日常を生きるとは
ゆた
第1話
死のうと思った。死んだら楽になる。
食事をとらないようにした。みるみるやせていく僕を、周りは心配し、「食べる価値がない」という僕に、「食べることは大事よ」と言ったりした。それでも、食べて生きることが、僕には耐えられなかった。こんな僕が、なぜ食事を?と思ったし、今ならばかばかしいが、他の生物の命を奪ってまで、生きることに疑問しか感じなかった。
ある人は、
「生きていることは、当たり前で、死のうとする状況がイレギュラーなのだ」
というようなことを言っていた。
確かに、僕はその異常性に気づいていながら、だって、他の人は、友達も恋人もいて、毎日誰かのためになることをしているのに、自分はただ周りの邪魔になるような存在で、周りに迷惑こそかけ、誰かの役になることなんか何一つできない。
数少ない友達が、
「英はさ、自分と一緒に他人のこともおざなりにするんだよな」
と言った。それを聞いて、確かにそうだ、と思いつつも、「そんなことを言うなんて、お前は友達じゃない。もっとましな気のきいたことを言え」と毒づき、余計決まづくなった。
僕は普通の人みたいに生きられなくて、普通に同級生が友達を作って、毎日当たり前に会話していることが、僕にはできなかった。何を話したらいいのかわからなかったし、僕に話しかけてくれるお人よしもいなかった。僕は、どこか能力が欠けている人間で、それは人に笑われることなのだと思っていたし、その欠落した部分を自分でわかっていながら、それがどうすれば補えるのか、生きやすくなるのか、といった肝心なことは何一つわからなかった。知ろうとする努力もせず、ただ自分に嫌気がさしていた。今なら、誰かに相談するだとか、自分がそんなことを気にせずにすむ方法というものを見つけるために、自分の嫌なところだとか、至らなさだとかそういった部分に触れて、ちゃんと向き合えていればよかったのだとわかるが、その頃の自分にどう頑張って教えてあげようとしてもそれは叶わない。
他の人が普通にやれていることが僕にはどうしようもなく苦痛だった。
特に大学のゼミは地獄だった。我先にと話すもの、頃合いをみて口を挟むもの、僕はどちらでもなく、ただ口を開くことさえできなかった。他の人がものすごく優れているように僕の目には映った。まるで、僕は、その人たちにまぎれている、言うならば丸いもののなかにぎざぎざの箱みたいなものが混じっていて、そのぎざぎざの気味の悪い箱が僕なのだ。ただ教室にいることさえ苦痛だった。
そんな僕に教師は何も言ってくれなかった。ただ、教科書を拙く読み上げる僕を、憂鬱そうな反応で返す。僕は、教師には、嫌われたくなかったし、できることなら、優等生でありたかった。授業では、あたりさわりのない生徒でいたかった。
「ただ、そんな完璧に生きられる人間はいないよ」
そう、その時の僕がいるなら、言ってあげたい。
日を追うごとに僕はその授業がいやでいやでしかたなくなっていた。ため息をつき、露骨に「行きたくないな」と呟くこともまれではなかった。教科書の感想を言ったり、そこから学べることを考察して、話し合う、というのがゼミの議題だったのだが、僕は緊張しすぎて、何も思い浮かばず、それなのに、予習をして、少なくとも何か感想を一言は言えるようにという準備も怠っているという、いいようによっては、ただの自己中心的な人間なのだった。そんな駄目なところが、もっと自分で嫌でしかたなく、もやもやとした気持ちを抱えていた。
「毎回、その回だけ乗り切るつもりでいたらいいんだ。そんなに思いつめることはないよ」
過去の僕に言えるなら、今の僕に言える言葉はこんな言葉だ。
ただ、ゼミで一人だけ、いつも授業で僕の隣に座り、授業が終わると、「お疲れ様です」となぜか僕ににこにこして挨拶していく同級生がいた。それでも、僕は彼女に、今の悩みを相談しようという勇気はなかったし、僕と彼女は違うのだ、と一線を引いていた。彼女に壁と距離を感じてもいた。
