記。
〈昨日 五/今週 五〜六〉。
陽に透かすと、昨日の“五”が滲んでいた。
「もう書いていたんですね。」
「壁に貼れなかっただけです。」
男は前掛けで手の汗を拭き、
小さく笑った。
「向かいは五。うちは六。泥棒みたいに見える。」
「泥棒は隠す人です。書く人じゃない。」
妻が静かに尋ねた。
「貼ってもいいですか。」
「ええ。理由も一緒に。香料、瓶、人件費。
理由が見えれば、人は憎まない。」
男は頷き、古い算盤を取り出した。
木の珠が湿った音を立てる。
「じゃあ今日から、数字の後ろに顔をつけよう。」
赤子が小さく音を立てた。
同意のように聞こえた。
リルが記した。
〈値札は仮面ではなく、顔〉。
+
市場の真ん中で、紙の裂ける音がした。
薄い紙が破れる音は、いつも不安を連れてくる。
隣の店主が唾でペン先を湿らせ、
〈今日だけ四〉と書いた。
隣の店がそれを見て震え、
〈なら、うちも四〉と書く。
気配が値を作り、値が気配を作った。
シノブは台の横に戻り、
光を帯びたルーンを見下ろした。
「リル、公示板を確認。」
「はい。」
リルのペン先はもう拍子を刻んでいる。
二人の妖精書記が新しい紙を掲げた。
〈標準原価票(試験)〉
〈変動価格 公示時刻表〉
〈POS 公開板 掲示手順〉。
シノブは一枚を広げ、
指で空欄をなぞった。
「空欄が多いほど、人は質問を書く。
今日は、その質問を受け取る日だ。」
茶店の女の声が、再び広場を横切る。
「客は物を見る。値札を見たら怯える!」
手の甲に白い糊の跡。
「今日は違う。
値札は客を怯えさせない。
商人の手を震わせない。」
「震わせない?」
「数字は呼吸する。
書けば、震えが減る。」
リルが短く記した。
〈今日の目的:事実を掴む瞬間〉。
+
リルが走り戻ってきた。
「公示板、人でいっぱい。
“標準価格”が一番目につくみたい。」
「読む顔が違う。“知ってしまった顔”だ。」
シノブは呟いた。
知ってしまった顔。
もう、知らなかった頃には戻れない。
宿屋の主人が手を挙げる。
「“朝食付き”は?」
「選択の比喩です。」
笑いが弾け、緊張が解けた。
訓練場の主が尋ねる。
「一時間五ゴールド。
変動表に合わせて、朝・昼・夕で変える?」
「そう。」
「雨が降ったら?」
「理由書を。
生き延びる変動には理由がある。
理由を記せば、責めは減る。」
頷きが広がる。
それは市場で最初の承認印のようだった。
シノブは独り言のように言った。
「みんな、戦いに来たんじゃない。
生き残りに来たんだ。
この世界の魔王は、物価だ。」
+++
太陽が真上に昇り、影が消えた。
数字を掴むには、いちばん眩しい時間だった。
蝶番が小さく鳴る。
木の板が息を吸うように光を宿した。
シノブは手のひらを板に置き、
低く、短く言った。
「POS。
Point of Sale――
売買の瞬間を、逃さず記録する装置だ。」
群衆の中で、誰かがくすりと笑う。
「“捕まえる”って? その板で?」
「魔法だ。」
答えはあっさりしていた。
「……魔法?」
「数字の魔法。」
リルが隣に立ち、ペンを構える。
風が一瞬、静まった。
「ポーション一瓶、この店で。」
一人の客が前へ出た。
商人は目を泳がせ、やがて頷いた。
「六ゴールドです。今日だけ半額で――」
「昨日もそう言っていたな。」
「そ、それは……昨日の今日で……。」
リルの手が走る。
〈08:12/ポーション/1/6〉。
紙を板に置く。
ルーンが光を放ち、
金の線が流れて空へ昇る。
〈ポーション 1×6ゴールド=6〉。
息を飲む音。
子どもが母の裾を握る音。
「見えるか。
これが取引だ。
昨日までは言葉、今日は証拠。」
リルが次の紙を載せた。
〈08:14/ポーション/1/5〉。
光が重なり、数字が向かい合う。
〈6 ↔ 5〉。
「下がった!」
「本当に下がった!」
「もう、値は気分じゃない。数字が決める。」
王立商業組合の腕章が光った。
「魔法だ!」
「違う。見えただけだ。」
リルのペンが宙を指す。
〈6 → 5〉。
単純な変化。
だが、それだけで人の声は揺れた。
「見なさい。魔法ではない。
取引の痕跡――それが根拠。
POSは証言じゃなく、証拠です。」
組合の男が嗤った。
「なら税の魔法だな。」
「違う。」
シノブは顔を上げる。
「信頼の魔法だ。」
風が一度、全員の足元を撫でた。
リルは即座に書く。
〈08:16/砂塵の振動/群衆37/呼吸12〉。
〈08:17/“魔法”発言 回数9〉。
ペン先が市場の鼓動を刻む。
シノブは板の側面を押した。
ルーンの縁が反応して輝き、
各店の看板に数字が浮かぶ。
〈A店 6〉〈B店 5〉〈C店 5〉。
光の糸が並び、
まるで空の星座のように結ばれていった。
「これが市場だ。
談合は、この光の下でしか息ができない。」
「……公正価格。」
誰かが小さく呟いた。
「もう、互いを監視する必要はない。
市場は自分を記録する。」
「じゃあ、王国は何を?」
「確認だ。」
シノブは初めて笑った。
「確認――それが行政だ。」
リルが帳簿を開き、書き記す。
〈08:20/POS発動 成功/取引2件/変動幅1/参加者37〉。
光はゆっくりと消えていった。
残ったのは金の残香。
インクより濃く、紙より生きていた。
「本物の魔法だ……。」
声がどこからか漏れた。
「証拠の魔法。」
「数字の魔法。」
リルの筆が止まり、
一行だけ残す。
〈人が初めて、証拠を畏れた〉。
シノブは板から手を離す。
光は消えたが、視線は消えない。
空には何もないのに、
誰もが何かを見ていた。
それが証拠だった。
「これで、市場は言葉じゃなく記録で動く。」
リルが息を呑んだ。
「課長、それは――」
「そうだ。」
シノブは唇を閉じて微笑んだ。
「行政が、魔法になる最初の日だ。」
+++
正午の鐘が三度、鳴り響いた。
陽は真上から市場を照らし、
影はどこにもなかった。
POSの板からまだ微かな熱が漂う。
木目の間に残る金の筋が、ゆっくりと冷えていく。
リルが報告した。
「記録、完了です。五十二件。
平均単価五・四。最低五。最高六。」
数字を読む声は、
まるで祈りのように一定だった。
シノブは群衆の顔を見た。
誰も去らない。
残る者は、知りたい者だ。
それが今日の統計。
「いい。」
彼は紙を取り上げた。
「これより、公聴会を開く。」
ざわめき。
「公聴会?」「こんな所で?」
「ここで。」
古い椅子を引き寄せて腰を下ろす。
木が軋み、音が空気に広がった。
リルのペンが走る。
〈内需活性庁 試験公聴会 ― 議題:価格安定と談合対応〉。
三枚の紙が空に浮かぶ。
〈08:12/ポーション/1/6〉
〈08:14/ポーション/1/5〉
〈10:03/ポーション/1/5〉
数字は言葉より正直だ。
「この三行が、午前を変えた。
もう客は“今日だけ半額”とは言わない。
“どこが五ゴールドか”と聞く。」
小さな拍手。すぐに止む。
赤いマントを羽織った男が前に出た。
王立商業組合の印章が光る。
「課長、市場は柔軟でなければ。
価格は海のように動く。
あなたの板は、海に堤防を作っている。」
シノブは男の顔を見た。
疲れた眉。光る爪。古い癖。
「修繕はしない。
行政は水路を変えない。
溢れた時に、道を描く。」
男は笑った。
「その道が、ギルドの足を断つかも。」
「足が道なら、道が短い。」
リルのペンが止まる。
空気が硬くなった。
シノブは指で机を叩く。
トン、トン、トン。
言葉より古い拍子。
「三つの提案。」
声が広場を渡る。
「一つ。標準原価票を作る。
香料、瓶、水、労働費――記し、書記が印を押す。」
「香料が高い日は?」
「理由書を。理由があれば、責めは減る。」
「二つ。価格変動は一日三回。
日の出、正午、日没。
変動時にはPOSが自動で公示する。」
「突然の雨は?」
「その時も理由書を。
暴風より怖いのは、変動の言い訳。」
「三つ。POS公開板を立てる。
平均、最低、最高を一目で見せる。
透明は秘密の反意。
秘密は暴利の始まり。」
頷く者。腕を組む者。
リルは全てを書き取った。
「誰が管理を?」
「我々だ。
商人と客、行政と市場。
四つが揃えば、名前はいらない。
ただの人々だ。」
リルが微笑む。
短い笑いは、長く残る記録になる。
「行政が商人を教えられると?」
「違う。商人が人を忘れた時、行政が思い出させる。」
男は言葉を失った。
「柔軟さを失えば市場が死ぬ。」
「柔軟とは、都合のいい時だけ変わることか。」
リルが余白に書く。
〈柔軟とは、強者の言葉〉。
シノブは帳簿を閉じた。
「今日から、この市場を実験場にする。
だが主役は私じゃない。君たちだ。」
「何をすれば?」
「貼れ。示せ。隠すな。」
「命令では?」
「命令じゃないから、人は動く。」
陽が肩を照らす。
変化は留まらないからこそ残る。
拍手が波のように広がった。
手の熱が空に昇る。
帳簿の一行。
〈今日の結果:拍手37/反発12/微笑4〉。
「“人”も数に入れますか。」
「入れよう。行政の単位は、いつも人だ。」
紙を折る音が、次の頁の合図になった。
+
夕暮れ。
市場に灯がともる。
POS公開板は広場の中心で、
星座のように光を返した。
木板の紙は貼られ、剥がされ、また貼られる。
リルが帳簿を閉じる。
「取引百十二件。滞在時間四倍。購買率十五%上昇。」
「今日は、数字が人を待ったな。」
彼女は小さく書き足す。
〈POS公開板、市場の星座〉。
風が通り、天幕が鳴る。
「課長、倉庫の灯がまだ。」
リルの指が、遠くを差した。
鉄の扉の隙間から、赤い光。
「王立商業組合。」
「印が、赤い。」
行政はいつも、闇から始まる。
二人は灯を覆い、影に溶けた。
「今夜の分、正午の公示前に出せ。」
「価格は?」
「公示前は、ただの紙だ。」
「……公示前なら、記録が残らない。」
リルがペンを取って止めた。
「今は証拠より、明日です。」
箱に刻まれた文字。
〈スライムゼル(精製)〉。
削られた跡。〈商……組……〉。
匂いは甘く、重い。
シノブは手帳に記した。
〈21:46/ゼル取引/商業組合印/公示前〉。
インクの香りが夜気に溶ける。
「課長、明日は戦いですか。」
「違う。会計だ。
戦いは勝てば終わる。会計は記録が残る。」
「記録は怖いですね。」
「だから、美しい。」
倉庫の灯が消え、市場の灯が強くなった。
光は闇を食べて大きくなる。
帳簿の一行。
〈今日の利益:質問一つ〉。
〈明日の課題:スライムゼル流通網 公示前取引の追跡〉。
「課長、庁ができそうですね。」
「まだだ。
名前は仕事が終わってから付ける。
今は、質問が残ってる。」
風が紙を揺らす。
紙は落ちない。
人は掴むことを覚えた。
空に星が並び、
昼の数字のように光った。
「POSみたいですね。」
「そうだ。空はいつも、俺たちより先に計算している。」
シノブは微笑んだ。
「数字は嘘をつかない。
人が隠すだけだ。」
遠くで車輪の音。
重く、速い。
「課長、明日は値が上がりますか。」
「上がる。」
少し間を置いて、言葉を重ねた。
「明日は、統計が魔法になる。」
灯が揺れ、夜が市場の底まで満ちた。
POSのルーンが微かに光る。
記録の残光。
それが――内需の最初の息だった。
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