第2話
3
靴屋の仕事が終わったころには、もう太陽は沈んでいた。手を休ませて窓から外を見ると、真っ暗な空に小さな星々が散っているのが見えた。
「とにかく今日は帰るわ、マーサ。明日の有休、ありがとう」
私なんかにあんなこと…というと、マーサがアンナの肩を叩いて、
「なによ!私なんか、なんていわない!」
「あ、ありがとう」
「まあとりあえず、あなたの休みの分はフォローしておくから。しっかり休みなさい!」
どうやら、体の休息のための有休だと思われたらしい。マーサの目が心配そうにアンナを覗き込む。アンナは弱々しく笑って、
「大丈夫よ。ごめんなさいねマーサ」
「まったく・・・・」
この子は!とでもいうかのように鼻息を荒くしたマーサが、とにかく帰りなさい、遅くなるから、と言ってアンナの背中を押し外へ追い出した。靴屋の扉の前で、肌に刺さるような冷たい風がアンナを嘲笑った。
マフラーを巻きながら、星のちらつく夜空を見上げ、そのあと、アンナは歩き出した。
夜のロンドンは人通りが少ない。時々、シルクハットをかぶった紳士とすれちがう。二人連れのカップルもいる。そういうことも気にせずにアンナは足を進める。
ふと立ち止まる。
爪を噛む。包帯をつけていない方の。
「・・・・・・・・」
夜空の下、茶髪の少女を思い出す。いま空にある星々に似た、白いワンピースを。
――マーニー。
そう・・・・・・。
こんな夜でも、マーニーはヴァイオリンを弾いてくれた、とアンナは思う。母親も父親も仕事に出ていて、一人で過ごしていた夜。心細かった夜。どこにも居場所がなくて・・・・・・世界にひとりぼっちだった夜。
まだ十にも満たなかった頃だと思う。
急に扉を開けてきて、ヴァイオリンをいきなり弾いてきた。きれいな音色にアンナは聞き惚れて、それと同時に、なんでもできる従姉妹のマーニーの姿が大好きだった。
そう、〝ランの花が咲く頃に〟・・・。
アンナはその歌が好きだった。マーニーがよく弾いてくれた。ラララ・・・・・・。旋律をなぞる。ルルル・・・・・・。
ルルル・・・・。
――なに?
確かに聞こえた⋯と、アンナが振り返った。懐かしい、ヴァイオリンの音だった。
この音楽は、確かに、マーニーがよく弾いてくれていた曲だった。
「どうして⋯」
どうしてこんな夜ので…。
立ち止まり、まわりを不審そうに見回すアンナを、通りすがる人々は不思議そうに眺める。
こっち側で、弾いてる…。
アンナの足が、まるで誰かに操られてるかのように、ゆっくりと歩みだした。たしかこっち側には、公園があって⋯、と、今丁度聞こえてくる音の居場所を頭の中でなぞる。
人通りのない、街頭一つの馬車道にたどり着くと、さらに音は大きくなった。ブレないヴァイオリンの音は、多分ここから聞こえている。アンナの記憶の中の音と、その音が重なった。
また会えるのかもしれない――マーニーに!
思っていると、無意識に歩く速度が上がった。肌を風が刺しても気にならなかった。
4
ガサガサッとした音に、男は振り向く。座っていたベンチの後ろの草むらから、銀髪の少女が出てきた。
少女はキラキラと輝く瞳を持って、男を見つめていた。そして彼女はふっと息を吐くと、疲れたように手を顔に当てた。
「‥‥‥やっぱり、違うわよね」
「なにか?」
男が訊くと、彼女は困ったように笑い、手を振った。
「‥‥‥知り合いのヴァイオリンの演奏と、同じ曲で。よく聴いたら演奏の仕方とか違うのに、勝手に知り合いかと思い込んでしまって‥‥‥。すみません」
頭を下げられる。
「いえ‥‥‥。知り合い、ですか」
「‥‥‥」
「‥‥‥わたしは数ヶ月前にヴァイオリンを触ってみたんです」
「‥‥‥数ヶ月前?」
数ヶ月前でこの出来じゃ、かなりの練習量だ、アンナは呟く。
「よっぽど練習を?」
「‥‥‥わたしも、知り合いに、ヴァイオリンを演奏できる人がいましてね。その人の演奏‥‥‥、少し、くせがあったのです。それを追っていたら‥‥‥」
「演奏の、クセ‥‥‥」
この男も、ヴァイオリン弾きの知り合いが?アンナがヴァイオリンに目を移した。
「‥‥‥でも、とっても、お上手でした。私も、本物の演奏者と間違えたくらいで」
「お褒めにかかり光栄です」
アンナから、男の顔は見えていない。ベンチの横に街頭が一つだけあるので、逆光でよく見えていない。
けれどあとの言葉に引っかかりを覚えた。
「けれど、少女ひとりで夜道を歩くのは、よくない」
「‥‥‥。‥‥‥?」
「すぐに帰ることです」
「‥‥‥あなた‥‥‥」
アンナがいぶかわしげに眉を寄せた。おそるおそる彼に近づく。
「なにか?わたしに‥‥‥」
アンナが目を見開いた。
あ、綺麗な茶髪‥‥‥。
そのとき、アンナが足元の草に意識を取られ、体を崩してしまう。ちょうど男が彼女をだきとめたとき、アンナと男の目が合った。
琥珀色の目だ――、見たことある‥‥‥。
「あ、あなた‥‥‥今朝の、お医者さんですか?」
「‥‥‥今朝の、靴屋さんの」
二人同時に言い出して、二人とも驚き、二人ともに口を閉ざす。そして同時に笑い出した。
「そっか‥‥‥、あなたが今朝の。ありがとうございました」
「いいえ‥‥‥。そんなこと」
「‥‥‥え、あれ、でも」
――私は靴屋なんて、一言も。
そう思ったとき、男が小さく笑った。思いをくみ取ったみたいだった。
「テザーリの店へ行くのは大抵靴屋の方なので」
「あ、なるほど‥‥‥」
そのあと、今度はやわらかに目を細められる。
「けれど、靴屋の仕事が終わったあとすぐ向かう場所なんて、どこにあるんでしょう?」
「‥‥‥え?」
「ほら、あなたの手に」
そう言って彼はアンナの手を指さした。
「まだ布のテープが持たれている。靴屋の仕事を早く終えてきた証拠です」
「あ‥‥‥。そうだった‥‥‥」
そうだ、私、ホームズさんの家に行こうとして‥‥‥。
また小さくつぶやくと、急に目の前の男が眉を寄せる。嫌味を目の前で言われたみたいだ。男が慎重に言葉を乗せた。
「‥‥‥ホームズへの批判は、受け付けませんよ」
「い、いえ、そういうことではないんです。ただ、彼に、その、彼というわけではないんですが、彼の助手、ジョン・ワトソン医師に‥‥‥依頼を」
言い終えると、男は気が抜けたように、ふっと息をもらした。なんだろう、とアンナがビクビクと見上げる。男が、
「‥‥‥ホームズはベーカー街にはいませんよ」
「‥‥‥亡くなられてますもの」
「‥‥‥それは、」
アンナのあと、男はそういって、何かを訴えかけるように口を開いた。その後、思い直すように口を閉じ、自身の片腕を手できつくしめた。
「‥‥‥とにかく、ホームズに依頼といっても、無理な話だ。それは知っているでしょう。わたしだって依頼を解決する頭なんてありません」
「でも、ワトソン医師だってなにか力になってくれるんじゃないかって‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥やっぱり、図々しいですよね。‥‥‥私、帰ります」
アンナが身を翻した。この場から早く帰りたくて足を進めた。
‥‥‥待て。
さっき、この男は何といった?
「‥‥‥“わたしにだって、依頼を解決する頭なんて、ありません”‥‥‥?」
「なにか」
「‥‥‥あの、あなた、もしかして、その」
その言葉遣いじゃ。
まさか。
「‥‥‥ジョン・ワトソン医師‥‥‥?」
琥珀色の茶髪が揺れた。
出来の悪い生徒を見るように、困ったように彼が笑った。
「よく気が付きました」
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名探偵の助手 ま ゆい @4062
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