異世界聖女がほぼ忍者
魔王の囁き
第1話
栄華と腐敗が同居する巨大都市。
夜の帳が降りると同時に、上層街の屋敷群が赤い灯で染まる。
そこでは高笑いと杯の音が響き、下層では飢えた者たちの呻きがこだまする。
その狭間――屋根と屋根の影を渡るように、アヤメは駆けていた。
足音は一つも残さない。
衣の内に忍ばせた聖印が、闇の中でわずかに金色の光を放つ。
今日の標的は、商会ギルドの
裏では戦争を煽り、貧しい村から徴兵された若者を死地に送っている。
聖堂でも名前を聞けば眉をひそめるほどの悪徳の象徴。
アヤメは屋敷の窓辺に立つと、短く息を吐いた。
「……主よ、どうかこの者の魂が、もう苦しまぬように」
指先で印を結ぶ。
それは癒しの祈り――だが、方向が違う。
“癒し”の術は、細胞を修復する。
つまり、細胞分裂を促進する作用を持つ。
それをわずかに過剰に――神が定めた自然の限界を、ひと息だけ越えるように。
光が走る。
無音。
屋敷の中のバルゴは、何も感じる間もなく、安らかに息を引き取った。
血も、苦痛も、叫びもない。
ただ静寂だけが残り、室内の燭台が風もないのに揺れた。
アヤメは窓の外に手を合わせ、ひとつ祈る。
「――浄化、完了」
彼女にとってそれは殺しではない。
世界を“癒す”ための行い。
腐敗という病を取り除くための、治療行為にすぎなかった。
屋根の上で月光を浴びながら、アヤメは小さく微笑む。
影の衣がひるがえり、風が彼女の頬を撫でた。
「また一人……これで、少しは空気が澄むわね」
その声は、誰にも届かない。
けれど確かに、闇の向こうで誰かが安堵の息を漏らした。
任務を終えたアヤメは、聖堂の裏庭に戻った。
夜風に揺れる白百合の香りが、静寂を包む。
「……戻りました」
跪いて祈りを捧げると、祭壇の奥から声が響いた。
“アヤメ、汝の祈り、確かに届いている”
神の声――そう信じられていた。
だがそれが、誰の言葉なのかをアヤメは知らない。
ただ、導かれるままに動く。
それが聖女の宿命だった。
「次の標的は?」
“南区の領主、クラン=ハイト。罪は『民の搾取』”
アヤメは静かに頷く。
月明かりがその頬を照らし、白い肌を銀色に染めた。
クラン=ハイトの屋敷は、華美を極めていた。
金の柱、宝石の装飾、そして血に濡れた契約書。
アヤメは屋根裏から忍び込み、彼の寝室を見下ろした。
老いた領主は、誰かに赦しを乞うように寝言を漏らしている。
「……罪を知りながら止められなかった。哀れな人」
彼女はそっと手をかざし、光を放つ。
細胞が一瞬で暴走し、そして静止する。
苦痛のない“死”。
それが、アヤメの慈悲だった。
翌朝、王都の治安局が動いた。
「また“影の聖女”が出たか」
噂は広がり、恐怖と希望が交錯する。
民は囁く――「あの人は神の手」「いや、死神だ」と。
一方、聖堂では司祭たちが不安を募らせていた。
「最近、神託が多すぎる」
「声の主が、本当に“神”だと誰が証明できる?」
アヤメは知らぬ顔で祈りを続ける。
だが胸の奥では、微かな違和感が芽生え始めていた。
聖堂の地下。
封印された書庫には、古の聖女たちの記録が眠っていた。
“癒しの力は、神ではなく『寄生の精霊』の恩寵である”
その一文に、アヤメの指が止まる。
「……寄生、だって?」
光のような癒しが、実は命を喰らう術だとしたら。
自分の“祈り”は、誰のためのものなのだろう。
胸の奥で、何かが崩れた音がした。
夜。再び神託が響く。
“アヤメ、次の対象は王だ”
その瞬間、空気が凍った。
「……王陛下を、ですか?」
“この国の腐敗の根源を絶て。迷うな、聖女”
だがその声の裏に、もうひとつ別の声が混じった。
――『喰ラエ、次ノ命ヲ』
アヤメは目を見開いた。
祈りの中に、確かに“飢えたもの”の気配があった。
王の
夜の城を覆う結界を、アヤメは忍法ですり抜けた。
王は老い、病に伏していた。
その枕元に立った瞬間、アヤメの胸に一瞬の躊躇が走る。
――本当に、この人が“悪”なのか?
神託の声が強まる。
“迷うな。癒せ”
アヤメは印を結び、しかし光を止めた。
「……違う。これは癒しじゃない。喰らう行為よ」
祈りの光が闇に変わり、部屋の空気がざわめいた。
アヤメの体を金色の紋が覆う。
内から声が響く――『我ハ癒シノ精霊ナリ、命ヲ糧トス』
「あなたが……私の中にいたのね」
精霊は嘲笑する。
『癒シ、再生、全テ我ノ糧。オ前ハ器』
アヤメは拳を握りしめた。
「それでも……私は、私の祈りで終わらせる」
刹那、祈りと忍術が融合した。
癒しの光が反転し、浄化の炎となって精霊を焼いた。
聖堂が崩れ、王都は炎に包まれた。
アヤメは灰の中で膝をつき、空を見上げる。
「……癒しって、なんだったんだろう」
助けた命もあれば、奪った命もある。
それでも、誰かが苦しみから解放されたなら。
彼女はそっと微笑んだ。
「それなら、それでいいわ」
夜明け。
灰に染まった王都の屋根の上で、アヤメは立っていた。
新しい太陽が昇る。
その光が、彼女の影を長く伸ばす。
「私はもう、聖女でも忍者でもない。ただの人間」
彼女は最後の印を結び、祈りを天に放つ。
「どうか、この世界が、少しでも癒されますように」
風が吹き、衣が舞う。
アヤメの姿は、やがて光の中に溶けて消えた。
――それが、影の聖女の最期だった。
あとがき
癒しとは、誰かを生かすことだけではない。
苦しみを終わらせることもまた、ひとつの救い。
彼女の祈りが届くなら、それはもう“忍び”ではなく――
“祈りそのもの”なのだろう。
異世界聖女がほぼ忍者 魔王の囁き @maounosasayaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます