憧れ

エドゥアルト・フォン・ロイエンタール

憧れ

「朝です。起きてください。お嬢様」

 聞きなれた少し幼く、元気のよい声とともに、朝の心地良い光が部屋に差し込み顔を照らす。眩しい。

 堪らずベッドから体を起こし、右を見ると声の主がちょうどカーテンを畳み終わったところみたい。

「あっおはようございます、メティスお嬢様」

「おはよう、ベス。今日も元気そうね」

「はい。私はいつでも元気です。今日もいつも通り少し早めにお声をかけましたが、すぐに着替えられて食堂に向かわれますか」

「ええ。そうしましょう。昨日選んでおいたお洋服を持ってきて。すぐに着替えるわ」

「はい。わかりました。すぐに持ってまいります」

「ありがとう。でもまた転ばないでね」

 ベスは苦笑しつつ、部屋を後にして駆けていってしまった。

 ベスがここで働きだしてもう二年ほど立つ。彼女は、彼女の亡き母に代わり、この屋敷で働いている。仕事の覚えも早く、要領もいい。それでいて、私とは歳も離れていて、まだ色々なことに興味を持てる、元気なお年頃。

ベスは今14歳、私は今年で20歳を迎え、身分の違いもあり、仕方のないことなのだろうけれど、自由に世界を感じ、楽しめるベスのことがとても好きだけど、少し嫌い。

「ベス、大丈夫。手伝おうか」

「大丈夫です。私が任された仕事です。それに……メティスお嬢様のお手伝いのできることが私にとっての喜びですから」

「ほんとベスは物好きよね。じゃあ頑張って。私たち先にお屋敷のお掃除始めているからね」

「はい。すぐに行きます」

 廊下から聞こえてくるベスと侍女たちの会話。

 ベスはいつも私のために頑張ってくれている。

 私は未だに「なぜ私の為にそこまで頑張っているのか」を聞けないでいる。

「お帰りなさい。一人だと大変でしょうに。毎日取りに行かせてごめんなさいね」

「わざわざ扉を開けて頂き、ありがとうございます。さっそくお着替えをしましょう」

 ベスはいつも鼻歌を歌いながら、着替えを手伝い、髪にブラシをかけてくれる。それに私が即興で歌詞をつけて歌う。毎朝やっているちょっとした遊び。私はこの時間が少し好き。

 今日ベスと作った歌は初夏らしい、過ごしやすく喜ばしい春から、暑く忙しい夏へ変わっていくような、楽しく優雅な曲ながら、少し忙しくて不安を感じさせる、そんな曲だった。

「そういえばメティスお嬢様、お外はご覧になりましたか。昨晩降った雨の雫がお庭の花々を美しく飾られて、とても綺麗ですよ。後で見に行きませんか」

「ええ。せっかくですし見に行きましょう。ベスはもう見てきたの」

「はい。と言っても玄関横の薔薇の低木が綺麗だっただけですが…それでもメティスお嬢様のお召しになっている、ドレスのほうが美しいと思います。それでも身に纏われているお嬢様には劣りますが。今日はどのような髪形にしますか」

「そう。ありがとう、嬉しいわ。そうねぇ……今日は外出の予定はないし、ロールを3つでお願いするわ」

「かしこまりました」

そうして二人だけの歌唱会が、また始まる。

「できました。一応確認をお願いします」

「ベスが問題ないと思えたならそれでいいわ。ありがとう。食堂へ向かうわよ」

「はい。お嬢様」

 階段へ続く長い廊下。所々に置かれている、陶磁器に入った色とりどりの花と黄金の燭台。

 そして二階から食堂のある一階へ。途中の壁に飾られた、歴代の当主と夫人の肖像画たち。

「お嬢様。どうかしましたか」

「ええ。私のお爺様である、『栄光のアルバート卿』の肖像画を見ていたのよ。お爺様の偉業はベスも知っているでしょ。私もお爺様のような偉大で高潔な人間になりたいわ」

「はい、知っています。先代当主様は半世紀ほど前の大戦争にて、一個騎兵連隊を指揮する男爵から、ワーテルローの決戦で総指揮官である『ウェリントン公爵』の親衛騎兵隊を率いるほど出世し、伯爵に叙され、一族を大きく繁栄に導いてくださったお方です。私も亡き母も尊敬し、そんなお方の令孫であるメティスお嬢様の傍にいれることに日々感謝しております」

「もう、そうやっていつも説明をしないで。恥ずかしくなるわ。それにそんなに畏まらないで。普段のベスでいてほしいわ」

 それに私はお爺様の威光を被っているだけで、私自身は何も凄いものは持ち合わせていない。だからベスのたまに言う「お世辞のような大げさな褒め言葉」は正直少し苦手。でも私はそんな偉大で、栄光に富んだパーセル家の跡を継ぐ一人娘。弱音を吐かず、弱みを見せるわけにはいかない。しっかりしなくては。

「今日の朝食は何が出るのでしょう。えへへ、楽しみですね」

「ええ。そうね。その前に『私の敬愛する慈悲深きお母様』との優雅で有意義なおしゃべりが待っているのが憂鬱ですわ」

 食堂につき、ベスが扉を開けてくれる。

席にはすでに「母」が座っており、私を見つけると読んでいた新聞を置き、睨みつけてきた。

「メティス。なぜ今日もこんなに起きるのが遅いのですか」

「おはようございます、お母様。申し訳ございません。今日も用意に手間取ってしまい、時間がかかりました。今後はより早く支度を済ませ、朝食の席に着けるよう努力いたします」

「その言葉は何度も聞きました。言葉にする以上、その義務と責任を果たしなさい。この程度の意識では、貴族としての義務と責任は果たせません。精進なさい、メティス」

「はい。至らぬ点をご指摘いただき、感謝いたします」

「よろしい。では朝食を食べましょう」

 母の反対側に用意された席に座り、食事が運ばれてくるのを待つ。

 この間がすごく気まずい。何年たってもこの感覚は消えず、息苦しい。

 小さかった頃、朝食は一日の中で最も楽しみな時間だった。

 母と楽しく話して笑いあえるかけがえのない時間。それが朝食までの時間だった。

 実母は新興の富豪の一族出身で、貴族の父と身分不相応な結婚をし、私を産んだ。

 しかし母は私が7歳の時に亡くなり、代わりに継母がやってきた。

 継母は、ウェールズの伯爵の分家の出身らしく、自分の血筋の高貴さや貴族としての誇りのようなものをとても大事にし、威張っている。

 むろん継母は、新興の富豪でしかない母の娘である私のことを疎んでいる。だからいつも私には風当たりが強く、私に過剰なまでに貴族の令嬢であることを求めてくる。正直私はこの窮屈な家が好きではない。

 そんなことを考えながら待っていると、朝食が運ばれてきた。これで少しは気分が楽になる。

 黙々と食事を済ませ、ベスと共に食堂を出た。

「朝食も済みましたし、さっき話していた花々を見にお庭に行きましょう」

 ベスは「はい」と元気よく答え、連れ立って庭へ向かった。

 庭にはベスの言うような雨の雫はなかったが、花々が美しく咲いていた。

「お嬢様、あのアイリスを見てください。満開の紫色の花と若緑色の葉が綺麗ですよ」

「ええそうね。でもベス、どんなに嬉しいこと、興味を惹かれることがあっても、自らが立派な淑女であるということを忘れてはなりませんわ」

 言葉では「わかりました」と言ってはいるけれど、明らかに不満げなベス。

 私の言葉でテンションを下げるベスを見ると、いつも申し訳ない気持ちが湧いてくる。

 本当は私もベスのように心から世界に触れて、感じたいと願っているけれど、それは決して許されない。

「ベス、時間は大丈夫かしら。そろそろ部屋に戻りましょう。次の予定があるわ」

 ポケットから時計を取り出し、はっとした表情をしたベスを見て、次の予定が迫っていることを悟る。次の予定は一体何だろうか。

 少し急ぎながら自室に戻ると、いつもの師範が居た。

 師範は時計を取り出し、チラ見すると眼鏡を少し持ち上げ、口を開く。

「いつもよりも少し遅れているように感じますが、まぁいいでしょう。いつも通りチェンバロの練習です。今回はヘンリー・パーセルのZ339を練習してもらいます。早く椅子に座り、お弾きなさい」

 そうして夕食時まで細かく、短い休憩を挟みながらチェンバロの練習が続いた。

 この師範は私がどれだけうまく弾けても、決して褒めたり、認めたりはしない。必ずどこか欠点を見つけ、そこを指摘してくる。チェンバロの腕は良くても、人に教える腕は最悪だ。

「メティスお嬢様、お夕食のご用意ができました。食堂にて奥様がお待ちです」

 チェンバロを弾いている間は追い出されているベスが、練習の終わりを告げてくれた。

「もうそんな時間でしたか。仕方がありません。今日のところはこのくらいにしておきましょう」

「はい、ご指導ご鞭撻に感謝いたします。最近は日が長くなったとは言え、夜道は危険ですから、気をつけて帰ってくださいね。今日は一日ありがとうございました」

 師範を玄関まで送り、手を振りながら笑顔で見送った。

「メティスお嬢様、何か良いことがありましたか。満面の笑みをもらされるとは、お嬢様珍しいですね」

「そうかしら。いつも私はよく笑っているつもりよ。それに今日何か特別なことがあったわけじゃないわよ」

 そうですかと、あまり納得していない様相のベスだが、私はいつも笑顔を絶やさないようにしているつもり。表情には出さないけれど心の中では常に笑い、清らかでいようと心掛けている。

「さぁ食堂に行くわよ。お母様を待たせたくないわ」

 そうしてまた憂鬱な夕食と、有意義なお話を済ませ自室に戻ると、今度は語学の講師が残した本と置手紙があった。

 手紙には「この本を読み、学びなさい」とだけ。

 置かれた本は、古代から読み継がれてきた、偉大なラテン語の教本であるガリア戦記。次に講師が来るまでにこれを読んでおくようにということだろう。

 とても面倒だ。おそらくベスなら特大のため息をついて、しばらく放置した後、手を付けるだろう。

 でも私は、例え義母に認められなくとも、私は偉大な一族の娘。高貴で高潔な貴族の令嬢として、あるべき姿を示さないといけない。

 だからこのとても面倒そうな本もすぐに読破し、次の講義に備えなくては。

「失礼します。メティスお嬢様、お疲れではないでしょうか。遅くまで頑張られて、お疲れかと思いお紅茶をお持ちしました。どうぞ」

 私が遅くまで何かをしていると、ベスはいつも何かを作って持ってきてくれる。しかもそれは、いつも私が欲しいと願っていたものだ。

「ありがとうベス。一緒にどう」

「えっ、いいのですか。では、お言葉に甘えて……」

「いつもそうしているじゃない。それにお紅茶も、お菓子も一人で楽しむより二人で楽しむ方が美味しいわ」

 ベスの淹れる紅茶はいつもとてもおいしい。お茶菓子として持ってきてくれた、ビスケットの甘さとよく合う。

「このビスケット、とても美味しいわ。どこで買って来たの」

「このビスケットは私が焼きました。キッチンに残っていた果物を少し混ぜてみたのですが、気に入っていただけたのならよかったです」

 そうしてしばらくの間ベスと、愉快なお茶会を楽しんだ。

 終始ベスは、私を持ち上げるように話す。いつものように。

 なぜいつも気遣い、尽くしてくれるのか、今日も聞けなかった。

「これ以上お話をするのは、お嬢様の邪魔になると思いますので、そろそろ私は、自室に戻ります。おやすみなさい」

「ねぇベス。もし……もしもう少し起きているのなら、しばらくの間、近くにいてくれないかしら。それに寝る前に明日着るお洋服と、ネグリジェも選ばないといけないわ」

 忘れていたと動揺し、ベスはもうしばらくの間だけ、近くにいることになった。そして明日着る服を選び、ネグリジェに着替え、私はラテン語の勉強の続きを、ベスは裁縫を小さなアーク灯の明りを囲って再開した。夜も更けてきた頃、急激な眠気に襲われた。眠たい。だが私は貴族の、偉大なパーセル家の令嬢。こんな睡魔などに屈したりなどしな……

