ある魔女の弟子

鳴島悠希

ある魔女の弟子

 村はずれの家は、風の通り道に斜めに刺さっているみたいだった。


 土の壁は曇り空の色で、昼でも夕方の手前の顔をしている。

 そこに住む彼女のことを、村は魔女と呼ぶ。

 呼ぶときの声はみんな少しだけ裏返る。

 怖がって、でも頼って。


 熱が出れば戸口をこつこつ叩き、膝が痛めば煎じ薬をねだり、眠れない夜には夢見草を置いていく。忌んで、使う。村って、そういうふうにできている。


 ボクは魔女の一番弟子だ。


 ボクはそんな村人たちが嫌いで、来たら追い返そうとする。

 けど、彼女はそんなボクを制しては、やはり、何かしらの助けを施す。


 不満げなボクを彼女は撫でては、「キミが守ってくれようとしてるのは嬉しい」と声をかけてくれる。


 でも、ボクはちっとも守れているようには思えない。

 彼女の身体は弱い、村人たちに施している場合とは、とても思えなかった。


「今日は乾きがいいわ」


 彼女は束ねた草の茎を指先で折る。


 ぱきんって小さな音が弾けて、部屋に淡い緑の筋が広がる。

 窓辺の鈴が風に触れて、角度を変えて鳴った。

 黒い瓶は曇ったままで、黙っている。


 昼前には村人が来る。

 戸口の前で足音を揉んで、それから中へ。

 みんな彼女の顔を正面からは見ない。卵や銅貨を手のひらにのせ、背中越しに事情を話す。

 帰り際にだけ、声が柔らかくなる。


「助かります、魔女さま」


 助かるって言葉は軽くて重い。

 軽いのは口先で、重いのは奥にぶらさがってる暮らしだ。

 彼らが去ったあと、戸の縁に指の跡と埃が残る。

 彼女はそれを布で払って、また黙る。

 ボクも黙って火を見ている。

 火は小さいけれど、長く呼吸をする。


 その日、風はほんの少しだけざらついていた。

 畑の土が薄くめくれて、舌の上に砂の気配が触れる。


 村の奥から、聞き慣れない笑いが転がってきた。


 錆びた刃を擦るみたいな笑い。流れ者だ、と誰かが戸の隙間で囁く。

 安い酒の匂い、汗と革、鉄の冷たさ。


 匂いは姿より先にやって来る。

 匂いは、うそをつかない。


 戸が開いて、光が床に落ちる。


 魔女はいつものように立っている。

 白い頬に影がひとすじ、目は乾いた紙みたいに澄んでいる。

 魔女は彼らを見ず、彼らの後ろの空気の歪みを見る。

 ボクは息をひとつ飲む。胸の奥で小さな鈴が震えたみたいだった。


「いい腕だって聞いた。遠くで使い道がある。ついてこい」


 流れ者の言葉は干からびた縄みたいで、肌に触れると痛い。

 彼女はゆっくり首を振る。

 夏の終わりに風向きがふっと変わるときみたいに。


 伸びてきた手はざらざらして、血と革と油の匂いが混じっていた。


(これは、まずい)


