帰郷

相良平一

帰郷

 雀が数羽、道端で戯れていた。

 革靴で一歩踏み出す度に、ぎゃり、ぎゃり、と、小石同士の擦れる音がする。

 春だ。ぼんやりと曇った私の中に、ただその言葉だけが反響していた。

 太陽は天球を四十度ばかり駆け上り、吐いた息が宇宙まで突き抜けていきそうな、かぁんとした青空だ。

 この町の土を踏むのは、実に数年ぶりのことだった。だが、その前の間隔を求めると、おそらくそれは一週間を超えないだろう。

 恥ずかしいような、悔しいような、何にせよマイナスな感情が渦を巻いている。それでも、名もなき山々の稜線は、靄のかかった記憶と照らし合わせても、何ら変わりなかった。

 これから、何をしようか。その問いの答えは、まだ私の中にはなかった。芥川らしく言えば、私は雨に降り込められて、行きどころもなく途方に暮れていたのだ。

 苦い顔をして帰郷する多くの人と同じく、私もまた、夢破れた敗残兵であった。

 

 高校時代、私は水彩画に熱狂していた。

 作品を創るのは、訳もない。大気中に漂っている雲を引っ張ってきて、カンバスの上に塗りつけるだけだ。

 一心不乱に絵筆を動かしていると、まるで自分の表面がぼやけて、私まで雲になってゆくような心持がした。

 中学校までは未経験だったにも関わらず、私の絵は、あちらこちらで高評価を得た。

 高校二年生の夏、私は、県のコンクールで銀賞に選ばれた。正直、寝耳に水だった。何ということだ、と思いながら、私は訳の分からぬままに、テンプレートの賞状を受け取った。入賞した、毒々しい半月の絵は、実家に置いてきたから、多分まだ、どこかに転がっている筈だ。

 絵は好きだし、好きなことをして生きていけるなら、そんなに嬉しいことはない。画家になればいいのでは、という、教師の助言に入れ込んでしまった私は、両親の制止も聞かず、この身一つで芸術大学の門を叩いた。

 ただ、水彩画の方面では、私はすぐに挫折した。私如きの画家など、降り積もって山になるほどにいるのだ。

 幸いにも、私にはイラストの才はあったようで、大学卒業後、私はイラストレーターとして糊口を凌ぐこととなった。

 最初、私は胸中に、どこか釈然としない思いを抱いていた。が、その蟠りはすぐに消えた。イラストも水彩画も、そう大して変わらない。雲の塗りつけ方が、少し変わっただけだ。そう、思えるようになったから。


 久方ぶりに顔を合わせた母は、庭先に置いてあった盆栽の松に似ていた。年老いて、縮こまっていて、だが確かな芯の強さを持っていた。

 親不孝な娘を、しかし母は何でもないかのように迎え、そしてひしと抱き締めた。

 父は、縁側に鷹揚に腰掛けていた。頭髪はステップのように疎らになっていたが、その背筋は、相も変わらず、鉄柱で出来ていた。

 母が声をかけると、父は振り返り、「おかえり」と言った。それだけだった。私も、「ただいま」とだけ返した。お互いに、かけるべき言葉が見つからないのだ。私たちの間は、今は、それでよかった。

