超能力とわたし。
梢月紙遊
超能力を上手く使えなくなったことはありますか?
『1900年に突如飛来した隕石、
アナウンサーの声を垂れ流すテレビに手をかざすと、ふっと音もなく真っ暗になります。
リモコンでも、最新のセンサ搭載のテレビだからでもない、能力でテレビ本体の電源ボタンを軽く押しただけ。この程度であれば問題なく使えるのはわかっていたので今更安心もしません。高校と大学の時に働いていた能力宅配業のアルバイトでは、業務用のコンテナを運ぶことだって普通だったのです。今は、テレビの電源を落とすのですら気を使ってしまうようになりました。本当、困った体になったものです。
今日のテレビはどこも
そうしてまた無為に一年が過ぎたことを知るのが、嫌だったというのもあります。
超能力制御性障害、という病気は中高生に多く発症する病気なのだそうです。
超能力を持つ人間、いわゆる『超人』が第二次性徴期を迎える時期に、能力と精神のバランスを崩して上手く能力が使えなくなるのが主な症状なのですが、わたしは中学生の時に発症し、それが元で不登校になりました。
ご存知の通り、『超人』も、魔法を扱う『魔人』も、現在生存している人類の体内には一人残らず魔素が宿っており、それを消費することで超能力や魔法を使うことができます。
現代社会において、超能力と魔法は身体能力の延長線上にある産物に過ぎない──と、どこかの歴史学者が言っていた気がしますが、確かに、病気を発症する前は手足を動かすことと同じように能力を使えていましたから、その通りなのだろうと思います。
さて、発症すると能力が上手く使えなくなるという病気、具体的には何が起こるのでしょう。
異能医の言葉を借りるなら、第二次性徴期特有の体内に魔素が過度に蓄積され上手く発散されない状態が続いた時、魔素の通り道である魔流器官が異常をきたし、能力の発露が困難になり、身体にも不調をきたす、らしいです。
当時のわたしにはよく理解できませんでした。
今まで通りに能力を使えないということを理解するのにも時間がかかりました。
ただ、手足と同じように使えていた能力が使えないということは、手足を失うことと同じくらいの喪失感をわたしに与えました。
ただ能力が使えなくなるだけならまだ良かったのかもしれません。
時折、蓄積された魔素が暴発を起こすことがあります。
わたしの場合は思いがけず能力の出力が上がって対象を破壊してしまったり、突然能力が暴走して身の回りのものを竜巻のように巻き上げてしまったり。
わたしは幸い早い段階で制御剤の処方を受けられたので人に危害を加えてしまうようなことは起きませんでしたが、たまにニュースで事件として報道されたり特集を組まれているのを見るとぎくりと胸が疼きます。一歩間違っていたらわたしもあの中に取り込まれていたかもしれないと思うと、自分の現状に心底安堵するのです。
そういうわけで中学生の途中から人生のレールを大きく外れることになってしまったわたしですが、悪いことばかりではありませんでした。
それまでわたしは音楽というものにそこまで興味を抱いてきませんでした。皆が好きなアーティストの歌をなんとなく聞き流し、友人の話に合わせるためのネタとして利用しているに過ぎませんでした。
ところが、病気を患い、不登校になって、友人との縁がぶつりと切れてしまったわたしの心を満たしたのが、音楽でした。
音楽に超能力や魔法の才能の有無は関係ありません。音と言葉の波の中、綴りたいことを綴って、歌いたいことを歌って、叫びたいことを叫んで。中学生の時分では、ほんとうの自由はここにあったんだと強く確信を得たのを覚えています。
音楽に溺れたわたしは音楽をつくることにしました。楽器は何もしたことがないし、歌の作り方なんて調べたこともありません。しかし、家族以外の人の繋がりを失い、活動範囲も家の中だけという閉塞的な環境で、体の奥底で蠢いていた衝動を抑えることはとてもできませんでした。
親に頼み込んで買ってもらった初心者セットのピンク色のアコースティックギターが最初の相棒でした。ネットに落ちているコード表と睨めっこしながら、書き溜めた詩に思いついたメロディをねじ込む作業に朝から晩まで没頭しました。