 明らかな害意を感じた瞬間、ボクの身体が先に動いた。

 男たちと彼女たちの間に割って入り、低く短い声が喉の奥で勝手に鳴った。


「なんだ、お前は」


 男がこちらを見て声を上げた瞬間、ボクは男にとびかかった。


 牙が当たる。

 鉄の味。


 蹴りが飛んできて、世界が裏返る。

 腹の隙間に硬い石が刺さる。

 目の高さに靴の裏、地面に落ちる唾。


「うわっ、この犬、噛みやがった!」


「なんだコイツは魔女の使い魔か?離せ! 足に食らいついてる!」


 誰かの怒鳴りが遠くに跳ねた。

 そのまま男が振りかぶった短剣は、ボクの腹を裂いた。


 ボクはもう一度吠えようとして、情けない細い声しか出せなかった。

 土が湿って、口の端に血の味が広がる。視界の端で、彼女の裾がふわりと揺れた。


 そのとき、彼女の声がはじめて鋭くなった。


 刃物じゃない。張りつめた糸が切れる直前の、澄んだ音色。

 空気がぴんと鳴って、風の向きが逆さまになる。流れ者たちの笑いは音の出ない口へ変わり、影は陽の中で形を失っていった。


 色だけが煙みたいに残って、やがてそれも溶ける。匂いが止まる。

 世界が一拍、止まった。


 彼女はボクのそばに膝をついて、土の匂いを吸った。

 掌でボクを包む。その手は普段より熱くて、火の手前の温度がした。


 目の奥に、雪解け水の光が走る。濡れた石みたいに冷たくて深い。


 唇が動く。「ごめんね」って形を作る。


 音は風に飲まれて届かない。でもひたいがボクの額に触れて、舌みたいな炎みたいなものが喉から胸へ、胸から腹へ流れ込んだ。


 熱が来て、冷たさが出ていく。


 出ていく冷たさは外に薄い輪を作って、その輪のむこうで、彼女の輪郭が透けはじめた。

 夕焼けの色が衣の裾に混ざり、指先が糸みたいにほどける。髪が風へ溶けていく。


 魔女の姿が消え、残ったのは、小さな石だった。

 涙が乾くより少し遅い透明。指で触れると、遠くで心臓に似た音が鳴っている気がする。

 彼女の温度がそこで止まっているみたいだ。ボクの中では彼女の火が燃え続けて、身体の形があらためられていく。


 骨が伸びる。

 視線の高さが変わる。

 足のかわりが指になって、爪のかわりが掌になる。


 掌の真ん中に、まだ土の匂いが残っている。


 目を開けると、夕暮れだった。村


 は遠くで小さく縮こまり、流れ者の影はどこにもなかった。


 空には薄い月。


 窓辺の鈴が、別の調子で鳴る。起き上がろうとしたら足の長さにびっくりした。


 立てる。


 立つことは歩く前ぶれで、歩くことは離れる前ぶれでもある。


 掌の石は、夜のはじめみたいに静かだ。


 耳を澄ますと、彼女の呼吸に似た気配が石の奥でかすかに反復している。

 ボクが「弟子」と名乗ってきた日々はここでいったん終わった。


 でも、弟子でいる形はたぶん別の形で始まる。


 失うことと生まれなおすことが輪みたいにつながっているって、ようやく思えた。誰かのそばに座るために持っていた言葉は、今度は誰かのそばへ向かうための足に変わる。


 家のなかのものはどれも彼女の手触りを宿していた。瓶の口、乾いた草、火の痕。どれも静かに光って、ボクを見送る準備をしている。


 村に戻れば、また戸の縁の跡を見て誰かが何か言うだろう。


 忌む言葉か、助かるって言葉か、どっちも同じ重さで肩に落ちてくるだろう。

 けれど今は、その重さごと背負っていくしかない。


 石を紐でくくって胸に下げる。ひんやりした感触が鼓動に重なって、歩の数を数える拍子木みたいになった。

 外に出ると、草が膝に触れる。


 膝、って自分に使うのははじめてだ。四本だった足は二本になって、世界はぐらりと高くなる。

 高くなった世界は、同じ風でも違う匂いを連れてきた。


 家の前の道は、村へ戻る細い線と、丘の向こうへ消えるもっと細い線に分かれている。

 夜のはじまりの空は、その二本を見分けにくくする。迷っているあいだに、胸の石が小さく鳴った。

 鈴の音に似ている。窓辺の鈴はいつも風に鳴って、風はいつも彼女の方角を教えた。


 ボクは息を吸って、はじめて声にした。


「行こう」


 思ったより軽くて、情けない声だった。


 心もとないけれど、それでいい。

 喪ったものは形を変えて、胸のうちで灯になった。灯は遠くを照らすんじゃなく、足もとだけを少し明るくする。足もとが見えれば、一歩ぶんだけ前へいける。一歩いけば、灯もまた一歩ぶん進む。


 ボクは村に背を向けた。


 丘の向こうから、見たことのない匂いが風に乗ってくる。


 湿った石、木の皮、水が生まれる匂い。

 旅のはじまりには、だいたいこういう匂いがする。

 胸元の石はあたたかくて、そこに彼女の呼吸が続いているかぎり、ボクは歩くだろう。


 いつか「ただいま」って言える場所で、彼女にもういちど触れるために。

 いや、触れ直すために。


 足音はまだ頼りない。


 でも、確かにボクのものだ。空は濃くなって、最初の星がひとつ、こちらを見る。


 ボクはその視線を借りて、闇の輪郭に目を慣らす。

 輪郭のむこうに、知らない世界がある。喪失と再生は、たぶん呼吸だ。吐いて、吸って、また吐く。


 そのあいだの小さな静けさに耳を澄ます。胸の石が小さく鳴って、風といっしょに歩き出す。

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