 東京であったことへの追及は、露骨なまでになかった。自分でも、上手く言葉にできそうになかったから、その優しさは救いだった。

 私のいた頃は、この家はごく寂しいものだった。来客といえば、毎朝牛乳瓶を置いていく自転車ぐらいのものだった。

 だから、今、この家に客がいると聞いて、私はまず耳を疑った。

「私の友達と、その息子さん。泊めて欲しいーって、先月からね。部屋も有り余ってたし、オッケーしたのよ。」

「先月、って……。随分、長いね。」

「そうねぇ。」

 母は頷き、そして二、三度あたりを見回すと、声を潜めて

「実は、旦那さんが酷い人だったらしくてねぇ。殴ったり、怒鳴り散らかしたり。無碍に扱うわけにもいかないでしょう。」

 と言った。憐憫ではなく、それは同情だった。親子なのだ、それぐらいはわかる。

「だから、あなたの知らない人がいるのよ、今。帰ってきたところ悪いけど、あんまり気にしないで。」

 それは構わない。そもそも、私の一存でどうこうできるものでもない。

「私の泊まる部屋ある?」

「あるわよ。」

 ならいいのだ。今からホテルを取るのは難しい。混んでいるのではなく、この辺りにはない、という意味だが。

「そっか。……その、泊まってる人って、どんな人?」

「んー、美希は今ちょっと、仕事に出てるけど、もうすぐ帰ってくるわよ。」

 お母さんの方ね、と補足が入った。

「息子さんの方は、今は学校に行っているけど……。」

 母は、訛りのない言葉を使った。コールセンターで働いていた母は、その染みついた言葉遣い故に、近所では少し浮いた存在だった。

 この辺りだと、標準語の話者は、良くも悪くも一目置かれるところがあった。今どうかは知らないが、日本語は近年、全国的に平均されつつあるようだから、そういった風潮も改善されてはいるだろう。

「うん、じゃあ後で会わせてね。」

「二人とも、気立てのいい人だから安心して。」

「そう……」

 と、しか言いようがない。何せ、まだ顔も知らないのだから。

「そういえば、息子さんって何歳なの?」

 ふと、気になった。学生ということだから、私より年下ではありそうだが。あまり年が近いと、やはり宿を探さなければならないだろう。

 母の友達、という事だから、美希なる人物も、母と同じぐらいの年齢だろう。その息子も、私に近い年齢に違いない。

「もうじき誕生日だけど、まだ八歳よ。」

 そう思っていたものだから、私は耳を疑った。


 イラストレーターとなって二年後、私の会社に後輩が入ってきた。

 入ってくる人も、出てゆく人も、働いている人も少ないという会社だから、いきおいかの新人に注目が集まる。新卒だというのだから尚更だ。

 だが、私が驚いたのは、そのためだけではない。

「妹原悠妃です! よろしくお願いします!」

 彼女は、私の高校の後輩だった。私が三年生の時、美術部に入部してきたのだ。

 将来を嘱望されていた、柔道を蹴っての入部で、人一倍絵には真剣だった。だから、ここで会うのは意外だったのだが、それを本人に言うほど、私はデリカシーのない人間ではなかった。

 子犬のように人懐っこい子だった。高校でも、一ヶ月足らずでコミュニティ内での立ち位置を確立した、そのコミュニケーションの手腕は、会社でも遺憾なく発揮された。

 自由な――と言うより、規律を定める必要の薄い――社風でも、新人には色々と覚えなければならない事項が発生する。

 既に交流があり、歳も近い私は、一応の教育係に任ぜられ、彼女と顔を突き合わせて仕事をするようになった。

 新人研修と、仕事。その二つの生活が始まってから幾日か経った頃だった。悠妃は、退社後に二人で向かった呑み会の席で、唐突に眦をきっと吊り上げた。

「センパイは、やり甲斐があるんですか? この仕事に。」

「やり甲斐?」

 私は、持っていた大ジョッキを、不機嫌だととられないようにそっと置いた。

「そうです。やり甲斐です。私たちの夢って、水彩画だったじゃないですか。それが、イラストじゃ……」

「勝手が違う?」

 私は、思わず微笑んでいた。その不満は、確かに私にも覚えのあるものだ。

「はい。」

 彼女は真剣に、深刻に頷いた。

「そうねぇ……」

「誰かの要望の通りに絵を『作る』だなんて……本当に、センパイがやるべき仕事なんですか?」

「私ぃ……?」

 まさか、こちらに言及されるとは。自分のことだけで完結すると思っていたので、私は五秒で用意した原稿を一秒で廃棄した。

「センパイの絵には、誰にもない独創性があるじゃないですか。それなのに……。ボクには、この仕事がセンパイに似合うほど、高尚なものとは到底思えないんです。」

 私を最初に襲ったのは、純粋な困惑だった。この落伍者を、随分と高く買っているな、と。

 それでも、悪い気はしなかった。人間、褒められて気を損ねることは、そう無いものだ。

「そう言ってくれるのは、ありがたいけど……。私の絵は、そんなにすごいものじゃないよ。現に、美大には、私よりもすごい絵を描く人なんて、いくらでもいた。そんな人たちでも、プロには遠く及ばないのが、現実なんだよ。」

