終末の孤島

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終末の孤島

 雄大に広がる大海を前に──さらには、砂浜に押し寄せては消える小波を両の足背そくはいで感じつつ、宮田は考えていた。

 ライター、ナイフ、スマートフォン。あるいは、海水を純水に変える装置。

 無人島に一つ持っていく物といえば、という話題がある。それは、その面白さの程度と、無言の気まずさを埋めるために微妙な仲の友人に対して繰り出す頻度において、血液型占いや、キノコ、タケノコ戦争などと並ぶ話題で、かくいう宮田も、これまでの人生であらゆる人物から頻回に使用されてきた。

 大学入学当初、ある授業でたまたま隣に座ってきた女と喋ることになり、後日、食堂で再会したとき、なぜかその話題になった。宮田はライターと答えた。女が、「へえー」と、平坦に言ったのを覚えている。

 次に食らったは、入社面接のときだ。志望理由やキャリアプランに続いてその攻撃が繰り出されたとき、宮田は耳を疑った。しかし面接官に確認すると、「はい、無人島に、一つだけ、持っていく物です」と文節を丁寧に区切られたので、仕方なく適当に、サバイバルナイフを選んだ。返答は、電話越しの、「今後のご活躍を応援しています」という言葉だった。

 そして、最後に食らったのは、確か去年の夏、同僚の岩井と喫煙所で暇していたときで──。

 そこまで考え、我に返る。無数の小さな波の中で一際大きな一つが宮田の膝を襲っていた。転びそうになるのを踏ん張って耐える。

 おおかた、水平線の遠くに浮かぶあのタンカーが、もしくはあっちのタンカーが、それかそっちのタンカーが寄越よこしたものだろう。貴重なスーツに塩水が染みこんだ。

 今は夏なので、衣服が濡れたところで凍傷の心配はない。しかし、長期の湿潤環境は、いくらポリエステル製のスーツといえども、簡単にカビを生やす。塩分である程度の殺菌作用はあるかもしれない、そもそもそれまで生きていられるかは分からないが、それでも、無闇に濡らさないことが最上だ。

 宮田はため息を吐いた。同時に下を向いたので──首の後ろに刺すような感覚──うなじが日光に晒された。

 暑い。汗が止まらない。日陰はないかと辺りを見渡すが、太陽はちょうど下り始めた頃で、砂浜には際立った日陰はなく、日光から逃れたければ、砂浜の背後に広がる鬱蒼うっそうとした緑の世界に立ち入るほかない。

 だが、夏の森は大量の毒虫が湧く。蜂、蟻、ムカデ。小さいものだと、蚊、ダニなど。上半身こそ長袖を着ているが、足はなんと素足だ。数メートル歩くだけで、忽ち、連中に噛みつかれるだろうことは、火を見るよりも明らかである。

 しかし、だからといってこのまま、砂の感触を味わっているわけにもいかない。今こうしている間にも、太陽は着実に西へと移動しているのだ。世界は宮田を決して待たない。付け加えるなら、ここで言う世界とは宮田の心以外のすべてを示し、つまり宮田の身体が持つ水分や熱量も、宮田を決して待たない。

 すなわち、毒虫の有無に関係なく、今すぐに森に入って水源と食料を探さないといけないのだ。

 そのような結論に至った宮田は、まず水平線に見えるタンカー群を意識の外に追いやり、次いで膝下が濡れたズボンを悔やむように触り、ようやく森へと歩き出した──右脚、一歩目で砂浜に埋まっていた小石が足底に突き刺さったので、なによりも先に、ここにあるもので不格好な靴を作ろうと決めた。


 海辺に落ちていたひもを、同じく海辺に落ちていた、半分に割れたペットボトルの縁で適当に切断する。足を覆う面として、森の入り口に生えていた名前の分からない樹木の葉──幅が広く、なかなかに分厚い──を採用すると、作った紐と葉で靴を作った。

 サバイバル知識などまともに持っていないので、紐の最適な結び方が分からず、葉に紐を通した後に紐の末端を解けないように固定するだけで、体感だが、一時間は掛かってしまった──なんと、汗をぬぐって空を見ると、すでに太陽は沈み、西の方は濃い橙色をしていた。