ほんのワンコーラスだけですが、歌が出来た時、それまで重苦しい鉛のようだった思考が少しだけ晴れたのです。
その感覚を忘れることはもうできなくて、後はひたすらに、勉強なんて言葉は遠くに置いて、表現活動にずぶずぶと入り込んでいったのです。
当時は何故か、それを発表しようとは思いませんでした。
誰かに聞いてもらいたい、という欲はあったと思います。でも、発信の仕方がわからない、自信がない、聞いてもらえるかわからないと理由をつけて遠ざけていたのではないか、と今は考えています。
そんな生活を続けて中学校は結局最後まで行かず、高校生になりました。高校は病状を鑑みて通信制の高校を選びました。すると生活環境が一変したお陰なのか病状が一気に改善し、能力もある程度自由に使えるようになり、わたしは人生のレールにどうにか乗り直すことが出来たようでした。
部活動は軽音学部、パートはギター。コピーバンド中心の部のなかで、歌唱は自信がなくやめておきました。
バイトは能力宅配業。高校生だから運べるものには制限がついていましたが、自分の能力を存分に発揮出来る現場ばかりでとても充実していました。
後輩、同期、先輩、先生に恵まれ──恋愛にはあまり縁がありませんでしたが──楽しい青春時代を過ごしました。今でも、戻れるなら高校時代に戻りたいと思う時があります。
ただ、高校時代について話せることはこれくらいです。
楽しい生活をした。充実した時を過ごした。大事な思い出がたくさんできた。人生には充分な味付けだと思うのですが──わたしにはどうやら、それだけでは味気なかったようなのです。
大学生になりました。専攻は文学系を何となく選び、何となく軽音楽サークルに入りましたが、そっちは肌に合わなくてやめました。
学園祭実行委員会が何となく楽しそうだったので入りました。この時、人と何かを一緒に作り上げることの楽しさに気付きました。
途中までは高校時代の焼き直しのような日々を過ごしていましたが、変化は唐突に訪れました。
突然、再び、能力が上手く使えなくなりました。
超能力制御性障害は中高生で増え、年齢を重ねるにつれて減っていく傾向にあると文献で読んだことがあります。わたしの場合は高校で完治したものと思い、大学では全く記憶の端にも置かずに生活してきたのでとても困惑しました。
かかりつけの異能医は、わたしの様子を診て「ストレス」という言葉で片付けてしまいました。
わたしはいつも通りに過ごしていたつもりでした。多少大変なことがあっても、それはストレスかもしれないけれど、普通に生きていれば耐えられる程度のものだと思っていました。だから何のストレスが病気の引き金になったのか、わたしには皆目見当もつかなかったのです。
最悪だったのは、発症のタイミングでした。
当時は大学三年生。魔素由来の新型ウィルスが猛威を振るっていました。空気感染することから外出自粛が呼び掛けられ、大学の授業もオンラインでの実施を余儀なくされました。
中学時代に近しい状況に、半ば強制的に戻されたのです。
中学生の頃であれば耐えられたかもしれない状況に、大学生のわたしは耐えられませんでした。
かかりつけの異能医から精神科の受診を勧められ、受けた診断名はうつ病。
オンライン授業も、就職活動も、何もかも手につかず、自室のベッドで天井を見ては、気付いたら日が暮れていることが日常茶飯事になりました。
生まれて初めて、希死念慮に出会いました。
それまでは死にたくなるなんて少しも考えたことはありませんでしたが、その時のわたしは、頭がぼやけて、何の理屈もなく、マイナスな感情のためでもなく、死にたいと思い、その実行策をぼんやりと考えては眠りにつくのを繰り返していました。
家族は、どうしたらいいのかわからずただ狼狽し、飯と風呂を促すだけでした。その際、下手な宗教に手を出さなかったことだけは安心しています。
超能力制御性障害とうつとの付き合い方に慣れ始めた頃、大学を卒業しました。当然、就職先は決まっていません。バイトも、とっくの昔にクビになりました。
ほんとうの無職になったわたしは、『手帳』の交付を受けることにしました。
超能力が適切に使えない証明であり、超能力に関連する障害を負った証明であり、必要な支援を受けるに値する証明を手に入れました。
