第2-1話 POSは魔法より強い
初心者の村の南にある王国の食糧配給所は、
朝の光の中で静かに閉ざされていた。
看板には金箔の文字が残っている。
〈国民の食を守る五カ年計画 ― 第三十次景気刺激勇者召喚プロジェクト〉。
シノブは扉の前で立ち止まり、
長いあいだ、その文字を見つめていた。
窓ガラスに反射した日差しが、
「食糧確保」のうち「食」だけを残して、
他の文字を白く飛ばしている。
その隣、薄れて読めなくなった古い文字の跡があった。
〈魔王討伐支援予算〉。
「討伐は、もう予算切れか。」
独り言のように呟いた声が、
乾いた風に混じって消えた。
扉の向こうから、鈍い音が響く。
誰かがまだ中にいる。
シノブは慎重に取っ手を押した。
湿気と埃、腐った穀物の匂い。
長く閉ざされていた空気が、肌にまとわりついた。
床には芋の代わりに書類が山のように積まれている。
そのうちの一枚には、
〈食糧在庫管理表 担当:ドン・スターヴ〉
と印字されていた。
「まだ動いていたのか。」
シノブの声に、暗闇の奥から答えが返った。
「動いてるってより……生き延びてるだけです。」
声の主はツルハシを杖にして座っていた。
乱れた髪には砂塵がこびりつき、
手には分厚い統計表が握られている。
「第三十次召喚勇者、食糧担当のドン・スターヴ。
今じゃ、予算より雑草のほうが成長が早いですよ。」
シノブは手帳を開いた。
「記録上は“食糧復興成功”になっている。」
「記録だけは満腹なんです。」
ドンは統計表を放り出し、
床に転がる干からびた芋を拾い上げた。
「これ、三年連続で予算に載ってる在庫。
カビの方が先に補助金をもらったでしょうね。」
芋は軽く、乾いて、
もはや崩れるほどに脆かった。
「報告書としては完璧だ。」
「だから、誰も来ないんですよ。」
ドンは目を閉じ、
腹の底から空腹の音を立てた。
「うちのプロジェクトは失敗じゃない。
これが、貴族と行政が言う“自給率維持”です。
誰も食べない。だから在庫は減らない。」
シノブは片唇をわずかに上げた。
「統計上は、成功だな。」
「ええ。だからこの国は、腹が減っても笑ってます。」
「三十次の勇者たちは、まだここに?」
「ダンジョンじゃなく、市場に。
次の地域の入場税が八百ゴールドですから。」
ちょうどその時、
窓の外からゴブリン商人の声が響いた。
「ポーション半額! ポテトポーション、本日限定特価!」
人々がその声に引き寄せられるように集まっていく。
王国は今日も、ポーションで腹を満たしていた。
回復はしても、栄養にはならない。
シノブは書類を閉じた。
「補助金の項目に“人間用食品”は?」
「ないですよ。食べられるものは全部“消費財”です。」
「行政は?」
「空気です。高くて、透明で、腹は満たされません。」
ドンはその場に腰を落とした。
舞い上がった埃が、光を反射して踊る。
「なら、その空気を予算に入れましょう。」
「そんなこと、できるんですか。」
「この世界なら、何でも可能ですよ。
魔王でさえ、税を払う。」
ドンが笑い声を漏らした。
「あなた、第三十二次召喚ですね。」
「ええ。目を覚ましたら“勇者候補・後継予算”でした。」
「じゃあ、行政で農業をやってみなさい。
畑より書類の方が固いと分かりますよ。」
「なら、土より柔らかい報告書を書きましょう。」
ふたりは芋と書類を交換した。
干からびた芋と、真新しい用紙。
その日の結論は一行だった。
〈予算はカビより速く、芋は人より遅い〉。
シノブはそれを手帳に記し、
小さく息を吐いた。
「今日の最初の議事録、ですね。」
+
外に出ると、空は眩しいほど澄んでいた。
王国財務省が掲げる〈成長気象・晴れ〉とは、
おそらくこういうことを言うのだろう。
村の入口には〈前進基地〉の標識。
その下に落書きがあった。
〈前進基地 → 停滞基地〉。
シノブは笑い、
「次のダンジョンの入場料、八百ゴールドだったな。」
通りの冒険者がぼやく。
「スライムゼルの値、また上がったらしい!」