さぼる日が増えていった。さぼると、単位がとれない。単位がとれないと卒業できない。僕の心は袋小路に追い込まれていく。
僕は、授業をさぼって遊び呆けた。
アイドルのドキュメンタリーをレンタル屋で借りてきて、部屋で一人、鑑賞にふけった。
ビデオを見終わって、感動に浸っていると、呼び鈴が鳴る音が聞こえた。
ゼミのグループの香澄という子が僕を呼びに来たようだ。
僕はドキュメンタリーのアイドルに勤しんで感想の手紙を書いているところだった。
僕の部屋はごちゃごちゃで、卒業しないといけないのに、プータローになっていくしかない運命と戦っていた。そんな部屋は人に見せられるわけがない。もっと、綺麗に掃除しておけば、彼女を呼べたのに。
僕はもう生きていけない。死ぬしかない。そう思いつめて、もうそれ以外の道が見えなくなっている。
髪はぼさぼさで風呂にも何日も入っていなかった。居留守を使っていると、彼女が階段を降りる音が聞こえた。僕はほっとするのと同時に、少しの残念さを抱えた。せっかく来てくれたのに、話ぐらいすればよかった。彼女は僕のことを気遣ってくれているようだったし、ありがとうの一言ぐらい言えばよかった。でも、できない自分に、もっとそれは自分を追い込むことだぞ。意固地になってないで、と思う。
香澄はゼミの一時間前に必ず僕の部屋を訪ねて、ノックすると声をかけられた。
香澄はただ、「片桐英君?ゼミ行こうよ」と言うだけだった。
それが続くうちに、僕はろくにご飯を食べていなかったから、これはゼミに行こうとしない僕が見るあやかしで、ただの幻聴なのだと思うようになっていった。
次に彼女が来たら、僕は、どうせ幻なら、僕は彼女に会ってみよう、話してみよう。そう思った。
次のゼミの日、香澄が訪ねてくると僕は彼女の手を引っ張って部屋に招き入れた。
彼女は僕に手を引かれるまま、部屋の中に入り、眉をひそめて、くさい、とこぼした。僕は死臭を漂わせていた。それが匂う。僕は、自分の腕を鼻に当て、匂いを嗅いだ。ろくに食事をとっていなかったから、内側からくる匂いか、それとも外側で漂っている匂いなのか、判別がつかなかった。
ポストに出せない一通の手紙を玄関においていた。それを香澄が見つけて、おや、という顔をした。
それから僕の手を振り払い、「無理やりそういうことするのきらい」、と逃げるように僕の書いた手紙をつかむと、ドアをこじ開けて去っていく後ろ姿が僕の目にうつった。
彼女に嫌われた。もう二度と話もできない。僕は諦めた。もう、誰も僕の部屋を訪ねてこない。あとは、死んだあとに、家族に発見されるだけだ。そう思うと、涙がこぼれそうになり、もっと誰かと関わっていたかった。誰かを特別に愛をもって接せられたなら、そうできなかった自分がむなしかった。だけど、まだ、誰かが救ってくれるような希望は、なぜか、少しだけ心に宿していた。僕は、誰かに、救いの手を求めよう、とぼやけた頭で考えようとするが、誰の顔も思い浮かばない。困った。どうしよう。父親に連絡しかけて、手を止める。
突然、ドアが勝手に開いて、ずかずかと入ってきた香澄に白い袋を差し出された。スーパーで買ったらしき、食材がつまっている。
なに?とぼんやり香澄を見ると、「とりあえず食べて風呂に入って」と言われた。
「それから部屋の掃除もして」
そう言うと鼻をつまんだ。
「あと、これ」
香澄は僕に携帯を見せた。彼女にあの何も言わない無機質な教師が僕のことを心配している文面、彼女に彼を気にかけてほしいと頼む文面が並んでいた。僕の知らないところで、僕を思ってくれていた人がいた。それなのに、甘えて、僕は、身近な人のことを、視野から追い出そうとばかりしていた。なんて愚かなのだろう。僕は、その文面から目を離せなくなる。そんな僕に、彼女は、スマホを持つのが疲れたといった様子で、ぽいっとカーペットにスマホを放った。
「一人になろうとしないでよ」
彼女がぽそっと呟く。
日常を生きるとは ゆた @abbjd
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます