異世界三度笠無頼・短編『雨の中の刃』

美風慶伍@異世界三度笠無頼

異世界三度笠無頼・短編外伝『雨の中の刃』

異世界三度笠無頼・短編外伝『雨の中の刃』


 雨の匂いがじっとりと地面を濡らしていた。


 里道の脇にある古い茅葺き屋根の庇に、無宿渡世人・丈之助は一歩足を踏み入れた。

 風が屋根瓦を叩き、雨粒が柄杓のように落ちる。濡れた着物は重く、腰に差した長脇差の鞘が冷たく音を立てる。


 軒先には、小さな影が一つ――白い顔に大きな黒い瞳ではなく、閉ざされためいた瞳があった。少女は杖を脇に立て、膝を抱えていた。年は十二そこそこか。薄汚れた襦袢の袖は破れ、小さな足首は腫れている。丈之助が近づくと、少女は微かに肩をすくめた。目が見えぬ者特有の緊張が、静かな雨の下に溶けている。


「足でも、くじいたんですかい」


 丈之助は低い声で問うた。声は荒れていたが、刃の鋭さは見えない。

 少女はかすかに頷いた。どうにも歩けず、村まで行くにも人の手が必要らしい。


 丈之助は黙って膝を折り、少女の袂に手を差し入れた。泥の冷たさが掌の感覚に残る。彼女の小さな手をとり、そっと支える。

 目は見えぬが、触れられた熱が少女を落ち着かせるのが分かる。


 丈之助は自分でも意外なほどに自然に振る舞っていた。どこかで貸しを返すような、ほんの一瞬の情け――


――義理と恩義――


 そういうものが、彼の中にまだ残っているのだろう。


「村までは運ぶほどでもねぇ。ゆっくりだが歩けますぜ」


 丈之助は言った。少女の顔が、雨のしずくの向こうで微かに柔らいだように見えた。

 二人は軒先を出て、じわりじわりと里道を進み始めた。


 だが、刃の匂いはいつだって遠からず近づく。草陰から、数人の影が立ち上がる。

 野暮ったい衣の男たちの影が現れる。堅気の百姓かと思えば、その左腰には見慣れたものがある。


「――!」


 脇差を持った追っ手だ。丈之助の背筋をぴんと緊張が走った。彼は何も言わないが、足取りが少し速くなった。


「疾風の丈之助、覚悟!」


 男の一人が怒号を上げた。その名は、堅気の百姓や市井の人々は知らない名だが、渡世の世界には悪名として轟いていた。

 とっさに丈之助は周囲を見回す。少女はまだ彼の手を、ぎゅっと握っている。


 追手の一人が刃物を振り上げた。丈之助は身を翻し刃を捌いた。動きは驚くほど風のように滑らかで、短い間にいくつかの音が鳴った。

 丈之助の腰の長脇差が抜かれて、切っ先が翻り、血と泥の匂いが立ち込めた。

 追手の一人が倒れると、他の者たちは不利を悟り踵を返した。だが、その間に少女は何かを感じ取ったらしい。彼女の唇が震え、袂から短刀が滑り出した。

 丈之助はふと立ち止まった。雨粒が彼の額に伝う。少女の指が短刀の柄を固く握っている。ふいに、沈黙を破るように彼女が言った。


「あなたが……」


 声は小さく、しかし刃のように冷たい。丈之助の過去の名前がそこにあった。かつて彼が斬った男の名と、崩れた一家の記憶。少女の瞳は見えぬが、言葉は確かに彼の胸に刺さる。


「丈之助、あんたが父さんを――」


 短く、怒りが詰まった。少女の指先が短刀に力を込める。足の腫れと痛みを耐え、彼女は丈之助に向き合った。目が見えぬ分だけ、心の中の刃が研がれている。

 丈之助は、ただ彼女を見つめ返した。雨の音と、二人の呼吸だけが軒先に満ちる。彼の掌には、まだ血の冷たさが残っている。

 過去の幾つかの夜が、脳裏を駆け抜ける。斬り結んだ夜、蒸れる柘榴ざくろの実のように飛び散った血、叫び声、布の匂い。全てが今、彼の身体の中で重く鳴る。


 少女の短刀が、真っ直ぐに彼の心の臓を狙う。丈之助はゆっくりと前に一歩出た。逃げる意思はなかった。抵抗する力もなかったのかもしれない。ただ、手を伸ばし、彼女の腕を取る。短刀はわずかに逸れ、雨の中で小さな金属音が鳴った。


「……すまねぇ」


 丈之助の声は、雨に溶けかけた。だがその一言は、少女の心に届くどころか、怒りに油を注いだ。それでも丈之助は、躊躇うことなく動いた。手を伸ばし、短刀を押さえ込み、刃を受け止める。刃の先端が彼の胸を裂く。痛みは鋭かったが、すぐに全てが鈍くなる。少女の力は、憎しみに満ちていた。


 血が滲んで丈之助の着物に落ちる。少女の肩が震え、彼女自身もその行為の重みで青ざめる。目の見えぬ少女は、初めて自分の手が誰かの命を奪うことを実感した。だが、それで何が変わるのか。丈之助の胸の中にある何かは―彼の価値観は―微動だにしない。


「ごめんなすって」


 そう言葉が漏れて、丈之助は長脇差の濃い口を切った。

 涼しい鉄音が鳴り、長脇差の切っ先が翻り、少女の着物の心の臓を一気に貫く。


「あ……」


 わずかに言葉が漏れて、立ちつすくしていた少女はすぐに力なく崩れ落ちる。

 誰かが、群れの中の声が、冷たく響く。村人たちが集まり、言葉が波紋のように広がる。非難、詰問、憐れみ。世間はいつだって、簡単な答えを欲しがる。

 丈之助は、血の滲む手で少女を抱き寄せた。彼女の小さな体が震え、やがて重くなった。

 非難と敵意の、弾雨のような雨にさらされながら、丈之助は重く強くこうつぶやいた。


「だったらこの娘さんに、うちに来いと一言言えば良かったんじゃないんですかね?」


 そんな言葉は誰もかけたことがないのは明白だった。

 盲目、独り者、無宿、流浪、やくざ者の娘――あらゆる言葉が、少女を地獄の獄卒のように傷めつけただろうとは、無宿渡世の流れ者である丈之助ならば嫌と言うほどわかるからだ。

 少女の無念と嘆きは怒りに変わった。否、その怒りを宿さなければ生きれなかったからだ。だがその怒りはついに届かなかった。

 だから丈之助は少女の流浪を〝終わらせた〟のだ。

 雨が二人を洗い流し、村はざわめき、誰かが箒を持って駆け寄る。だがその手は、もはや届かない。


 丈之助は、静かに少女を抱え上げ、そこから運び去る。名前も、故郷も分からないなら、無縁仏になるしか無いのが世の定めだ。

 村はずれの道端の、土の柔らかい窪みを見つけ腰を下ろした。泥に混じる雨が、二人の輪郭を少しずつ曖昧にする。

 丈之助は小さな穴を掘り、少女をその中に寝かせた。彼は土をかけるとき、ふっと笑ったようなうめきのようなものを漏らした。


「これでも、もう苦しむことはござんせん」


 言葉は、慈悲か、あるいは自己の赦しのための嘘だったのか。その区別は雨に消えた。丈之助は一瞬、少女の顔に触れ、冷たくなった頬に指を置いた。誰もが手を出せなかった救いを、彼は自らの手で為したつもりだった。


 そして、丈之助はゆっくりと立ち上がり、雨の中へと戻った。里道を歩く彼の背は、小さな影を残していく。茅葺きの屋根の下で、村人たちは黙り込み、それぞれの言葉を飲み込んだ。


 丈之助の足跡は、雨に消されてゆく。彼が去った後、里はまた静かになり、ただ土の匂いと、遠い犬の声だけが残った。


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この物語は、長編本編 『異世界三度笠無頼』 に連なる外伝短編です。

本編では、異世界へと流れ着いた丈之助が、精霊と魔法の世界で再び“仁義”を貫く旅を描きます。

雨の下の刃で描かれた彼の心の影が、異世界での信念の原点となります。


本編はこちら➡ 『異世界三度笠無頼』

https://kakuyomu.jp/works/16818792440635779978

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