「もう魔王より税が怖い!」
誰もが魔王を目指すはずだった。
だが、誰もがこの村に留まり、
武器だけを磨いている。
王国はそれを〈内需循環〉と呼んだ。
消費は回り、人は止まった。
+++
初心者の村の中央広場は、
朝から人と声で満ちていた。
ポーション。剣。鎧。占い書。
そして、なぜか芋まで並んでいる。
ここは〈前進基地〉のはずだった。
だが今では、完全に〈常設市場〉だった。
魔王はまだ倒されていない。
けれど王国の行政は、戦より商を選んだ。
シノブは帳簿を片手に歩きながら、
露店の値札を一つひとつ確かめた。
「標準価格がない。
この国は税より商魂のほうが速いな。」
独り言のように呟き、
手帳に〈未整備〉と書き込む。
一日のうちに四度のセール。
五度の詐欺。
風も落ち着く暇がない。
それでも市場は生きていた。
人の声が通貨のように循環し、
匂いと音が交わって熱を生む。
「……ここでは、言葉が通貨か。」
そう呟いた瞬間、
広場の真ん中で閃光が走った。
銀色の馬車。
鏡のように光を反射しながら、
華やかに群衆を割って進んでくる。
「市民の皆さ〜ん!」
声が風を滑った。
やたらと耳に残る、劇場じみたイントネーション。
「私の名は――キース・ザ・ジェムストーン!
あなたの人生、今日だけ半額です☆」
馬車の扉が勢いよく開く。
中から光の粉が舞い、群衆がどよめく。
男は片手でイヤリングを掲げ、
もう片方の手で指を鳴らした。
「ポーションより安く、人生より高い!」
シノブは眉をわずかに寄せた。
「……また出たか。第三十一次産業勇者。」
帳簿を抱えたまま人垣を抜け、
キースの前に立つ。
「販売許可証は?」
キースは完璧な笑みを浮かべた。
「許可証? それは“信頼”ですよ。
王国が私を信じなくて、誰を信じる?」
「なるほど。
だから王国は破産寸前なんだ。」
群衆の間に、くすくすと笑いが走った。
キースは気にせず、さらに声を張る。
「見てください、この指輪!
ただの装飾ではありません!
これをつければ運三倍、売上五倍、
そしてインフレーション十倍☆」
「……それは呪いだな。」
「違う、成長です☆」
笑いが弾け、
シノブは無言で帳簿にペンを走らせた。
〈宝石指輪/原価不明/相場:虚勢基準〉。
「原料はどこから仕入れてる。」
「企業秘密です。」
「秘密は補助金の対象外ですよ。」
「じゃあ、魂で保証します。」
「王国では魂も担保に取ります。」
「……だから王が私を気に入ったんですね☆」
周囲からまた笑いが起きた。
シノブの無表情だけが浮いていた。
キースは、わざとマイクを高く掲げた。
「おい、行政官!
この世界は数字だけで回ってない!
光でも回るんだ!」
「確かに。
だが私の帳簿には、その光が“予算”として載っていない。」
「じゃあ、この宝石で計上してくれ☆」
シノブは空を見上げ、
わずかに目を細めた。
「……眩しい赤字だ。」
「えっ?」
書類を閉じ、淡々と告げる。
「いいだろう、キース・ザ・ジェムストーン。
今から君を〈庁の広報大使兼 市場価格標準化 実験対象〉に任命する。」
「広報大使? 似合ってる☆
……でも、“実験対象”って何?」
「君の売値の平均で、市場を調整する。」
「そんな! それじゃ僕の宝石が安くなる!」
「それが経済だ。」
「それは悲劇だ!」
「それが行政だ。」
風が通り、宝石が微かに鳴った。
シノブはその音に合わせて、
ペン先を一度だけ叩いた。
〈今日の結論:虚勢は予算より眩しく、利益は暗い〉。
キースが肩を落としながらも言った。
「局長、でもポスターは僕が綺麗に撮りますよ☆」
「頼む。ただし指輪は没収だ。」
「……庁の予算、きらきらですね。」
「それを錯視と言う。」
群衆が静まり返る中、
シノブは背を向けた。
風が帳簿のページを一枚めくり、
音だけが笑いの代わりに残った
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