全身が痛い。どうやらあの後寝てしまったらしい。肩に毛布が掛けてある。おそらくベスが気遣って掛けてくれたのだろう。

カーテンを開けて外を見るとちょうど日が昇ろうとしている。とりあえずベスが起こしに来るまで勉強の続きをしていよう。

 起きてからしばらくすると静かに扉を開け、ベスが入ってきた。

「おはようベス、昨日はありがとう。助かったわ」

「ああ、いえ。侍女として当然のことです。今日はもう着替えられて、食堂に向かわれますか」

「そうね。すぐに着替えて向かいましょう。それと今日はお屋敷の外に出ようと思うから、ベスも出かける用意をしておいてちょうだい」

「わかりました。ところでどちらに行かれるのですか」

「今日はお屋敷を出て、どこか遠くへ。ちょっとしたピクニックに出かけたいですわ」

「はい。わかりました。朝食後すぐに昼食用のバスケットと外出の用意をしますね」

 ベスのこの年相応に元気で、愛らしい無垢な笑顔を見ると、私はいつも考えてしまうのだ。「果たして私がベスと同じ年頃だった頃、あんなに愛らしく素敵に笑い、世界を感じることが出来ていたのだろうか」と。

 今日は昨日選んでおいたパリグリーン色の外出用の服を身にまとい、髪型もベスにいつも以上に気合を入れて、立派で丁寧に結い上げてもらった。

 そしてすぐに食堂へ行く。いつもよりも早くに向かっているのだから、さすがにまだ母もいないだろう。

 そう思っていたのだが、食堂にはすでに母が新聞を読みながら待っていた。

「あら、いつもより幾分か早い到着じゃない。少しは見直しましたわ。それとあなたへお父様からお手紙が届いています。朝食までの待ち時間にでもお読みなさい」

 すでに私の席に一つの手紙が置いてあった。差出人は本当にお父様だった。

 さっそく手紙を開けて読んでみる。

 手紙には「お父様は今、黒海を囲んできな臭くなっているバルカン半島の在オスマン帝国側の外交官の一人として戦争前夜のイスタンブールに居られること」と「先月までにオスマン帝国は、支配に抵抗し蜂起したブルガリア人を殺したこと」「今はまだこの虐殺の話があまり知られていないが、公に知られるようになれば世論は動き、我らが大英帝国はオスマン帝国を見限るだろうから、父さんも一時的ではあるが、帰国できる」と書かれていた。そして最後に付け加えるように「メティスもそろそろ結婚を考えるべき歳頃だから、良い縁談を探しておく」と。

 やはり父も、私をあくまで道具としか見ていないのだろうか。

 数年ぶりに父と会えることはとても嬉しく楽しみだけど、それと同時に縁談の話を持って帰ってくるというのが、とてもとても憂鬱。

 いいえ。ひとまず今日はこんな憂鬱なことは考えず、大切なお父様が帰ってくることと、久しぶりにピクニックに出かけることを全力で喜び、楽しみましょう。うん。そうするべき。

 朝食を手早く済ませ、ベスと共に部屋に戻り、ボンネットを選んで被った。

 そこから私は厩舎に行き、今日乗る馬を選びに行き、ベスは昼食用のサンドウィッチを作りに厨房へ向かった。

 屋敷から厩舎へ向かう途中、庭の一角にダリアが視界一面に咲いていた。香りもなく、ただあたり一面に綺麗な白いダリアが咲いているだけなのにとても美しい。

 しばらくダリアを見ていると、ベスがバスケットを持ってやってきた。

「お待たせしました、お嬢様。少し用意に手間取りましたが、準備が出来ました。あ、綺麗ですよね。この一角に咲くダリアは」

「ええ、そうね。でもベスは知っているかしら。ダリアの花は『不安定』や『気まぐれ』という意味を持っているのよ」

 そして「裏切り」という意味も。

「はい。知っています。でも、それと同時に『華麗』や『気品』、『優雅』という意味も持っています。メティスお嬢様には特に『華麗で優雅で気品あふれる』花として、ダリアはぴったりだと思います」

 そう。ベスはいつも私を持ち上げて、鼓舞しようとしてくれる。

「実はまだ移動に使う馬を選べていないから、少し待っていてちょうだい。すぐに選んでくるわ」

 ベスにそう言い残し、急いで馬を選びに厩舎へ向かった。

 厩舎には何頭かの馬がいて、私を見つけると様々な反応を見せている。

 その中で一頭栗毛の美しい牝馬がこちらを見つけている。

 近づいても何かしてくるわけでもなく、ただ大人しくこちらを見つめているだけ。  たしかこの牝馬の名前は「ヴィーナス」だったか。美と愛の女神の名前をした馬。この子にしよう。

 馬丁に声をかけて、鞍をつけてもらう。その間も大人しく、私や馬丁を信じているかのように従順だった。

 鞍をつけてもっている間、馬丁からこの子について話を聞かされた。なんでもこの馬は古代から続く名血統の血が流れているらしいが、今ではもうその血統は廃れ、今にも消えそうになっている最後の残り火のような馬らしい。そんなどことなく私に似た境遇にも感じる、そんな名血統馬に乗り、ベスの元へ戻る。

 戻るとベスの手には、ダリアでできた花冠が出来ていた。

「お嬢様が戻られるまでの間、昔母に教わった花冠というものを作ってみました。いかがでしょうか」

「すごく素敵だわ。まるで妖精のよう。さぁ妖精さん、後ろに乗って、私を妖精の国へ導いてくださいませ」

 ベスを背に乗せ、しばらく走った。

 森を超え、丘を越えて走り、領内にある小さな村の郊外にある大きなオークの木に根本で昼食を食べることにした。

 ベスが作って持ってきたサンドウィッチは種類も多くて、味が良く、一つがあまり大きくないので色々な種類のものを食べることが出来る。

 食後に紅茶とビスケットを食べながら、オークの木陰でのんびりと休んだ。

 木の幹に持たれ掛かって本を読んでいると、いつの間にかベスは寝てしまっていた。それも高貴な貴族に仕える侍女として、あるまじき姿勢で寝ている。普段の私なら起こして注意していただろう。ただ、なぜか今日はそんな些細なことを気にするような日ではないように感じる。

 暖かな陽気の昼下がり。夏を前に若く青々とした草花の香りがそよ風と共に運ばれてくる、そんな木陰。そこでしばらく本を読んでいると、つい私も寝てしまった。

 それからどれくらい時間が経ったかわからないが、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。目を覚まし、隣を見ると、ベスが微笑みながら座っていた。

「おはようございます、お嬢様。どうやら私が居眠りをしている間に、お嬢様もお休みになられていたようでしたが、そろそろお屋敷にお帰りになった方が良いのではないかと思い、起こしました」

「おはよう、ベス。そうね。そろそろ屋敷に帰りましょう」

 そう言い荷造りをしていると、バスケットを包んでいた布が風に飛ばされた。

 すかさずベスが走り出し、「待てー」と叫びながら丘を下って行ってしまった。ベスが行ってしまった以上仕方がないので、私だけで片づけを続けた。

 しばらくするとベスが一人トボトボと帰ってきた。手には何も握られていない。

「申し訳ありません。布は風に飛ばされ、取り返せませんでした。誠に申し訳ございませんでした」

「いいのよ。気にしないで。そんなに大事な布でもないし、なくても片づけはできるわ、さぁ片づけを済ませましょう」

 多少気を良くしたのか、それからすぐにベスは普段通りのベスに戻った。

「これで帰る用意はできたわね。それではお屋敷に……あら。丘の下の方から声が聞こえてきませんこと」

「そうですね。少し見てきます」

 ベスがまた丘を下って行った。

「こらー。走ると危ないわよ。気を付けなさい」

 下から聞こえる声の主の呼び声。

 それから少しするとベスと二人の少女がやってきた。一人は幼く、一人はベスと同じぐらいの年頃だろうか。

「お嬢様、この方々が風に飛ばされた布を拾って、持ってきてくださいました」

「まぁ。それはどうもありがとうございます。助かりますわ」

 幼い少女が布を差し出してくれた。少し恥ずかしそうで、とても緊張しているようだ。

「ありがとう、お嬢さんのお名前は何というのかしら」

「ヴィ、ヴィクトリア。私、ヴィクトリア」

「よく言えたわね。偉いわ。ヴィクトリア。今の女王陛下と同じお名前ね」

「はい。そうです。先月インド女帝になられた、女王陛下と同じ名前なんです」

「ええそうね。とても偉大な女王陛下だわ。ところであなた様は。ヴィクトリアちゃんのお姉さんかしら」

「あっはい。ヴィクトリアの姉のエリザベスです」

 ベスと同じ名前なのね。

「エリザベス。栄光に富んだ昔のイングランドの女王様のお名前ね。とても良いお名前だと思うわ。そうだベス、よかったらもう少し帰るのを遅らせて、お二人と少し遊ばないかしら。あなたも内心そう思っているのでしょう」

 ずっと静かに、何か言いたげにしていたベスだったが、すぐに笑顔に変わった。図星のようだ。

 それから四人で歌い、踊り、遊んだ。この間、私にとって生まれて初めての体験が続いた。全力で遊ぶこと。これまで習ってきた貴族たちと踊るような、高貴なダンスではない中世の頃のような歌とダンス。野原を全力で駆ける感覚。草花を編んで冠を作る方法。全てが新鮮でとても楽しい時間だった。

 しかし、さすがにそろそろ帰らなければならない時間になった。

「えへへ。楽しかった。おねえちゃん達、また遊びに来てね。いい子にして待っているから」

「私も妹と同じように、今日はとても楽しかったです。もしよろしければまた来てください。待っています。あと。失礼でなければお二人のお名前を聞いてもかまいませんか。聞きそびれていたので」

 一瞬ベスと目を合わせた後、ベスが先に口を開いた。

「私はエリザベス。皆からはベスと呼ばれています。この方は」

「私はこの地の領主、パーセル伯爵家の一人娘のメティス。よろしくお願いするわね」

 ベスの説明よりも先に自分から名乗った。

「ええ。領主様のご令嬢様だったのですか。なんてことを。何かご無礼とかが無ければよいのですが」

 大体予想はしていたけれど、かなり動揺させてしまった。

「大丈夫よ。気にしないで。次回またここに来た時は今日みたいに、親しく接してほしいわ。今日お二人と過ごした時間は、私にとってとても新鮮で、楽しい時間だったからそれを崩したくないの。だからお願いするわ」

 「うん」という無邪気な笑顔で答えるヴィクトリア。そして未だに動揺抜けきらない様子のエリザベス。しかし少し間をおいて、「わかりました」と答えた。

「それでは私たちは帰ります。また会いましょう」

「これあげる。今日の思い出」

 ヴィクトリアが今日自分で作った花冠を私に譲ってくれた。それに私は「ありがとう」と返し、帰路に就く。

 途中ベスに、ずっと聞こうと思っていたことを、やっと聞くことが出来た。

「ベス、なぜあなたはいつも私にそこまで尽くしてくれるのかしら。元々あなたは別に強制されて、お屋敷に来たわけでもないのに、なぜ私にここまでしてくれるの」

 やっと聞けた。それだけでちょっとした満足感を得ている自分がいる。

「それはお嬢様がお嬢様だからです。亡き母は生前、いつも言っていました。『あのお屋敷にいるお嬢様はとてもお強いお方だ。ただ、人の温もりを、あまり触れられないまま大きくなられてしまった。だからベス、あなたがもしあのお屋敷で働くことになったら、メティスお嬢様のお傍にお仕えして、人の温もりを、人の優しさを教えてあげてね』といつも私に申していました。だからです。だから私は……」

 そこからの言葉はあまり頭に入ってこない。

 ベスの言葉を聞いて頭の中で様々な記憶が舞い戻ってくる。

 母が亡くなった時。継母が来た日。常に虐げられ続けた日々。陰湿な貴族同士の舞踏会の闇。今までの暗く、冷たい感情に幼少の頃に感じていた。だからとても暖かく、穏やかで、心地よい感覚がよみがえる。

 どうやら私はずっと強がっていたらしい。そしていつしか忘れていたようだ。幼かった頃に母と過ごした時間を。楽しかった日々を。どうやらベスは、強がる私を支えて折れないように、そして人の温もりを呼び起こそうとしてくれていたのかもしれない。なんてよくできた娘なのだろう。これではまるで私が……

「それから……どうかしましたかお嬢様。急に涙を流されて。どこか具合が悪くなられたのですか」

「いえ。なんでもありませんわ。急ぎましょう」

 ベスの「はい」という元気な声を聞くと涙も止まり、歩調を早められる。

 歩調が早まり、風を強く感じる。だがその風はどこか緩やかでぬくもりのあるそんな風。そんな風をベスと共にヴィーナスに乗り、駆けてゆく。

 ベスと過ごす時間、今後はもっと暖かく、穏やかな時間になる。そう思わせるような、そんな可能性と未来を感じさせる凱風が吹いている。

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