「オレンジ」

よもやま さか ( ぽち )

「オレンジ」


黒くて長い髪の女主人トワコ(27)が経営している喫茶店「夕暮れ」

そこそこの美貌と姉御肌、面倒見もサービスもいいので繁盛している。

BGMはフルートが軽いジャズを奏でていた。


ガタンッ!!ガッシャアアアーーン!!!!


いきなり二人の若い客が、取っ組みあいのキャットファイトを始めた。


またたくまに店の奥のガラステーブルが大破する。

男の低い声が店内に響く。


慌てて止めに入るトワコ。

「待て!!やめなさい!!!」



喧嘩を始めた二人も喫茶店のテーブルが大破したことでおとなしくなったようである。偶然にもこの二人のほかに客は無かった。


トワコは壊れたガラスを片付けた。

ガラスを掃く甲高い音が響いた。


「テーブルの弁償はしてもらうけど、話は聞かせてもらうからね。こっちの席に移りなさい。それでガラスの破片がついていないか互いにチェックして。わかったわね」


二人は言われた通りに喧嘩をやめてガラスチェックをして指定された席に写った。

トワコはテーブルを奥に引っ張っていって掃除を終えてからオレンジジュースの栓を抜いて二人に出す。


「まず名前、勤務先、電話番号をそこのメモに書いて!」

そう言いながらメモ用紙ボールペンを二人の前に投げた。


「神山海人、24才。遠浜マリンパーク。そして大森健二、23才。同じく遠浜マリンパーク。なんで喧嘩した?」


「すみませんでした。弁償はします。でも喧嘩の原因は聞かないでください。職場の評判にも関わるので表沙汰にはできなくて」


そういったのは大森。茶髪の背が高いほうだ。

「馬鹿野郎。会社の評判だと!うちの店であれだけの喧嘩して理由は言えませんで済むと思ってんのか。いい加減にしろよ!!」


トワコは男言葉で大森を叱りつけた。


「申し訳ありません……」

大森は震えながら謝るばかりだった。


ふとトワコが目をやると神山は右の拳からポタポタと出血をしていた。

「あなた。神山海人!怪我してるんじゃないの!」

「たいしたことありません」


トワコは店のカウンターの上からティッシューの箱をとって渡しながら言った。

「水道で流して」

神山は席をたって言われた通り洗面所で怪我をした右手の拳を洗った。

洗面所に血の色が回りながら排水に吸い込まれていった。


「よく流しなさいよ。ガラスの破片でも入ってたらやっかいだから」


神山は傷の手当てをしながらつぶやくように言った。

「ぼくがイルカを逃がしちゃったから」


「はい?!」


トワコもいきなりの展開についていけなくて聞き直した。

「ぼくら、遠浜マリンパークのイルカの飼育員なんです」


「へえ。素敵な仕事じゃない」


「ありがとうございます。ぼくが自分の担当してるイルカを6頭、海に逃がしちゃったんです」


「逃がした? なんで?」

トワコは首の後ろの筋を伸ばしながら聞いた。


「いいですか」

大森がいきなりしゃべりはじめた。


「神山は過失じゃありません。わざとです。バンドウイルカ2匹、小型のカマイルカ4匹。計6匹。真夜中の2時に忍び込んで、水槽トラックで逃がしたんです」

大森はまだ憎しみが収まらないらしく拳を握りしめ小さく震えながらそういった。


「わざとイルカ6匹にがしたの?神山君。それって環境テロじゃ……」

トワコはそこまで言いかけて絶句した。


怪我の手当をしてティッシュを傷に巻き付けた神山海人がゆっくりと席に着いた。


「……ぼく、子供のときからイルカや海の生物が大好きでした。それでマリンパークに入ったんです。でも」


「でも?」

「でもそこは思っていたのとは違いました。狭い水槽に押し込められたイルカたち」

「そう……」


「ねえ。イルカの本当の幸せってなんだと思いますか。狭いオリに入れられて、時間になったらショーをすることがイルカの幸せでしょうか」

「言ってることはわかるわ。だけどあなたはもう社会人でしょ?」


「はい。そうですね。でもそんなのはイルカにはこれっぽっちも関係ないことですね」


「イルカショーは多くの人の夢を繋いでいるわ。それを見た子どもたちがイルカをスキになって将来自然を愛する仕事をするかもしれない」


