黒い時間の港で
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遅れて届いた非常通報
第1章 遅れて届いた非常通報
東京湾から吹き上げる秋の風は、かつて「港区タワー群」と呼ばれた一帯のガラス壁面をなでるたび、ほとんど使われなくなった高層ビルの外壁で低くうねった。ここは、かつての超一等地だった。旧・自由競争の時代には、坪単価が狂ったように跳ね上がり、権力者や投機家、スタートアップの成功者たちが、自分の野心を形にするためだけにフロアを買い占めた場所だ。
だが今は、過去のロジックがほとんど無効になってしまっている。
米・大手AIプラットフォーム企業が電子計算機上に人間の思考と同等もしくはそれ以上と言い切ることができるモデルを構築することができたと発表し、AGI/ASIの完成が大々的に報じられてから既に五年が過ぎた。シンギュラリティの到来をきっかけに、社会は「市場による自由競争」を前提とした資本主義の限界を目の当たりにした。シンギュラリティが実現した時代において、株式会社が株主のために存在するという資本主義最大の常識が作用することで、単純労働も頭脳労働も瞬く間にデータセンタに鎮座する脳とローカルで動作する金属の身体に置き換わった。当然のように数億人規模のレイオフをもたらし、そのコスト削減の利益は全てAIプラットフォーマーの資本関係者に独占されるという構造は、先進国的人権意識のもとに受け入れられるわけもなく、各国の社会は示し合わせるように資本主義の崩壊を宣言した。各国政府が「ポスト資本主義社会への移行」を宣言してからおよそ三年。AGI/ASIの普及と自律的な生産・分配システムの稼働によって、旧来の「所有による優位」も、「雇用による支配」も、目減りするように価値を失っていった。労働人口の半分が実質的に「国家=自治アルゴリズム」の配当で暮らすようになり、一部の業務――人の感情を扱う分野、法的な境界を判断する分野、歴史や文化を再編集する分野――だけが、かろうじて人間の居場所として残った。
とはいえ、かつて高すぎる値札が付いていたこれらのビル群が、すぐに消えてなくなるわけではない。構造物はしぶとい。誰もが見なくなってからも、都心には巨大な箱が縦に積み上がり、「かつてここでは莫大な価値が回っていた」という記憶だけが残る。今日、事件が起きたのは、そうした「記憶の箱」の一室だった。
午前4時12分。警視庁のコールセンターに、遅れて届いた非常通報があった。
音声パケットのタイムスタンプは午前2時53分。送信は自動。だが実際に回線に乗ってきたのは1時間以上あとだった。港区芝浦三丁目、旧・アセット東京第17ビル、45階西側オフィス。「異常な生体反応の停止を検知」。内容はそれだけ。だが送信端末のIDを見た受付の職員は、すぐにビルの名前に目を留めた。
――ああ、あそこか。まだ残ってるんだ、あの人のフロア。
警視庁捜査一課の高槻怜(たかつき・れい)警部補が、その連絡を受けたのは4時半を回ったところだった。彼女は独身で、ここ数年、夜勤のあるシフトを選ぶことが多くなっていた。日中は、AI司法補助システム「AJ-Lex5」が大半の軽微事件を自動処理するため、人間の刑事が呼ばれるのは、どうしても「人間の意図」や「関係性」や「政治性」を読まなければならない案件に限られる。つまり、厄介な事件だけが夜間の人員に回ってくる傾向があった。
「高槻さん、起きてます?」
通信室の若いオペレーターの声が、スマートリグの耳内スピーカーからした。怜は仰向けに寝かせていた椅子を起こし、薄暗いフロアを見回した。夜勤とは言っても、ここはほとんど灯りのつかない、昔の「出勤前の署」とは違う。端末はすべてクラウド上、報告書の起案も音声と視線でできる。広いフロアに、ほとんど人はいなかった。
「起きてる。通報?」
「はい。でも、タイムスタンプが妙で……ちょっと来てもらっていいですか」
数分後、怜はオペレーションブースに入った。正面のスクリーンには、港区の3Dマップと対象ビルの断面図が表示されている。ビルの45階が赤く点滅していた。
「旧アセット東京17。所有名義は……」
「一応、まだ彼の名義です。正確には、彼が持っていたファンドの残余資産ですが」
「彼って、もしかして」
「ええ。――神宮司泰晴(じんぐうじ・やはる)」
怜は眉をひそめた。忘れようにも忘れられない名前だった。
神宮司泰晴。かつて、首都圏でオフィス・商業複合ビルをいくつも持ち、港区でも最も「時価総額の高い個人保有不動産」を持っていた男。十数年前、まだ資本主義が全開だった頃には、彼の投資判断ひとつで、周辺の地価が数十パーセント動いた、とまで言われた不動産王だ。
その彼が、制度転換後に「自主的共同所有制への一部移行」を公言し、大きなニュースになったのを怜も覚えている。旧来の資本家が、自ら持っている物的資本をコミュニティに開放する――それ自体が、あの時代の混乱と期待を象徴していた。
三年前、他の欧米諸国と足並みを揃えて日本でもポスト資本主義社会への移行が宣言された際、一部過激国では政府主導で強権的に資本家たちから資本の共有資本化を進める、つまり政府が資本家の全てを取り上げる政策が進められる中、その混乱を脇目で見ていた日本政府は「あのような社会的動乱を巻き起こすわけにはいかない」と判断し、融和的かつ対話的に資本家と社会の間の「段階的資本移行」を進めることで合意がとられた。
あの時代、かつての労働者階級のルサンチマン的精神の矛先は明らかに資本家ー特に巨大資本を有するかつての勝ち組と呼ばれる存在であったなか、神宮寺が政府との資本移行の対話に積極的に参加する姿は、当時の多くのロウワーミドル的階級の庶民の溜飲を下げることにつながった。
当時からイチしがない公務員であり資本も持っていなかった怜も例に漏れず、資本家から資本が社会へと流れる様に満足した気持ちを抱いた。
そして何より、神宮寺が先頭に立ち対話を進める姿勢により、日本における他の資本家の資本移行は急激に進んだ。
「でも、彼、あのビルの所有権は完全に移行して共有資本化されたって聞いた気がするんだけど。」
旧アセット東京17は、まさに神宮寺の富の象徴とも言えるビルだったこともあり、その資本移行が本格的に始動することは、ニュースでも大きく報じられ、怜も度々そのことを見聞きした覚えがある。
「それが、たまに来てたらしいんです。あの45階だけは、移行後もプライベートオフィスとして残してたようで。土地もビルも共有資本移行化に同意してたのに45階だけは彼のファンドと移行局の共同保有を当分継続することを要求していたらしいですよ。なんでもあのビルを移行する条件にまでしていたそうで、移行局もあの大規模資本の移行を実現するためって、その条件飲んだんだとか。多分、神宮寺からしたら昔の“個室”の感覚を手放せなかったんでしょうね。あの45階のオフィス元々資本家時代に実際使っていたオフィスだったそうですから。今はほとんどの旧資本家も政治家も、個室オフィスを大々的に持たないようになってきたのに...」
「……で、そこで“生体反応の停止”ね」
怜はスクリーンに目を戻した。非常通報の元はビルに組み込まれている旧式と新式のハイブリッド監視システムで、AI建物管理会社が遠隔で管理している。だが、問題はそこではない。通報が1時間以上遅れた。その遅延はなぜか。
「管理会社に繋いで」
「はい。……繋がりました」
スクリーンに、やや眠そうな中年男性の顔が現れた。背景は簡易なバーチャルオフィスだ。怜は簡潔に自己紹介し、本題に入った。
「2時53分に45階で異常があったはずです。それが4時過ぎるまで、なぜこちらに上がってこなかったんですか?」
「それがですね、刑事さん……。うちのアラートゲートウェイが、深夜帯のトラフィック削減で低優先に落ちてまして。今月に入ってから、警視庁への自動通報は高優先のものだけに――」
「人の生体反応の停止は、どの優先度ですか」
「本来は高優先です。ただ、ええと……そのフロアが“旧式専有”とマークされていて、居住者のメタデータ更新がなかったため、システムが“無人の可能性”として低優先に落としていたようで……」
「つまり、古い資本のために残してあった“人の居ないはずの部屋”で、人が死んだ。それを今の社会の標準システムが、あまり重要じゃないと判断した」
「……そう、いうことに」
怜は鼻先で笑った。新しい社会は合理的だ。だが、合理的であるがゆえに、かつての富の痕跡や、そこにまつわる人間臭い執着を読み取ることが苦手だった。旧来の資本主義が産んだ「一人だけのための豪奢な部屋」。旧資本家や政治家が個人オフィスを「保有する」ということを避けるようになってきているこの時代、移行局との共同保有とはいえ、個人が保有する部屋。しかもあの神宮寺の元の富の象徴とも言えるビルの一室。
正直世間に知られれば、かなり面倒なことになる部屋だ。移行局との共同保有であることをうまく利用し、完全な移行庁保有で非居住の整備中区分の部屋とでも設定し、管理会社には登録していたのかもしれない。そのメタデータを参照した優先度づけAIが低優先に落とした...