『手帳』の交付を受けると、超能力障害給付金を受け取れるようになるので、家族に経済的な負担をかけることはありませんでしたが、146年前と違い、超能力と魔法が当たり前に使われるようになった現代社会では、能力も魔法も使えないことはひとつの障害として認識されます。能力を満足に扱えないわたしは、社会においては歓迎されない邪魔者なのです。
しかし、そんな邪魔者にも救済策は用意されています。精神科医の勧めで、国の就職支援施設に入ることになりました。障害と上手く付き合いながら、給料は低いかもしれないけれど何かしらの仕事に就けるよう支援してくれる施設です。厳しいことは言われません。ただ、当たり前ですが、仕事に就く意欲を求められます。この施設を利用できるのは生涯に一度だけと言うので、プレッシャーはかかっていました。
そんな中でもわたしは比較的模範的な訓練生として活動していました。欠席はたまにありましたが、症状は服薬によってある程度抑えられていたので就職活動もなんとか続けていくことができました。
やがて、就職先に巡り合うことができました。
障害のこと、うつのこと、わたしのことを理解して、受け入れてくださるとても良い企業でした。症状が出て欠勤することがあっても「連絡だけしてくれたらいい」と寛容に対応してくださり、同僚も、環境も──給料は正直微妙でしたが、わたしという人間を受け入れてくれる時点で──最高と言える就職先を見つけたのです。
ところが、体の調子は逆に悪くなっていく一方でした。
異能医も、精神科医も、ストレスという言葉を使いました。
同じです。大学の時と同じなのです。ストレスに心当たりなんてないのです。人も、職場も、優しく受け入れてくださっていて、わたしも業務内容や人間関係に不満なんて何ひとつないのです。これはほんとうです。ほんとうだと、今でも思っています。
だから当たり前に罪悪感が増殖しました。これだけ良い職場に恵まれて、不満なんてあるはずないのに、欠勤日数は重なっていきます。体が思うように動かないことがもどかしく、精神状態も不安定になっていきます。うつ状態も再発しました。欠勤連絡をするのが苦しく、全て投げ出したくなって、逃げ出したくなりながら、しかし支援してくれた訓練施設のスタッフの方達、企業の方達に見放されたくないと、連絡だけはやめませんでした。
それも、限界を迎えます。
辞める、とまず家族に伝えました。家族は「好きにしていい」と言いました。
訓練施設のスタッフの方に伝えました。就職支援施設のスタッフなのでもちろん止めます。しかし、わたしの意志が固いことがわかると、「失望しました」と言いました。
企業の上司に伝えました。上司は悲しそうな顔をして、「わかりました」とだけ言いました。
こうして、また無職になりました。
このお話の裏側では、コピーバンドを中心とした音楽活動をしていました。
高校時代の部活動の伝手で、社会人サークルや社会人向けライブイベントに参加するようになり、少しずつ行動範囲を広げながら、新しい環境で細々と活動を続けていました。幸い、わたしのいた界隈では能力の有無は関係なく、わたしも自分の事情を話さずに活動を続けることができていました。
一般的に、こういった趣味の活動は仕事にも良い影響を与えるらしいのですが、わたしには性格上それが当てはまらず、悪い意味で仕事は仕事、趣味は趣味と割り切っていたので、仕事をしていく上で音楽活動はあまり影響を残すことはありませんでした。
突然、転機が訪れました。
偶然再会した学生時代の同期との会話の中で、音楽作りを再び始めることを考えたのです。
それまでも、意識を向ける暇がなかっただけで、表現したい衝動はずっと抱えていました。
詩だけは、書き溜めていました。重苦しい鉛のような思考を晴らすまではいかないまでも、少しは衝動を抑えることができていました。
作っていいのか、と何故か思いました。
創作は自由なのですから、許可なんていりません。そういう国に生まれました。
だから自由に作っていいはずなのに、何故か、誰かに許されたくなりました。
わたしの場合、許しをくれたのは再会した同期の言葉でした。
「曲があるなら出したらいいのに」
それだけ。それだけで、10年ほど止まっていた時が動き出したような気がしました。
再び、歌を作ることを始めました。
流石に中学時代の産物は恥ずかしすぎたのでお蔵入りにしましたが、可能な限り書き溜めた詩を活用できるよう動いてみることにしました。
その時のわたしは、界隈に知り合いも増え、わたしが不得手としていたことも助けてくれる人達がいました。中学時代とは違う点です。なので、存分に活かすことにしました。
そうして、1曲を完成まで持っていくことができました。やってみるとあっという間で、それまでうじうじ閉じこもっていたのはなんだったのかという気すらしました。
発表しました。知り合いもたくさん聞いてくれて、初めて「この曲好き」という言葉をもらいました。今までに感じたことのない、生まれて初めての感覚でした。
もっと作ってみようと思いました。作れるということはわかったのです。後は動くだけなのだと気付きました。
自分の創作活動に血が通い出した気がしました。
やがて、ひとつの感情が芽生えます。
『ライブで披露したい』
発信して、聞いてもらうことはできました。
それを、直接目の当たりにしたいと思ったのです。
一度思いつけば欲は思いとどまるところを知りませんでした。
ライブのために会場を押さえることにしました。
ライブのために曲を多く発信することにしました。
ライブのために集客、宣伝を厭わなくなりました。
この時が一番、人生に彩りが生まれていた気がします。
その矢先、仕事を辞めることにしました。
真っ先に気にしたのは収入でした。わたしの曲作りは、多くの人の力を借りています。依頼するにあたってお金を払うこともありますし、付き合いで飲みにいくことも少なくありませんでした。超能力障害給付金は引き続きもらっていましたが、仕事の給料と合わせてもギリギリでした。
その中で仕事を辞めるのはとてもじゃないですが現実的ではありません。ライブ会場のレンタル代、楽曲依頼料、ミュージックビデオの制作費、積み上がった支払いの総額を見ても、ほんとうは辞めるわけにはいきませんでした。
しかし、この時点で仕事には既に行けなくなっていました。
パートタイマー社員のわたしは、仕事に行かなければその分だけ給料が入りません。欠勤が重なり、ちゃんと出勤していればもらえるはずの給料はほとんどなく、罪悪感に追い詰められて精神状態を悪化させていたわたしに、仕事を継続する意志は残されていませんでした。
仕事を辞め、後にはそれなりの額の支払いが残りました。給付金で賄えたのも少しの間で、親に金を借り、友人にも金を借り、しかし返すアテのないただのニートがいました。
ちなみに音楽活動における収入は、ほんとうに微々たるものです。音楽は趣味でやるのがいい、本気にならない方がいい、と知り合いは言っていましたが、その通りだと思います。
わたしはわたしがわからなくなっていました。
自分の障害も何が原因なのかわかっていないのに、その上自分自身の思考もわからなくなって、段々と自暴自棄になっていくのを実感しています。
やりたいこと、やらなきゃいけないことはたくさんあるけれど、それを成せるちからがない。
ちからがない状態。
無力。
この2046年の現代社会においては、何でもいい、ちからがなければ存在できません。
わたしは、ちからを普通に使いたいだけなのに障害に尽く阻まれてきました。
他にもっと悪い状況の人がいるでしょう。
わたしより酷い状況で、ギリギリのところをどうにか生きている人もいるでしょう。
甘ったれていると思う人もいるかもしれません。
恵まれていると思う人もいるかもしれません。
でも、これだけは。
わたしのくるしみは、わたしだけのものだから。
──と、わたしは。
手元で書き殴っていたノートのページを破り、ぐしゃぐしゃにして、びりびりに破いて、ゴミ箱向かって投げました。放物線も、不自然な曲線も描かず、それはゴミ箱の周りに散らばって黙りました。
わたしは、それを無感情に見届けて、また、無謀な眠りにつくのです。
これは独り言。
誰に読まれる訳でもない、無能で無力な無職の戯言。
社会には受け入れ難い人間の、どうでもいい嗚咽のひとかけら。
ねえ、どうだっていいでしょう?
超能力とわたし。 梢月紙遊 @siyu_syogetsu
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