【想像力】誰かが泣くことを良しとする世界なら、誰も笑顔にならない世界の方がまだマシだ

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

「笑顔の数」の多さよりも、「涙の数」が少ない世界を、私は生きたい

人が笑っているその背後で、誰かが涙を流しているなら、その笑いは幸福ではない。多くの人が楽しげに見える場所にこそ、見えない痛みが潜んでいる。社会はしばしば「多数の幸福」を口にするが、それは一人の苦しみを見えなくする言葉にもなり得る。幸福は総量ではなく、関係のあり方に宿る。誰かの悲しみを踏み台にした喜びは、どれほど数が集まっても空洞のままだ。


いじめの構造はこの単純な事実を裏切る。教室という小さな社会の中で、一人の人が標的にされ、周囲はその苦しみを笑いに変える。笑う側は「空気に合わせているだけ」「冗談だ」と言うが、笑いが成立するためには必ず犠牲が必要になる。標的を失った集団は不安になる。だから、いじめは止まらない。犠牲を必要とする共同体は、安定を恐怖で保っている。


「一人の犠牲で大勢が笑顔になるなら、それは幸せなのか」という問いに、合理的な答えは存在しない。倫理は計算ではない。誰かを苦しめて成り立つ笑顔は、笑顔の形をした暴力である。痛みを見ないふりをすることは、痛みを与えることと同じ構造を持つ。そこでは他者は「存在」ではなく「機能」として扱われる。笑わせるための駒、空気を保つための役割。人間の尊厳は、そんなふうにして少しずつ摩耗していく。


笑う側もまた、決して安全ではない。いじめが終わった後、次の標的になるのは、昨日まで笑っていた者の誰かだ。笑いへの同調は、一時的な免罪にすぎない。いつか自分がその「一人」になるかもしれないという不安を、人は心の奥で知っている。それでも笑うのは、自分の恐怖を他人に押し付けるためだ。いじめの輪の中で最も怯えているのは、実は笑っている側の人間である。


真の幸福は、犠牲を必要としない幸福である。誰かの涙の上に築かれた喜びは、いずれ崩壊する。痛みを無視することによって得られる安心は、麻酔のようなものだ。しばらくは心を楽にしても、感覚を鈍らせ、やがて倫理の死をもたらす。多数の笑顔が正しいという信仰は、社会を腐らせる。そこでは「正しいこと」よりも「みんながそうしていること」が優先される。


もし、いじめられて笑われているのが自分だったら――。

この想像を現実のように感じ取れる力こそが、人間を人間たらしめている。想像力とは他者の痛みを自分の痛みとして受け止める能力であり、倫理の根幹である。「自分だったら嫌だ」という感情は、単なる共感ではない。世界を壊さないための防波堤である。


しかし、人は容易にその想像力を失う。日常の中で他者の痛みを見るたび、心のどこかで「自分じゃなくてよかった」と安堵する。その安堵が繰り返されるうちに、痛みは遠ざかり、現実感を失う。他人の涙が「誰かのこと」になり、笑いの材料になる。そうして生まれるのが、無自覚の残酷さだ。人は悪意よりも、無関心によって他者を傷つける。


社会はその無関心を温かく包む。「楽しければいい」「場が明るくなるならいい」。こうした言葉は、痛みを隠すための正当化の衣をまとっている。だが、その衣の下には常に沈黙した犠牲者がいる。大勢の笑顔は、その沈黙を前提に成り立つ。沈黙を続ける人がいる限り、笑いの音は澄んで聞こえる。しかし、そこに響くのは幸福ではなく、誰かを排除したあとの虚しい共鳴である。


いじめを「仕方ないこと」として受け入れる文化は、社会のあらゆる場面に残っている。職場でも学校でも、弱い立場に置かれた人間が笑いの対象になる。誰もが「空気を壊したくない」と思い、沈黙する。だが、その沈黙こそが暴力の温床である。沈黙は中立ではない。沈黙は常に加害者の側に味方する。


人間の尊厳は、数では計れない。

一人の人間の苦しみは、どれほど多数の幸福にも置き換えられない。倫理の原点は、「数ではなく重さ」にある。一人の涙の重さを感じ取れない社会は、どれほど豊かでも冷たい。幸福の総量を増やすことよりも、悲しみを一つ減らすことの方が難しく、しかし尊い。


「一人の犠牲で社会が笑顔になるなら良いことだ」と考えることは、便利だが残酷だ。そう考える人間は、自分がその“一人”になる未来を想像していない。だが、誰もがいつか弱くなる。病気、老い、失敗、孤立。人間は必ずどこかで「守られる側」になる。その時、過去に見逃してきた他人の涙が、自分の涙として返ってくる。世界はそういうふうにできている。


笑いは本来、人と人をつなぐ力である。

しかし、笑いが他者を排除するための道具になったとき、それはもはや文化ではなく暴力だ。暴力は言葉を奪い、沈黙を強いる。沈黙の中で人は孤立し、自分を責める。いじめられる側は「自分が悪いのだ」と思わされ、いじめる側は「冗談だった」と逃げる。これが最も卑劣な支配の形である。責任を曖昧にしながら支配を続ける社会は、倫理を腐らせていく。


多数の笑顔のために一人を犠牲にする考えは、実は幸福を守るどころか壊す。なぜなら、その瞬間から他者が「交換可能」な存在になるからだ。誰かが笑いものになっているとき、そこにいる全員が「次の犠牲者」になり得る。恐怖の連鎖を断ち切る唯一の方法は、誰かが勇気をもって笑わないことだ。笑いに同調しないことは、最初の抵抗であり、最初の優しさである。


真の幸福は、誰かの涙の上には築かれない。幸福とは、他者の痛みを共有できること、共に生きること、傷を見ないふりをしないことだ。人が人として生きるとは、他者の痛みを感じ取る能力を失わないことに尽きる。想像力は贅沢でも理想でもなく、生存の条件である。


「みんなが笑っているとき、そこに誰かの涙が流れてはいないだろうか。」

この問いを持ち続けることが、人間社会にとっての倫理の灯になる。問いを抱く者は孤独になるかもしれない。だが、その孤独こそ、人間の心の最後の温度である。


いじめが終わるとき、それは加害者が罰を受けた瞬間ではなく、傍観者が想像力を取り戻した瞬間だ。誰かの痛みを見て、ただ笑うことをやめる。笑う前に、ほんの一瞬でも立ち止まる。その一瞬の沈黙が、世界を変える最初の音になる。


一人の犠牲で多くの笑顔を得るという考えは、人類の歴史の中で何度も登場してきた。しかし、そこに生まれたのは笑顔ではなく空虚だった。社会が成熟するとは、「誰も犠牲にならない笑い」を探すことだ。互いを見下さず、奪わず、傷つけず、それでも笑い合えること。それが人間の文化の理想であり、まだ実現していない課題である。


いじめのない世界とは、痛みがない世界ではない。

痛みに気づける世界である。痛みを分かち合う力を持つ世界である。

そのために必要なのは、力でも数でもなく、想像力である。


大勢が笑っているその陰で、一人が泣いているなら、世界はまだ幸福ではない。

笑顔の数よりも、涙の数が少ない世界を目指すこと。

その願いこそ、人間が人間として生きる意味であり、

この問いに対する、たった一つの答えである。

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