ない話ではない
「わかりました。すぐ現場に向かいます。――警備ドローンは?」
「現場フロアのドアはロックを維持しています。中の状況は、室内カメラが遮断されているため、まだ……」
「遮断?」
「はい。室内のプライバシーモードが手動でオンになっているようで。オーナーレベルのパスでないと解除できません」
「つまり、誰かが中でプライバシーモードをかけ、その後で“生体停止”が起き、通報は遅れた」
そこまで言って、怜は顎に手をあてた。
これは、ありふれた孤独死や健康疾患ではない。もしそうなら、プライバシーモードをわざわざオンにする必要がない。しかも、夜中の2時台。ビルは半ば廃墟のように静まっている時間だ。
「現場保存のために、ドアの遠隔解除は私たちが着くまでしないでください。中にいる可能性のある人間も、ドローンで無理に取り押さえないように」
「了解しました」
通話を切ると、怜はすぐに現場班の呼び出しをかけた。といっても、今の「現場班」はかつてのような大部隊ではない。法医学ドローン、採証モジュール、そして人間は2名。彼女と、もう一人。相棒の名前を口にしたとき、耳内でぶっきらぼうな声がした。
「……また夜中かよ、高槻。俺、明日子ども連れてセンター見学なんだぞ」
「明日でしょ。今は今日。働きなさい、柏木(かしわぎ)」
「はいはい。場所は?」
「港区芝浦。旧アセット東京17。45階の西側」
「あー……あそこ、まだ残ってたんだな、神宮司の。あの人、結局どっち側に転んだんだっけ」
「それは、現場で死んでたら訊けないね」
◇
午前5時ちょうど。空がようやく灰色にほどけはじめたころ、怜たちはビルに着いた。周囲にはほとんど人の姿がなかった。昔なら新聞配達や飲食店の仕込みで軽トラックが入ってきていた時間だが、今はどれもドローン搬送と自動厨房で済んでいる。ビルの足もとには、管理会社の小さなロゴと、かつてのオーナー企業の色あせた看板だけが残っていた。
エントランスで、ヒューマノイド警備機が出迎えた。だが、その動きはどこかぎこちない。後づけでアップデートされた旧型モデルなのだろう。今の最新型のように、目線や間の取り方が人間らしくない。柏木はそれを見るなり、ふっと笑った。
「時代遅れの人間と、時代遅れのロボ。いい組み合わせじゃん」
「うるさい。入るよ」
エレベーターで45階に上がる。かつては高額の家賃を取っていたフロアだが、今は廊下の天井照明も半分しか点いていない。節電と、利用率の低下。人間がいないと、建物もどこか寂しくなる。だが、怜はこういう「過去の価値の残骸」が嫌いではなかった。ここには、人間の欲望が目に見える形で残っている。
西側に向かう廊下の突き当りに、そのオフィスのドアがあった。旧式の重たい観音開きのドア。その上に、新しいセキュリティプレートが貼られている。管理センターのオペレーターが、こちらの到着を確認してから、ロックを順に外した。重い金属音。続けて、室内のプライバシーモードが手動解除される。
「開けます」
怜がドアを押すと、かつての豪奢なオフィスが、薄青い非常灯にだけ照らされていた。床は分厚いカーペット。壁には、昔の港区の夜景を撮った巨大なパネル。天井は高く、壁一面に可動式のガラスパーテーションがあり、そこに「会長室」「応接」「ミーティング」などのホログラム表示が浮かんでいる。だが、ほとんどのパーテーションは今は開いており、広い一室のようになっていた。
そして、その中央付近に、人が倒れていた。
怜はまず、鼻で空気を嗅いだ。血の匂いは……ある。だが、それほど強くはない。長時間放置ではなさそうだ。床に倒れているのは、60代後半と思しき男性。白髪まじりの髪をオールバックにし、寝間着ではなく、きちんとしたシャツにジャケットまで着ている。まるで、これから誰かと会うか、リモート会議に出るかのような格好だ。だが、胸元に深い傷がひとつ。ナイフか、鋭利な工具のようなもので刺された跡。シャツが赤く濡れている。