「それは周りの見る目がないんです。センパイは、絶対にこんなところで燻っているべき人間じゃない!」

 悠妃は、所々に欠けがある杉のテーブルを、強く両の掌底で叩いた。ダン、と激しい音がして、小麦色の水面に正円の波ができる。

「ま、まぁまぁ、落ち着いて。」

「……答えてくださいよ、センパイ。どうして、こんな仕事にかまけて、絵を辞めちゃったんです?」

 そう言う悠妃の顔は、真剣そのものだった。尖らせた鉛筆の芯のような真っ直ぐさだった。

 私も、はぐらかしは無しで答えなければならない。そう思ったのが、今にしてみれば、よくなかったのかもしれない。

「私はこの仕事、悪いものだとは思ってない。水彩画と同じぐらい、全身全霊でやってるつもりだよ。……悠妃にも、この仕事を好きになってもらいたいの。私たちのやってることは、形が変わっただけで、今までと同じだから。」

「え……?」

「同じだよ。自分の描いたもので、誰かの心を動かしたい、その想いは。……まぁ、私も最初ははぶててたけどね。何でこんなー、って。でも、いつか気づくから。」

 うっかり方言を使ってしまって、私は密かに苦笑したものだ。母よりもよほど、故郷は私に染み込んでいた。

 悠妃は、釈然としない顔で、辛そうな顔で、黙って枝豆を口にした。


 昼過ぎに帰ってきた美希という人物は、想像の半分の年齢で、想像の二倍口が回る人だった。

「初めましてー! え、あなたがことちゃん? え、うそ、可愛い〜! あ、わたしのことは聞いてる? お邪魔させてもらってま〜す!」

「は、初めまして。これからよろしくお願いします。」

 挨拶の勢いに気圧されながら、私はひっそりと彼女を観察した。

 齢は三十代後半、背丈は私と同じぐらい。茶色がかったショートボブの髪は、端で少しカールがかかっている。目が大きく、鼻は少し小さい。十五人に一人ぐらいの美人だった。

「宏も――あ、うちの息子ね――もうすぐ帰ってくるから。うるさいとは思うけど、ごめんね〜。」

 既にうるさい、とは思いつつも、私は「いえいえ」とだけ返した。

 こんな人と、母が、一体どこで知り合ったのだろう。物静かな方の母とは、あまりにもタイプが違いすぎる。

 それに、この年齢差だ。職場の知り合いかと思ったが、そうでもなさそうだ。

「母さんは、美希さんとどこで知り合ったの?」

「ミスナイのフレンドでね。普段からの知り合いは捕捉されてるから、って。」

 ミスティックナイトメア、略称ミスナイ。数年前から流行りのソーシャルゲームである。内容は、選択した魔法少女のキャラクターを使って、街に蔓延る『ミスティニー』という魔物を退治し、キャラ自身にまつわる謎を解いていく、というもの。

 周りの人にプレイヤーが多く、その人気ぶりは肌で感じていたが、まさか、母までやっているとは。

 悪くはない。悪くはないが、何だか落胆にも似た感情を抱いてしまう。

「やってるんだ……」

「あら、ことはやってないの?」

「やってないよ。」

 母は寂しそうに何かを言いかけ、やめた。私は、興味のないものには、とことん興味がない。その性格を知っているから、私への布教は無駄だと判断したのだろう。

「ことちゃんの部屋は、どこになるんですか?」

 美希が先に聞いた。本来なら、私が聞くべきことだと思うのだが。まぁ、誰が訊ねても変わらないだろう。

「あ、言うの忘れてた。あなたと宏くんの部屋の斜向かいよ。」

 私も聞いていなかったが、詳しく聞いてみると、何だ、実家にいた頃と変わりはない。

「そう。」

「……あ、ごぉめんなさいね⁉︎ 長旅で疲れているでしょうに、こんなに引き止めちゃって……。一旦、部屋、戻る?」

 美希は、はっと息を呑み、アセアセと捲し立てた。

 それもやはり、居候が言うべきセリフではない気がする。だがまあ、純粋な善意であることは伝わったし、その提案自体はありがたかった。

「そうさせていただきます。」

 私は、かたかたと頭を下げた。

 扉を開けると、部屋のレイアウトは何ら変化なく、むしろ私がいた頃よりも綺麗になっているようだった。

 急な話だったのに、掃除してくれたのか。あるいは、常にこの状態を保っていたのか。いずれにせよありがたい話である。懐かしさと相まって、目頭が熱くなるのを感じた。

 恐る恐る探してみたものの、絵は見当たらなかった。もう片付けられていたのかもしれない。

 あんなものがあったところで、私は苦しむだけに違いない。絵を描けなくなった自分には、愚直な夢の跡はあまりにも鋭すぎる。

 寝転んだベッドは、みしりと音がして、足と手を伸ばすには、相変わらず少し窮屈だった。買い替えるか迷っていて、決断しないままに家を飛び出したのだが。再び迷わなければならないようだ。

 実感できてはいなかったが、やはり疲れがあったようで、脱力した私の体は、再び動くことを拒んでいた。立ち上がるべきか、そうせざるべきか。三十分ほど、ベッドの上で懊悩する。

 玄関先が俄かに騒がしくなり、私はのそりと頭を起こした。まだそれだけの気力があったのか、と、自分のことながら少し驚く。

 宏くんが帰ってきたのだろうか。どんな顔かも判らないが、とりあえず、挨拶はするべきだろう。

 扉を開けると、母と美希に囲まれて、一人の少年がニコニコと笑っていた。

 五号の筆を使ったような線の細さだった。整った顔立ちで、墨流しにも似た儚さを揺蕩わせている。それでいて、肌だけは健康的な小麦色に焼けていた。

 こちらを認め、彼は怪訝そうな表情をしたので、私はお手本になりそうな笑顔を作って目線を合わせた。

「初めまして。私は、宇津木こと。今日からしばらくこの家にいます。君が、宏くん?」

「はい、初めまして。」

 宏の口ぶりは、八歳とは、とても思えない礼儀正しさだった。私は、逆に面食らう。八歳の私に、敬語という知識はあっただろうか。

「宏、宏、このお姉ちゃんね、絵がとっても上手いのよ。」

 美希が、興奮した口ぶりで宏に囁く。途端に、宏の目が輝いた。

「そうなの⁉︎」

「まぁ、ちょっとだけだけど……」

 嘘ではない。今は描いていないだけだ。

「あ、そうだ!」

 宏は、嬉々として何か紙を取り出した。少年の胴体が半分隠れてしまうほどの大きさのそれは、技術の拙さはあるが、確かに、一幅の美しい絵だった。

 そう認識できたのは、後から考えると実に驚異的なことだった。

 宏は、口を動かして、何かを話しかけているようだった。

 だが、私にそれを聞き取る余裕はない。

 彼の絵を見た途端、目の前がすうっと暗くなっていくのを感じた。

 動悸がいやに激しい。

 ああ、もう、耐えられない。

 おそろしいのだ。

 絵を、埋め尽くさんとする、

 その、

 色彩が、


 悠妃が本音を吐露した、その次の日のことだった。

 その日も、仕事はいつも通りに終わった。納期に余裕はないが、命を削らなくても、何とか間に合うぐらいのペースだった。

 定時を少しだけ過ぎて退社すると、後ろから悠妃に声をかけられた。

 昨日、相談に乗ってくれたお礼がしたい。そう言われては、断るという選択肢は存在しない。

 私は、彼女の部屋について行った。

 その部屋は、十階建ての賃貸マンションの三階にあった。見かけには古ぼけていたが、部屋の中は新しげで、しかも綺麗に整頓されていた。

 私が先に中に入ると、悠妃は後ろ手に鍵をかけた。

「センパイは……夢を諦めたのに、楽しそうですね。」

 私は、洗面所を借りようと動かしていた足を止め、思わず振り返った。

「そりゃあ、ね。何だかんだ、やりたいことはできてるし。」

「やりたい、こと……」

「そう、私の絵を、誰かに見てもらうこと。で、ちょっとでも上向きにすること。少なくとも、最初の一つは、今もできてるでしょ?」

 嘘も、偽りもなかった。私の夢はそこにあったのだ。

「じゃあ、センパイは、水彩画には何の思い入れもないって言うんですか?」

「思い入れはあるよ。この道に進んだのは、それがきっかけだから。」

 当たり前のことを言う。私は作家ではなく画家志望だったから、こういった時に上手い表現が思いつかない。こんな言葉が、その時、私の口にできた最大限だった。

 悠妃は、何かを堪えながら、そっと扉を開けた。

 その向こうのリビングは、しかし居住空間ではなかった。机や椅子の上にも、絵の具やらパレットやらが散らばっていて、とても人の住める空間はなさそうだった。

 全てが、絵のために費やされた部屋。その絵は、部屋の最奥に置かれていた。

 荒々しく噴き出るマグマが描かれていた。地球の傷口から噴き出る、どろりとした血液の生々しさ。部屋は寒いのに、汗をかいてしまいそうだった。

「私は、あなたの絵を見て水彩画に魅入られました。他のことは全部捨てて、一生懸命頑張って、それでも報われなかった。」

「悠妃……?」

 その声は、ゾッとするぐらい冷たかった。洞窟の向こうから、吹き込んでくる風の音のようだ。

「それなのに……センパイは、水彩画を捨てても平気で。今の自分に、何も思っていなくて。じゃあ、私はどうなるんです。」

 今の悠妃はおかしい。おかしくなっている。私はそう思い、それでも、彼女を止める言葉を探すには、人生の厚みが足りなかった。

「この絵……どう、思います?」

「どうって……すごく、真に迫ったいい絵だと思うよ。」

「真に迫った、じゃ……やっぱり、だめなんですね。」

 悠妃は、徐に近くのバケツを引っ掴むと、私に――否、自らの絵に向かって、その中身をぶちまけた。

「ひゃっ」

 私の服と、画用紙が、黄色に染まる。むせかえるようなペンキの匂いがした。

「ちょっと? 悠妃、何を……」

 文句を言いかけ、私は、悠妃の持っているものを見て息を呑んだ。

「さよなら。」

 悠妃が残したそれが、何に対する別れなのか、わからないまま。

 蛇の舌のように這う炎の中で、私は、ただ混乱だけを抱き締めていた。


 私と宏は、並んで畦道を歩いていた。

 田舎の道には人がいないが、それは静かであるということを意味しない。耳を傾ければ、大抵は何か生き物の息遣いが聞こえてくる。今回の場合はクビキリギスだった。

「……さっきはごめんね、宏くん。」

 荷物――近所の人からの贈り物である。その人は足が弱いので、貰う側が受け取りに行くのだ。――を握りしめて、私は頭を下げた。

 宏一人でもこなせるお使いに、私が無理を言って同行したのは、ひとえにこの瞬間のためだった。

「何ですか?」

「ほら、吐いちゃったじゃない、私。」

「……ごめんなさい。僕の絵のせい、ですよね。」

 宏は、濡れそぼったフクロウのように悄気て肩を落とした。

「ああ、いや、……そう思わせてごめんね、ってこと。」

「?」

「私ね……黄色恐怖症、なんだ。高所恐怖症とか、集合体恐怖症とかと同じ。私は、黄色が怖いの。」

 悠妃にペンキをかけられ、火をつけられた後。

 奇跡的に軽傷で済んだ私は、しかしそういった形で、確かに傷を負っていた。イラストレーターを辞めたのは、黄色を含む絵を見ることすら出来なくなったからだし、田舎に帰った理由も、一つには、人工物に多い黄色を、なるべく見ないようにということだった。

 否、絵を辞めたのは、心の病のせいだけではない。私は、もうそれに気がついていた。

 心の病なら治るまで待てばいい。完治の可能性は十分にあるのだ。

 そうせずに、さっさと会社を辞めてしまったのは、私の絵が悠妃の人生を壊した。その思いが、私を離れなかったから。

 私は悪くない、と、何度も言われた。それでも、火を放った悠妃の表情が、木から降りられなくなった子猫のようで。絵筆を取ろうとするたびに、私を責め苛むのだ。

「知りませんでした……。」

「ごめんね、反応しずらい話で。」

「いや、やっぱりごめんなさい。怖いものを無理やり見せちゃって……」

 なんと人間のできた子だろう。私は、むしろ空恐ろしい気持ちで、宏を見た。

「謝ることはないよ。……これじゃあ水掛け論だね。」

「水掛け論?」

「キリがない、ってこと。」

 よかった。ちゃんと八歳だ。何となく、私は安堵した。

「だから、どっちも悪かった、ってことでどう?」

「……はい。」

 彼は、こくり、と頷いてくれた。やはり、礼儀正しいというか、どこか余所余所しい。

「敬語、使わなくていいからね。」

 そう言うと、宏は何故か、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情をした。

「ん? どうしたの?」

「家族以外への言葉遣いには気をつけろ、って……。」

「言われてんだ……。うーん、でも、しばらく一緒に住むわけじゃない? これはもう、家族でいいと思うのよ、私。」

 まぁ、どれだけの間かは知らないけど、と付け加える。宏は、天真爛漫に笑った。

 荷物を置き、靴を脱ごうとすると、宏は、オススメの場所がある、と私を引き留めた。

 ただのど田舎だぞ、と思いながら、私は手を引かれる。一歩進むたびに、辛うじて建物がある領域からすら離れていく。

 子供の薦める場所だから、アミューズメント施設のようなところではないのか。ならばむしろ、当たり前かもしれない。

 辿り着いたのは、結局、どこにでもある田圃の一面だった。

 だが、何故、宏が私をここへ連れて来たのかだけは、すぐにわかった。

「綺麗……」

「ここには、黄色もないし。大丈夫で……だよね。」

 まだ、田植えはおろか、水張りすら始まっていない田圃。その中を、紫のやわらかな花が埋め尽くしていた。

 一面の紫雲英田げんげだである。

「すごいね……よく、こんな場所を……」

「この前、散歩してたら見つけたんだ。ここの絵を描こうと思って、何回か来てるんだけど……」

「いいアイディアだね。」

「ありがとう。でも、なんかしっくりこないんで……だよね。」

 宏は、いじらしくも私を見上げた。

 初々しい悩みだ。

 まともに対応しようとする意思は、刺激された子供じみた一面にかき消された。

「ね、一緒に遊ばない?」

 私は宏の手を取り、田圃の中に足を踏み入れた。

 水に浸かっていないから、少しふかふかする程度の土だった。

 あまり足跡を残さないように、私は屈んで紫雲英を数本摘んだ。

 茎を折らないように、それでいて大胆に。十数年ぶりの手遊びは、思ったよりは思うがままにできた。

「何してる、の?」

「花冠作ってるの。知らない?」

 タメ口までの距離が近まっている。少し安心だ。

 冠はすぐにできた。少し歪んではいるが、売り物でもないし大丈夫だろう。

「いる?」

「あ、ありがとう……」

 宏は、両手をあげてそれを受け取った。

「これね、結構簡単に作れるんだよ。一緒に作る?」

「……うん。」

 私の横にしゃがむ宏に、私は二本の花を手渡した。

「こっちを、こっちに巻きつけて茎を纏めて……そう、そんな感じ。」

 そうっと、慎重に。おっかなびっくり、花は編まれる。その真っ直ぐな真剣さに、感動と、少しの羨望が私の中で渦巻いた。

「上手いじゃない!」

「あ、ありがとう……。」

 満たされた自尊心で緊張の箍が外れ、心がやわらかな不規則さで暴れるのが、目に見えるように。宏は、今度は自分で花を摘んだ。

 彼の冠を編む姿は、背後の花畑や、青空に所在なげに佇む細い月などと相まって、私には眩しいほどに美しく思えた。世界で最も純粋な善がそこにあった。

 私は傷ついていたのだ。その当たり前のことに、気付かされたような気がして、私は息を呑んだ。

「できたよ、はい。」

「……私に?」

「うん。怖くないでしょ?」

 差し出されたそれは、円と言うにはあまりにも歪で、寧ろ楕円に、

 否、半月に似ていた。

 赦されたのだ。意味もなく、私はそう思えた。

「そろそろ日が沈むし、帰ろっか。」

「うん。ありがとう。こと姉。」

「こちらこそ。……こと姉?」

「家族みたいなものなんでしょ?」

 宏とも、打ち解けられたようだ。というより、こんなに紳士的な子だ、事情を話せば受け入れてくれるに違いなかったのだ。

 宏の花冠を、頭の上にのせる。優しさが私の肩にふんわりと被さり、頭上に漂っていた形のない不安を追いやってくれた。

 天使になったような心持ちがした。二回りも年下の少年と目を合わせ、私の口から、幼い子供の笑みが溢れる。

 月の上にいるみたいな、畦道を帰る二人だった。

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