 夕焼けということは、雨が降ることはないのだろうが、ゲリラ豪雨までは予測できない。急いで寝床を作らなければ。

 宮田は新品の靴を履いて、森に入り、手頃に屋根になりそうな葉を探す。

 頭上を丈夫な林冠が覆うこの場所では、空の明かりもほとんど遮られ、目をこらさなければ、遠くの樹木の形はおろか、自分の足元の様子すらもはっきりとしない。あと数時間が経てば、おそらく自分の指の動きまでも不確かになるだろう。発展した日本の街ではついぞ経験できなかった、真なる夜の闇ということだ。

 危機管理、また、心の安然という意味でも、十分な寝床とは別に、焚き火の準備をしなければなるまい。

 宮田は歩く。

 枯れた落ち葉の山を踏み壊し、行く手を阻む雑草をはねけ、その雑草に棘があったので血を流し──それでも雑草をどうにかしないと先に進めなかったので、さらに血を流し──宮田は歩く。

 幸運にも、宮田の背丈ほどの大きさの枝葉が複数、すぐに見つかり、その枝葉を立てかけるのにちょうど良い樹木も、森の入り口に近いところで見かけていたので、寝床には困らなさそうだった。もっとも、寝ているときに毒虫が這い上がってくる心配は、知識不足の宮田にはどうすることもできないが。

 枝葉を集め、それらを印を付けた樹木まで早足で運ぶ。ふぅ、と一息吐いたら、靴のときと同じくそれっぽい形になるように、砂浜に捨てておいた、余っていた紐も使って、宮田は屋根を組んでいく。

 支柱となる太い枝と、そこから肋骨のように広がる細い枝を組み、その上にひたすら葉付きの小枝を乗せていく。全体のバランスを取ることに幾度か失敗し、その度に一から支柱を立て直す羽目になったが、空が完全に暗くなる頃には、宮田一人をすっぽりと包み込む立派な屋根ができていた。

 最後の仕上げに、屋根の下、落ち葉や枯れ枝を払った平坦な地面に、屋根と同じ調子のふかふかの葉を敷けば、ついに寝床の完成だ。

 感極まり、涙が流れる。

 すでに夜に突入している、ズボンもとっくに乾いた、腹も減り、喉の渇きも限界だ──早く食料を見つけ、そして火起こしをしなければいけないとは分かっていたが、今はとても我慢できないので、泣きながら寝床に横になる。

 これは本当に感動の涙なのか、空腹による涙ではないのかなどと、自分自身のことなのにいささか宮田は疑問だったが、とにかく、昼間から働き詰めだったこの身体を休めたかった。

 ──どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 涙をかき消すように目を閉じると、まぶたの裏に母の顔が浮かんでくる。シングルマザーの母は独り、毎日夜の十時まで働き、宮田を大学へと進学させて、その後、なにかのスイッチが切れたかのように、肺炎でポックリと逝った。五十一歳。肺炎といっても普通の肺炎ではなく、日和見ひよりみ感染という、日常的な強いストレスによって免疫機能が落ちた人がかかる特別な肺炎だと、医者は言っていた。

 先月、宮田がリストラに遭ったのも、母と同じ、日和見感染が原因だ。

 宮田の場合は肺炎ではなかったが、なにか、身体中が不自然に重く、なにをやるにしても息を切らすようになった。

 慢性かぜ症候群。ごく普通のかぜを延々と繰り返す、不思議な病気だ。かぜ薬も飲んだが、いつまで経っても咳が治まらない。一ヶ月経ってやっと病院に行ったが、医者は、薬や点滴は必要ない、ストレスのない生活を続けていれば、いずれ必ず治る、と言うだけだった。残業上等の施工工事に勤める宮田にとって、ストレスのない生活というものこそがなによりも難しい治療法だった。

 当然、会社に相談した。頭の固い上司のことだからと、自分が病気である証拠として医者の診断書を持って、まるで裁判に挑むような気持ちで休暇を要求した。

 今振り返っても、やはり自分の非はどこにもないような気がする──結局、上司は辞任届を差し出してきた。書け、と高圧的に言われると、脳裏に母の姿が浮かんだ。

 その封筒を受け取らず、むしろその場で破り捨てて、威勢良く労働組合かなにかに通告する、という行動は、宮田には到底無理なことだった。


 翌日、宮田は目を覚ます──周囲のすべてが緑である。一瞬、なぜ自分は森で寝ているのだろう、と考えたが、冷静に瞬きをすると、昨夜、火を起こさず、あのまま寝落ちしてしまったことに気づいた。

 林冠の隙間から差し込む日光で太陽の角度を観察すると、どうやら早朝のようだ。空気はまだほんのり冷たい。

 せっかくだから太陽を見たい。なにがせっかくなのか、太陽を見てどうするのか、そういう理屈は頭の端に追いやり、宮田は砂浜に出ようと身体をひねる。すると、両の足底に激痛が走った──間違いなく、昨日、未熟な靴で森を歩き回った弊害へいがいだった。

 仕方なく、太陽は諦める。その変わり、今、ここでできることを済まそう。そう考えて、宮田は側に落ちていた小枝を拾う。その小枝はそこそこに真っ直ぐで、節も少なく、先端の尖りも甘いようだった。

 これならギリギリいけるだろうか。宮田は小枝を両手の平で挟み、ゆっくりと、そして徐々に早く、枝を回転させる。火起こしをしてなにをするのか、宮田はまだ決めていないが、側に火があることを想像するだけで安心する思いだった。

 ──そのとき、木々の隙間から見える砂浜に、人が歩いているのが見えた。しかも、その人は、宮田の方へと向かってきているようだ。

 会おうか、会わまいか。宮田は悩む。

 ここへは自殺をするつもりで来た。実際、人気がない、かつ生身で立ち入れる砂浜を全国中から探し出し、乗ってきた車の鍵も、ここへ着いて早々、海へと放り投げた。

 無人島は逃げ道がないからこそ危機たり得る。宮田は擬似的な無人島をここに作り上げた。

 状況は、ライターもナイフも、スマートフォンも、なにもかもがなく、あるのは雄大に広がる自然と、着ているスーツだけ。この状態で運良く生き延びられたら、それはそれで経験として今後の人生で重宝するかもしれないし、死んでしまっても別に問題ない──母と仕事をなくした宮田には、もう、生きる理由がない。

 宮田は小枝をそこら辺に放り投げ、寝床に横になる。自分の生き死にを、今だけは、あの人影に委ねることにした。

 彼、もしくは彼女が、偶然、宮田のいる場所へ歩いてきたら、その場合は宮田も諦めて、人間社会に戻るだろう。反対に、彼女が森に入るのを躊躇ったり、草木が邪魔して宮田を見つけられなかったりしたら、今度こそ、宮田はこの森で生きることを決意するのだ。

 さて、彼女はどう動く。

 寝転がって運命を待つ宮田。無意識に握った拳に力が入る──自殺の方法は、もちろん首吊りや身投げも、一通り考えたが、他人に迷惑が掛かるのだけはいただけなかった。

 人影が、真っ直ぐ、森に侵入してきた。さらに、彼女は──ここにきてようやく、その背格好から、彼女が彼女であると分かった──そのままのスピードでこちらへと近づいてくる。

 あと数十メートル。

 あと十数メートル。

 あと数メートル。

 あと──。

「あ、あの」

 堪えきれず、宮田の方から声を掛ける。葉のベッドから上体を起こして見るには、彼女はどうやらバックパッカーのようで、足元は重厚な登山靴、頭部はヘッドライトと、相当な力の入れようだ。

 バックパッカーの女性も宮田を見つけ、二人は目が合った。

 ところが。

「きゃあああっ⁉」

 驚愕の表情。女性は悲鳴を上げる。後ろに飛び去り、そして全力で森の外へと逃げていった。

 ──早朝の冷たい空気が舞い戻った。

 宮田は肩の途中まで挙げていた右腕を下げる。どうして彼女が逃げたのか、それを考えるために、泣きたいのを我慢して、一度、自分を客観的に観察する──昨日、棘のある雑草をやたらとかき分けたせいで、ワイシャツ含む全身が真っ赤に染まっていた。


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