「自然を愛する仕事ってイルカを捕まえてさらし者にする僕らのような仕事のことですか!」


神山は大声で吐き捨てるようにそう言って、出されたオレンジジュースを奪うように飲み干した。

トワコはふと胸の奥がズキンとするのを感じた。


海人の、あのすねた横顔に、一本気でいつも問題ばかり起こしていた弟の影が

かすかに重なった。


大森はこらえきれずに声を荒げた。


「おい、海人!聞き捨てならねえ。みんなに助けられながらチームで働いていていて、よくそんなことが言えるもんだな」


「俺はそんなクソつまんねえ偽善がいやなんだよ。イルカを苦しませておいて何が自然だよ。馬鹿なのか?」

神山は吐き捨てるようにそういった。


「イルカは人間と楽しんでやってるよ。じゃないとあんなジャンプができると思うのか。それにキサマ、一度飼ったイルカを勝手に逃がして、そこからうまく生きて行けるかどうかさえ分からないじゃないか」


「海人君、あなたは自分のやったことに責任を取りなさい。逃げたり自殺したりしてはだめよ。わかってる」


神山は、トワコの声を遠くに聞きながら、あの夜の光景を思い出していた。


  ――――――――――――――――


夜の遠浜マリンパークは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


神山は鍵束を震える指で探り、バックヤードの扉を開ける。

南京錠を開ける音が、やけに大きく聞こえた。


プールは常夜灯の青黒い灯に揺れていた。


神山は意を決したように水銀灯に灯をいれる。

水銀灯は呼吸をするようにゆっくりと明るくなっていった。


神山は何かを吹っ切るように熱い息を音を立ててはいた。


彼が赴任そうそうに体調を崩したカマイルカがいた。


そのために抗生物質を何錠もいれた鰯をつくる。

やがてイルカはその餌を吐き戻して死んでしまう。


神山には責任と疑問がいつもつきまとっていた。


イルカたちは彼の気配に気づき、甲高い声を上げる。


水槽トラックを付ける作業は一人では本来不可能だ。

しかし神山はこの日のために、何度もイメージで練習していた。

プールの横にはイルカ移動用のビニールを敷いた。


「ハルコ、こっちだ」

神山がハルコに慣れた合図をおくると、ハルコは疑うことなく、いつものようにその巨体をプールの横に乗り上げた。

トラックにつけられたクレーンを操作する。


重みがかかるとエンジンが大きな音をだした。

イルカの重みでトラックが少し沈む。

排気ガスの香りがプールに流れた。


神山はまず一頭目のバンドウイルカのハルコを水槽トラックに無事積み終えた。

「もう人間には捕まるなよ、ハルコ……」


  ――――――――――――――――


その時、喫茶店の大森のスマホに着信音が響いた。

「はい、大森です。所長、お疲れ様です。はい、今、神山と会っています」

 ……

「え、ハルコが港から逃げなくて漁師さんに確保されたんですね」

 ……

「ほかのイルカは逃げた。ハルコ一匹だけ……」


それを聞いた神山は全身を硬直させたように震えていた。


ハルコだけが漁港に残って居たとは !


「そのハルコってイルカ、アナタと別れたくなかったんじゃないの」


長い沈黙があったように感じた。


「……おれ、自首します」


「それがいいわ」


それからトワコは海人の頭をゆっくりと抱きしめた。

トワコの髪の香りが海人に届いた。


神山は震えながら細い声を上げて、長い間泣いていた。


「本当はね。あなたの言う通りかもしれないわ。人間が平和に暮らしているイルカを勝手に捕まえたんだもんね。きっと悪いのは人間のほうなんだよね……」

トワコの頬にも一筋の涙が伝っていた。




海辺の街の夕暮れは、トワコが出したオレンジジュースのオレンジ色に染まって、静かに流れていたのだった。




               了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「オレンジ」 よもやま さか ( ぽち ) @meikennpoti111

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画