怜は視線で、法医学ドローンに合図した。ドローンはすぐに男性の周囲に浮かび、小さな光を当ててスキャンを始める。血液の拡散、体温、硬直の進行度、傷の深度。室内の気温と、ドアが開いた瞬間の気圧変化も合わせて、死亡推定時刻が算出される。
《死亡推定時刻 午前2時40分〜2時50分のあいだ》
《凶器:幅2.5cm前後の鋭利刃物。刃渡り15〜18cmと推定》
《方向:胸部正面 やや右上から左下に向けて一突き》
《自傷の可能性:低》
《抵抗痕:軽微》
「自殺じゃないな」と柏木が言った。「自殺なら服をここまできれいにしてやらねえよ」
「それに、プライバシーモードをかけて自殺する人はあまりいない。見つけてほしいなら、むしろ解除するはず。――他殺で間違いない。問題は、どうやってこの階に」
「非常階段は?」
「監視ログがある。……って言いたいところだけど、プライバシーモードで室内カメラが落ちてた。廊下側は?」
「廊下のカメラは生きてる。……おっと、でもプライバシーモード中は廊下の扉前の顔認証ログもマスクされる仕様かよ。昔の金持ち向けオプション、まだ残してんのかこれ。」
柏木が舌打ちした。怜も内心、同じことを思った。
かつての資本家は、オフィスでも自宅でも、誰が訪れたかを外に残さない権利を金で買った。社会の変革で多くのオプションが廃止されたが、既存契約の一部は「権利の遡及廃止はしない」という取り決めで残された。旧来の特権は、消しにくい。完全にラディカルな再配分が行われたのは、あくまで物的資産と基礎インフラであって、細かい「プライバシーの特権」までは手が回らなかったのだ。
つまり、この旧完全遮断プライバシーモードが動作していた間は、誰がこの45階に入り、出ていったかを記録したセンサーが存在しないというわけだ。
――その歪みの中で、人が殺された。
怜は、男性の顔をまじまじと見た。ニュース映像で見たことがある顔だ。ある時は豪腕の不動産王として、ある時は「資本の社会的返還」を語る転向者として。年齢のわりに引き締まっており、肌の手入れも行き届いている。だが、今は瞳孔が開き、天井の非常灯の反射だけを映していた。
「被害者、神宮司泰晴。ほぼ間違いない」
怜は胸ポケットから個人端末を出し、音声で報告を起こしながら、部屋の中を見回した。床には倒れた椅子がひとつ。ガラスのコップが割れ、透明な液体がこぼれている。酒の匂いはしない。水か、あるいは無味の栄養ドリンクか。デスクの上には、いまだに“紙の資料”が綴じられて置いてある。今となっては珍しい光景だ。資本家の世代は、どうしても紙を捨てきれない。
「なあ、高槻」
柏木が、デスクの端末を指さした。端末には、ログアウトされていないままのセッションが開いている。そこには、最新の「東京ベイ地区 資産・権利移転計画(暫定案)」のようなファイル名が並んでいた。
「こいつ、まだ手放してなかったんだな」
「あるいは、どこまで手放すかで揉めてたか」
怜は、端末の画面に浮かぶ文言をざっと目で追った。そこには「共同所有組合への段階的譲渡」「国家アルゴリズムによるインフラ一括管理との整合性」「旧所有者への象徴的リターンの付与」「早期移行における追加インセンティブ」などの言葉が並んでいる。要するに、こうだ。
――一度はすべてを持った人間が、その大部分を社会に返す。そのとき、どこまで「顔を立てるか」。
それは、ポスト資本主義社会が始まってからずっと続いている、静かな交渉だった。人々は「AIが全部やってくれる」世界を受け入れるかわりに、過去の不平等が「なかったこと」にはならないよう、象徴的な儀式を重ねてきた。資本の返還に際しては、旧来の資本家の名前を列挙したモニュメントを建てるとか、一定期間は“名誉役職”を与えるとか、子孫には基礎市民配当とは別の文化枠を与えるとか。後戻りできないほどに進んでしまった自動化に、人間の感情をかろうじて接続する試みだ。
――だけど、誰かはそれを気に入らなかった。
「一つ、気になることがある」
怜は言った。「通報が遅れた理由。管理会社は“無人の可能性があったから低優先になった”と言った。でも、ここの室内センサーを見る限り、2時30分から2時50分の間に、人が二人以上いた記録がある」
「二人?」
「この空気循環ログ。室内のCO₂濃度の上昇カーブが、明らかに一人分より急だし、入退室時の気圧変動も二回ある。だれかが入って、だれかが出てる。……なのに、廊下側のログはマスクされたまま」
「つまり、プライバシーモードを知ってて、使ったやつがいる」
「そう。神宮司本人か、あるいは、彼に“ここはマスクになるから安心だ”と吹き込んだ誰か。――どっちにしても、今の時代にこんな古い特権を使いこなせるやつは多くない」
柏木は腕を組んだ。元エリート営業らしく、こういう「誰が使えるか」という話になると、人間関係を頭の中で繋ぎはじめる。
「旧港区の連中か、あるいは移行局の上層か、もしくは一部のAIプラットフォーマの人間か……。あいつら、まだ“特別なフロア”持ってるって噂あるしな」
「AIプラットフォーマ」
怜は、わずかに目を細めた。
巨大AIプラットフォーマ――旧世界の最後の勝者たち。彼らは、AGI/ASIを最初に実用化し、世界の多くの労働を代替し、結果として「国家による再配分システム」の外側に、ばかげた規模のサーバー群と知的資産を抱え込んだ。各国政府は政治的な安定のために、その多くを接収または共同管理に移したが、すべてを取り上げることはできなかった。ほんのわずかに、旧来の「企業権限」が残っている。その残滓は、いまや新しい時代の“影の資本”になろうとしている。
――そして、神宮司泰晴は、そのど真ん中にいたか、もしくは踏み込もうとしていた。
「まずは、神宮司の身辺を洗う。移行局で誰と交渉してたか。最近の財産の仮移転先。古い不動産仲介AIとのやり取り。あと、家族」
「家族って、確か息子が一人と、前妻の間に娘がいたっけか。息子は海外に出たまま戻ってきてねえって話だが」
「娘は日本にいるはず。――ただ、どっちも、父親の“変節”をどう見てたかはわからない」
怜は、床に残った小さな黒い粒に目をとめた。カーペットの毛足に入りこんでいるが、かろうじて光を反射している。採証モジュールにピックアップさせると、すぐに分析結果が浮かんだ。
《複合材料片。ナノ導電繊維を含む。推定:高機能グローブ外層の一部》
「手袋をしてた?」と柏木。
「そうみたい。――つまり、指紋は期待できない」
怜は小さく息を吐いた。
夜明け前のオフィス。かつては資本の象徴だった場所で、資本家が殺されている。プライバシーモードで外界は遮断され、通報は遅れ、凶器は残っていない。犯人は手袋を使い、古い特権を知っている。これは、ただの怨恨殺人の枠には収まらない。どこかで、「旧世界の権力」と「新世界の再配分」の境目が、ひずんでいる。
「高槻」
「なに」
「これ、面倒なやつだろ」
「うん。たぶん、“誰が得をするか”をたどらないといけないやつ」
怜は、窓際に歩いた。ガラスの向こうには、まだ光の少ない東京湾が広がっている。かつて巨大なコンテナ船やクルーズ船が行き交っていた港は、今はほとんど無人の物流プラットフォームになっていた。自動クレーンが無人のままコンテナを移し替え、AGIが最適な航路と配送スケジュールを組む。人影は、ほぼない。
――人がやる余地がない世界のはずなのに、人が殺される。
そのアンバランスさが、怜にはどうしようもなく気味が悪かった。自動化と公平な配当で「貧困はなくなる」と言った政治家たちは、きっとこの現場を見たら口をつぐむだろう。貧困は減ったかもしれない。だが、不満や、過去への怒りや、奪われることへの恐怖は、消えなかった。むしろ、旧来の資本が「社会に返される」瞬間にこそ、最も激しく噴き出す。
事件は、たぶん、その噴き出した部分に触れている。
「じゃ、始めましょうか」
怜は振り返り、ドローンたちに室内の完全スキャンを指示した。「――資本主義の終わりに起きた殺人だ。丁寧にやるよ」
こうして、ポスト資本主義時代の東京で起きた、旧・資本家殺害事件の捜査が始まった。
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