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ねろみこ

第1章 グッドバイ・イージーライフ

第1話 神の事情で今日から聖剣の担い手

 偉大なる叙事詩に曰く、闘い敗れた戦士は死した後に楽園に向かうという。そこには帰るべき魂の場所、全てを受け入れる温かな国があるとされる。

 回帰の象徴である始まりの門をくぐった先で、失った祖先や至高の神々の歓待を受け、生前に負った魂の痛みを洗い落とす。

 やがて宴が終われば、死者は空を頂く威容の宮殿へと招かれる。

 そこで座する理想郷の主、大いなる天の女神カル・ボナラの言祝ぎを与えられたならば、最後に二つの道を選ばなければならない。

 妨げられぬ安寧と調和、永遠の楽園で生まれ変わりを待つ転生の道。そして、定められた運命を否定し、苛烈な試練の報酬として蘇りを約束する復活の道。

 勿論、事の真偽は不明。だが、強大な魔物との戦争で疲弊しきった古代の人々が、秘めた心の内にこの詩を救いにしていたのは明らかであろう。

 人は誰しも何かに縋っているものだ。

 そんな清い眉唾に誘われた、死者が一人。彼女の名はチェルシー。

 魔の暗い血脈を終わらせると云われる予言の聖剣。『白い燐光りんこうのアアル』を、祖国で待つ英雄に託すため、聖剣探求の旅を任じられた下級騎士たちの一人である。

 そして、血潮が渇くような長い放浪の末。とある古びた神殿で、チェルシーはついにそれを見つけ出した。

 だが、女神の選定とも称される聖剣を石の台座から引き抜いたとき、肉体は灰となって滅び、文字通り砕け散ってしまった。あまりに儚い最期、報われぬ旅の終わりである。

 ──単純に資格が無かったために。

 しかし、いかなる奇跡か偶然か。まるで夢のような、星粒の瞬きの合間を過ぎ行く空間の中、彼は運命のいたずらに招かれた。

 ──今も息づく神話の世界、勇者の魂を召し上げる天空女神の都へと。





 ただ光ある蒼穹と、遥かな雲海の水平。その最中に佇むは、蛋白石オパールのような燦然とした輝きを身につけた、天の女神がおわしめす白亜の殿堂。

 選ばれた戦士の御霊のみが招かれる巨大な宮殿の内にて。

 頬に滑らかな冷たさを感じて、チェルシーは永く暗い眠りから目を覚ました。


「ここはどこなの……」


 いったい、いつから此処にいるのか。どうしてこの身は横たわっているのか。どうにも判然としない。


「そうだ。私はあの日、死んだ」


 朽ちて苔むした石膏像を思わせる時間の停滞感と、全身を地に縫い付けるが如き怠さ。

 朧気おぼろげな意識の中、重いまぶたを懸命に開けたチェルシーは、瞳に映るその光景に思わず息を呑む。

 人の身には広大に過ぎる大理石の床は鏡のように磨きこまれ、あたかも何もない宙へ至っているとさえ錯覚させる。視線を流れさせれば、天の遣いが彩色豊かに描かれたステンドグラスが、その美しい影を巨大な空間に注ぎ込み、仰ぐほどに高い天井に彫刻された至高の神々の物語──その意匠を遍く際立たせていた。

 きっと、指折りの職人でさえ生み出すことができないであろう、一泡の夢のようなその造り。

 ただ、今は見惚れていた。完璧な調和がとれた、その空間の静けさの最中に。

 そこへ、遠くからか、ぺたぺたと床を鳴らす足音が響く。余裕を感じさせる緩慢、されど規則正しい間隔でもって、チェルシーの方へと歩みを進めている。

 そして、音の主は扉を隔てた向こう側で立ち止まった。

 まるで巨人が通れるような、重厚にして大きすぎる扉が、眼前で軋みながら開いていく。左右の面に描かれた勇ましい獅子が、来たる者の隣に並び立つ。

 拡げられた向こう側より流れ込む、太陽を思わせる眩い輝きに、チェルシーはそこに佇む人影を直視することが出来ない。


「あら、これは失礼を」


 白に塗り潰される視界に指をぱちん──、と鳴らす乾いた音が届いた時、目を灼く光は止んだ。

 鮮明に描写され直していく目の前には、輪がいくつか付いた錫杖しゃくじょうを手にした、純白のトーガを纏う女性が立っている。背に見える白鳥の両翼からして、明らかに常人ではない。

