ひなた望む、さんごの夏や
裃左右
ひなた望む、さんごの夏や
チリンと鳴る風鈴。仏壇に向かい、亡き夫へ線香をあげては暫し。
外には、冠着山の稜線が鮮やかに横たう。千曲の夏も、もうすぐ盛りを過ぎていく。
望月 珊瑚の楽しみは、月に一度の朗読会だけだった。
「望月さん、秋の朗読発表会、出てみない?」
老人クラブの朗読仲間から、差し出された申込用紙。
珊瑚は曖昧に笑い、手を振った。
「もう、わたしは聴くだけで十分よ」
そう断る奥で、若かりし頃の疼きが、まだ仄かに燻る。
たまに茶飲みに来る友以外に立ち寄らぬ、静かな古家。煌きが訪れたのは八月の半ば。
「ばあちゃん、久しぶりだね! 今年も来たよ」
「こんなところに、毎年よく来るわねえ」
姪孫のヒナタだ。親戚付き合いの薄い珊瑚を、なぜか実の祖母のように慕ってくれている。
「へへん、なんだか居心地いいからね。ばあちゃんの家」
華やぐ空気。しかし、勝手知ったるヒナタは探検家のように歩き回る。だから、眠っていたそれを見つけるのも、時間の問題だったのだろう。
「うわ、なにこれ!」
ヒナタは古びたトランクの留め金を外して、見つけてしまった。現れたのは、若かりし珊瑚の夢。
燃えるような、赤いドレス。
「綺麗だねえ、ばあちゃん。これ女優さんの時代の?」
無邪気な瞳が、射抜いてくる。ずきり。
たった一度、主役として舞台に立った時の衣装。あまりに眩しい過去は、皺だらけの今の自分にはもう似合わない。
「昔の話よ」
珊瑚は、そっと蓋を閉めようとした。
「もったいないよ! あっ。ばあちゃん、朗読発表会にこれ着て出なよ!」
「はあ。もうやめておくれ、こんな派手なものもう似合わないわ」
溜息つく珊瑚。
でも、ヒナタは怯まない。ふーん、とドレスを眺めると、いつも着ている柄物シャツを手に取った。
「じゃあさ、こうやって中に一枚着ちゃえば?」
すると、確かに大胆な胸元のラインが隠れ、不思議と落ち着いて見える。
「ほら、あとはここが寂しいかな~」
ブローチをひとつ。さらにヒナタは、気ままに化粧ポーチからガラス瓶を取り出す。
「おばあちゃんとおんなじ名前の色。ネイル、してあげる」
コーラルピンク――珊瑚色のマニキュアだった。
「えっと。この年でそういうのは……」
「いいから、いいから。わたしねー、こういうの上手いんだって」
戸惑っているうちに、手を取られた。
ヒナタは丁寧に一塗りずつ、色を乗せていく。節くれだった指先に、瑞々しい珊瑚が灯る。
促されるまま鏡の前に立てば、あの頃とは違った自分が頬赤らめていた。
「少し、派手じゃないかしら」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「ううん、すごく綺麗だよ、ばあちゃん」
差す西陽。発表会の申込用紙が、穏やかに机の上で珊瑚を待っている。
そう、棄てられることなく。
――還るかな。冠着の峰、手を引かれ。
――ひなた望む、さんごの夏や。
ひなた望む、さんごの夏や 裃左右 @kamsimo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます