嘘を摘む庭の魔女

桃神かぐら

第1話 瓶の温度は、心の形と同じ

 朝いちばんの風は、パンを焼いたみたいな匂いがした。

 私の店は、丘の途中にある小さな窓のある部屋だ。看板は出していない。

呼ばれた人にだけ、扉が見えるようにしてある。魔女の仕事は、誰にでも売るものじゃないから。


 棚には、小さな瓶が並んでいる。透明、琥珀、乳白 どれも蓋に布がかぶさっていて、指で弾くと、かすかな音がした。音の高さで中身がわかる。忘れたい記憶は低く鳴り、忘れてはいけない約束は高く鳴る。

私がそれらをあたため、撫で、少しだけ発酵させて、飲み薬に変える。


 扉の前で靴音が止まった。

「開いてますよ」

 言った瞬間、扉の方から「失礼します」と控えめな声がした。男の子だった。肩に母親のコートが掛かっている。布の端が泥で濡れていた。


「お母さんが、眠りすぎるんです。病気ってほどじゃないって医者に言われたけど、夜の間にどこかへ行っちゃうみたいで、朝になると疲れてて」


 言いながら、男の子はコートの内ポケットから、薄い封筒を出した。角がつぶれている。「これ、母さんの……忘れたい手紙。開けてはいません。中身を飲みに変えられますか」


 私は封筒の重さを手のひらで測る。紙の重さだけじゃない、時間の重さも

「開けるのは、最後でもいい?」

 彼がこくんと頷く。

「お代は?」

「今日はまだ、いりません。代わりに、あなたにひとつ頼み事」


 私は奥から鍋を持ってきて、湯気の立つお湯に蜂蜜と少しの塩、それからレモンを落とした。男の子にマグを渡す。温度は、話をほどく鍵になる。手が温まると、言葉もほどける。


「昨夜、お母さんはどんな夢を?」

「知らない人の名前を呼んでました。三回。優しい声だったけど、泣いてるみたいでした」


 私は棚から乳白色の瓶を取り、蓋を開ける。やわらかい音

「これを、薄めて今夜の寝る前に一口。……ただ、ひとつ条件があります」

「なんでしょう」

「この瓶が空になったら、封筒を半分だけ開けて、紙の端を火で炙ってください。煙が細くなったらすぐ消して。残り半分は私に返すこと」


 男の子は真剣な顔で頷いた。マグを両手で包む。湯気が彼のまつ毛に絡む。

私は目を落とし、封筒の角についた泥を指で払った。泥は、昨夜の雨の温度をまだ持っていた。


 その夜、私は自分の分の夜更かしを少しだけ増やした。窓を少し開け、街の寝息を聞く。遠くで犬が二度吠え、誰かの笑い声が一つ分だけ空へ消える。時間が冷えすぎないよう、小さな灯りをもう一つともす。


 午前三時、扉の向こうが鳴った。扉は叩かれていない。鳴ったのだ。呼ばれている。私は小さな鍵を外し、そっと開けた。

そこには誰もいなかった。代わりに、階段に白い花びらが三枚、落ちている。月光で淡く光っている類の白さ。夢のひだが、現実の裾に触れたときに落ちるものだ。


 私は花びらをすくい取り、乳白色の瓶へ一枚ずつ沈めた。瓶の中の液がほんの少し濃くなる。指先に、泣き笑いみたいな温度が残る。


 翌日、男の子がまた来た。目の下の影が薄い。

「昨夜、母さんがぐっすり寝て、朝に笑ってました。瓶のやつ、すごく効いたって。でも……言われた通りに封筒を半分炙ったら、煙が、すごくいい匂いがして。泣きそうになって、途中で勝手に消えちゃって」

「途中で? どの文字のところで?」

「名前の頭の一文字が見えた気がした。『あ』。それで消えました」


 私は頷いた。「いい消え方です」

 男の子は胸から封筒の残りを出して、両手で差し出した。中身は半分より少ない。紙の端が、雨上がりみたいに柔らかい匂いを持っている。


 私はそれを受け取って、店の奥の机に置く。封筒は、私の心臓のすぐ横に置いておくのがいい。体温が移ると、紙は落ち着く。


「お代の話を」

「ええ。頼み事、覚えていますか」

 男の子が姿勢を正す。

「うちの店の前の、丘の下に大きな楡の木があるでしょう。夕方、あの木の根元を掘って、小さな瓶を一つ見つけてください。布を巻いたまま、私に持ってきて」

「それだけで?」

「それだけで」


 夕方、男の子は泥だらけの手で戻った。掌に包むように、布巻きの小瓶を持っている。手の泥は、今度は昨日の泥とは違う匂い。少し甘い。

「これ、です」

「ありがとう。もう、お代は済みました」


 男の子は戸惑う。「中身、なんですか」

「……私の、忘れたものです」

 布を解くと、小瓶の中に薄く金色の液体が見えた。指で蓋を弾く。高い音。忘れてはいけない約束の高さだ。

 私は瓶を胸に当て、目を閉じる。液体の向こう側から、遠い呼吸が届く。名前のない笑い声が、夕焼けの色で染まっている。

 忘れたのではない。しまってあった。忙しい間に鍵をどこかへやってしまって、開けられずにいた。私は栓を少しだけ緩め、匂いを一息ぶん吸い込む。胸が痛くなるほど優しい。


「お母さんに、今夜は夢の入口を閉める方法も教えておきます」

 私は紙に小さな呪文を書き、縁に蜂蜜を塗って男の子へ渡す。

「寝る前に読むだけでいい。声に出さなくても、口の中で唱えて。甘い言葉じゃないけど、甘い匂いがしたら成功です」


 男の子は何度も頷いて、帰っていった。扉が閉まる音が軽い。人が安心して出ていくときの音は、木が笑う。


 夜が来た。私は机の上の封筒を手に取る。角がまだ柔らかい。私の体温がやはり移っている。

 封を切る。薄い紙が一枚、二枚。短い文章。丁寧な字。

 『あ なたへ』

 最初の一行目が、やさしく私の胸を叩く。

 読み進めるほど、椅子が少し軋む。あの頃の私の、息の仕方が紙の行間に残っている。夜の台所の匂い。冷蔵庫の灯り。手に残る粉糖。指先から落ちた砂糖の粒が、キッチンの床で一つだけ跳ねる音——。


 読み終えてもしばらく、指を紙から離せなかった。

 私は封筒を元の半分の大きさに折り、布を巻いて、棚のいちばん高い段に置く。隣には今朝拾った白い花びら。乾いて、やや透明になっている。


 扉がほんのわずか揺れた。鍵はかかっている。

「開いてませんよ」

 私は笑う。揺れは止む。風の仕業かもしれないし、誰かの挨拶かもしれない。


 翌朝、男の子が母親と一緒に来た。母親はコートの襟を直し、恥ずかしそうに笑った。昨夜の呪文はうまくいったらしい。目の下の影がすっかり薄い。


「ありがとうございました」

 母親の声は、ふところの広い川みたいだ。

「夢の入口は、日によって場所が違います。眠る前に窓を開けて空気の匂いを嗅ぐと、どこに口があるか、わかりますよ」


 母親は頷き、そして私に向かって、少し迷ってから言った。

「……あなた、どこかでお会いしたこと、ありませんか」

 私は少し笑って、首を横に振った。

「ないと思います」

 言葉は嘘ではなかった。会ったことがあるのは、私のほうの心だけ。記憶は瓶に寝かせ、香りだけを店に満たしている。


 彼らが帰ったあと、棚の瓶を一つずつ指で弾いた。音の高さが少し変わっている。昨夜の風が、何本かの瓶の表面を撫でたのだ。私は布の結び目を締め直す。瓶たちは礼儀正しい。頼られすぎると疲れるが、頼られないと萎びる。人と同じだ。


 昼過ぎ、窓辺に小さな影が立った。雀が一羽、窓枠をつつく。くちばしに色の薄い糸をくわえている。私はそれを受け取り、雀の頭をそっと撫でた。

「ありがとう」

 糸は封筒の角と同じ匂いがした。いつかの誰かが私に結ぼうとして、途中で手を止めた結び目。

 私は糸を指に巻きつけ、手首にひと結びした。きつすぎないように。ほどけない程度に。


 夕方、楡の木の根元へ降りていく。昨日、男の子が掘った穴はもう埋め戻されていて、土の表面がやわらかい。私は指で土を撫で、ひとつぶずつの冷たさを数える。指先が冷えすぎないうちに手を引く。温度は、戻ってこられる道の目印だから。


 店に戻って、湯を沸かす。蜂蜜を落とす前に、鍋の湯気に顔を近づける。

「おかえり」

 誰に言ったのかは、わからない。鍋の湯気が一度だけ強く揺れ、私の頬に触れた。涙ではない。熱のほうだ。


 夜、寝る前に、私は棚のいちばん高い段の瓶を一つ降ろした。小さな金色の蓋をほんの少しだけ開けて、匂いを吸い込む。

胸があたたまる。少し痛い。けれど、これくらいの痛みは、あったほうがいい。人は、痛みの輪郭で自分の形を知るから。


 明日も、誰かが扉を探して来るだろう。忘れたいものと忘れたくないものを抱えて。

 私は灯りをひとつ消し、もうひとつ残す。残した灯りが、静かに店の温度を決める。

瓶たちが、低く高く、順に鳴く。ふしぎと、合唱みたいに聞こえる。


 眠りに落ちる前、私は手首の糸に触れた。ほどけない程度の、頼りない結び目。

「おやすみ」

 小さく言う 扉の向こうで、楡の葉が一枚落ちる音がした。

 心は、まだ温かい 少し痛い。けれど、それでいい。ここは、そういう温度でできている。


 朝が来る前、私は夢の底で、誰かの指先に触れた。冷たくも熱くもない、まだ“決まっていない温度” 記憶が形になる直前の柔らかさだ。声がした気がした。けれど名前は呼ばれなかった。呼ばれない名前のほうが、長く残る。


 目を覚ますと、窓の外は薄い青だった。鳥がまだためらっている空の色。私は起き上がり、棚の瓶をひとつ、そっと振る。音は、昨日よりほんの少しだけ深い。眠った誰かが、ちゃんと帰ってきた証拠だ。


 店の前の道に、まだ人の足跡はない。けれど、土の匂いがほんの少し揺らいでいる。今日は、誰かが来る日だ。来ない日の土は、もっと静かで、もっと閉じている。


 私は湯を沸かす。明け方の火は、昼間よりやさしい。火の前に座っていると、心の中の皺がひとつずつほどけていくようだった。

「大丈夫ですよ」

 私はまだ誰にも届いていない言葉を、湯気の中にそっと置いた。


 扉はまだ閉じている。けれど、もう、気配がある。

 呼ばれた人は、必ず来る。迷わずに。迷っているように見えても

 この店は、そういうふうにできている。


 私は扉に手を添える。まだ開けない。

 けれど、その向こうで誰かが小さく息を吸った気がした。

 呼ばれる前に動かないこと

 動く前に、ひとつ分だけ待つこと

 そういう時間が、心をゆっくりとほどいていく。

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