 チェルシーは最大限の警戒をしながら、対応を思考する。


「──そう畏れないで。楽になさい」


 正体不明の女は、両腕を広げて歓迎の意を示す。今まで出会ったことのない絶世の面貌に、チェルシーは絵画の中に紛れ込んだような感覚に陥った。

 女の纏う不思議な雰囲気に惑わされつつも、チェルシーは恭しく頭を垂れる。


「はじめまして、私はチェルシー。そして此処へ断りなく訪れた無礼をお詫びします」

「いいえ、その必要はありませんよ。このわたし──、そうでした。自己紹介がまだでした」


 うっかりしていたと、腰ほどもある豪奢な金の髪を細指で掻き上げ、女は物腰柔らかに微笑んだ。


「わたしには幾つか名が有りますが、そうですね……。あなたの世ではカル・ボナラとよばれています」


 カル・ボナラ。偉大なる天空女神にして、神々たちの統率者。そして──またの名を、運命の道を分ける者。

 ある程度、天の遣いに連なる者だろうと予想はしていたものの、思いもよらぬ正体にチェルシーは言葉を失う。

 絶句したのは、はじめて排する神の威容だけが理由ではない。この女神が現れたということは、ここは永遠の楽園、その宮殿だ。


「状況がまだよくわかっていないようですから、道すがら説明してあげましょう。ついてきなさい」


 チェルシーとカルは扉を抜け、壁のない円形の回廊を歩いていく。足を踏み外せば底無しの天空へ、どこまでも落ちていきそうな紺碧の臨み。すがりつく風が髪を撫でては、澄んだ薫りを残していく。

 ふと、背後を振り返ると、先程までいた部屋はもうなかった。


「まずはようこそ、永遠の楽園『ソース』へ。チェルシー、あなたは本来ここへ招かれることのない死者だったのですが、事情が変わりました」

「事情、ですか。それはどういう?」

「ソースに招かれる魂は、勇敢な戦士のみ。これはあなたも知っているはずです。そして、楽園の地を踏むには門をくぐり、神々の歓待を受けなければなりません」

「…………」

「ですが──」


 話を途中で切り、カルはサンダルの歩みを止める。

 しゃん、と手にした錫杖の先で床を叩くと、二人の前に風景から溶け出すようにして、楽園に似合わぬ冷たい鉄の扉が姿を見せた。

 その入口をくぐり、辿り着いたのは大図書館とでも形容すべき場所だ。

 等間隔に並び立つ、数え切れぬほどの本とスクロールが詰め込まれた棚と、ぽつんと部屋の中心に置かれた執務机。首を動かして吹き抜けを見れば、どうやら上にまだ階層があるとわかる。


「ここには、死した者の魂が本となって納められています」


 カルは何も無い中空に手を伸ばすと、そこから一冊の本を取り出す。ぱらぱらと適当にページを捲って目を通したそれを、本棚の空きへと入れた。


「それは研磨された選りすぐりの魂たちですが、あなたたち人だけではありません。たった今納めたのは神の一柱です」


 どこか寂しげな、親に置いていかれた子がするような表情を見せて、カルは言葉を続ける。


「チェルシー、この宮殿に来た時のことを思い出してみて。あなたは『歓待の間』にいましたが、そこでわたし以外の誰かに出会いましたか?」

「いいえ、女神様以外には誰も」

「そう、あなたはわたし以外には会っていない。なぜなら、もうこの楽園に──、いいえ。もうこの天界に神は、わたしだけなのですから」

「それは言葉どおりの意味ですか」

「はい」


 なぜ、楽園に招かれた時、叙事詩で言われるように門の前ではないのか。神々の歓待は無かったのか、その謎をカルは話の中で解いていく。

 だが、たどりついた結論はあまりにも突飛なものだった。


「先ほど、事情が変わったとおっしゃっていましたが、それはいったい?」

「隠さずに全て伝えましょう。たった今、わたしたちの世界は異界の神々の奸計により、奪われようとしています」

「異界の神……」


 チェルシーは今こうして神話の存在と対話していることに、内心抱えている畏怖を抑えきれない。そのうえ、己ごときに開示されていいはずのない情報が与えられていることに、混乱していた。


「手を出して」


 そんな風を察してか、カルはまた指をはじく。すると、チェルシーの手に銀盤に載せられたほの温かい紅茶が現れる。


「飲みなさい、落ち着きますよ。それに私がこのような話をあなたにするのは、長い歴史の中で資格無く剣に挑んだのが、あなた一人だけでしたので。これでも、あの蛮勇をわたしは戦士の一端として、認めているのですよ」

「それはありがとうございます、ですが……私に真実を明かして、どうなさるおつもりですか?」

「それを今からお話しましょう」


 カルは穏やかな笑みを浮かべると、両手をぱんと叩く。それに合わせて、どこからか現れた角砂糖が二つ紅茶に放られ、静かな波を立てた。


「異界の神々は遥かな創世の時代にも現れ、魔を地上に撒きました。その時はわたしたちが異界の軍勢を退けましたが、大地の汚染は完全には治まりませんでした……それは、形や姿を変えながら進化し、今は『魔物』と呼ばれています」

「それは知っています、騎士になる前に神官を志したことがあるので」

「敬虔だったのですね、良いことですよ。そして、時が経って、なんらかの要因によって再び異界と現世が繋がってしまった。それに此度は、間の軍勢の中に人間を連れている。きっと向こう側の人間の兵士でしょう……哀れなものです」


 カルは瞼を閉じて、深く息をつく。


「本題はここからですよ。チェルシー、あなたには当代の剣の担い手になってもらいます」


 突然に切り出された、とんでもない爆弾発言にチェルシーは狼狽する。あの剣に一度挑んで負けた身として、痛いほど理解した。自分にあの剣を振るって戦う資格は無い。それに、祖国の聖剣探求の任はまだ終わっていない。


「──ちょっと、待ってくださいませんか。私は聖剣を祖国へ届けなければいけないのです。そこには私よりも、遥かに腕の立つ一騎当千の将がいます。彼こそが担い手には適任かと」


 ふむ、と少し考えて、カルは冷徹にチェルシーを見据える。先までの暖かなそれではない、その突き刺す双眸。神の威厳を含めたその視線は、もはや抜き身の凶器に近い。

 空気の重さに呼吸は浅くなり、見えない腕に喉を締め付けられているような錯覚を覚える。


「……確かに、今のあなたでは聖剣アアルを担うには実力不足のようですね。しかし、既に空に神々は消え、人は導きを失って久しい。それに、聖剣がその英雄とやらに渡る頃には、私はいないでしょう。故に荒療治になりますが、許しなさい」


 カルは錫杖を天に突き立て、何度も激しく鳴らす。しゃんとした音に伴って、チェルシーの身体が火炉に放り込まれたように、尋常ではない熱を帯びる。耐え難い痛苦に床をのたうち回り、脳が生命の維持を放棄しそうになった、その時──、カルが「我が父の怒りをここに納め、最初の死者たる弟ペペロンの穢れを授ける」と唱えた。

 途端に熱は引き、チェルシーは体に別の何かが入り込んだことを直感する。


「今のはいったい……」

「私に託された神の残滓を、今あなたに注ぎました。あなたはもはや、人に在らず。チェルシー、今より天の女神の名のもとに試練を課します」

「説明が……足りません」

「問答無用です! 既に神託は降りました。常人なら死することすら安らぎに思える試練。見事に乗りこなしてみせなさい」

「話を……」

「言いたいこともあるでしょうが、今は時間がありません。現世へあなたの魂を引き戻します。そんな顔をせずともよいですよ、時折、お告げをしますから。人の世ではナビゲートと言うのでしたか……とにかく、タダでは死ねない体にしたからには、諦めて聖剣を担うのですよ。いいですね!」

「は、はあ。ええ……」


 段々と神秘の化けの皮が剥がれ、女神カルは砕けた本性を露わにする。チェルシーは大きなため息を吐いて、懐かしい祖国を思って天を仰いだ。


「ため息をしない! さあ目を瞑る!」

「とんでもない任務についてしまったなあ……」


 ──刹那、視界が白く明滅した。意識が消え、無になる。文字通りの無に。


「…………」


 どれほど時間が過ぎたのだろうか。長い夢を見ていた気がする。巨大な海流に呑まれているような鳴動が耳朶じだを揺らし、まるで波間に揉まれる貝になったようだ。

 やがて、肉体の自由が効くようになって目を開けて──、思わず絶句した。


「海、だと……」


 チェルシーは聖剣を強く抱いたまま、晴天の大海原を漂っていた。

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