第20話

 苔むした石畳は、長い年月の雨に洗われ、巡礼者たちの足に踏み固められ、滑らかに黒光りしていた。


 一歩踏み出すごとに、湿った土と葉の匂いが立ち上る。


 波留の足は、まるで鉛を引きずるように重かった。


 数メートル先を歩く将司の背中が、やけに大きく見える。


 彼は一度も振り返らない。

 ただ、険しい山道に慣れた確かな足取りで、黙々と先へ進んでいくだけだ。


 その背中が、波留の全ての言い訳を、存在ごと拒絶しているようだった。


 ざあ、と木々が風に揺れる。

 幾重にも重なる葉擦れの音が、波留の耳元で囁きかける。


『君の才能は本物だ』


 斎藤の声が、幻聴のように蘇る。

 彼の冷たい指先が、デッサンを持つ私の手に触れた時の、あの感触まで。


『彼氏さんには、君の本当の価値は分からないよ。この田舎と一緒に、君の才能まで腐らせる気かい?』


 その言葉を、私は信じた。信じようとしていた。


 将司の不器用な優しさを、夢を理解できない人間の限界だと見下していた。

 彼の素朴な愛情を、都会的で洗練された斎藤の世界と比べて、軽んじていた。


 なんて、愚かで、浅はかだったのだろう。


 東京の雑居ビル。ただひたすらに線を引かされ続けた日々。

 斎藤が時折見せる、値踏みするような冷たい目。

 あの目に射抜かれるたび、私は道具に成り下がった屈辱と、それでも彼に選ばれたのだという歪んだ優越感の間で引き裂かれていた。


 あの無機質な部屋で渇望していたのは、夢のきらめきなんかじゃなかった。


 夜明け前の七里御浜で、将司と分け合った温かい缶コーヒーの味。

 スケッチブックを覗き込む、少し潮の香りがする彼の髪。


 当たり前すぎて、失うまでその価値に気づけなかった、かけがえのない日常。


 それを、私は自分の手で壊した。

 斎藤という男に魂を売り渡し、一番大切な人を裏切った。


 ひたり、ひたりと石畳を踏む。

 一歩が、過去への後悔。

 もう一歩が、未来への絶望。


 どれくらい歩いただろうか。蝉の声が遠のき、代わりに鳥のさえずりが聞こえ始める。


 不意に視界が開け、木漏れ日が優しく道を照らしていた。


 道の脇に、古びた地蔵が佇んでいる。長い風雪に耐え、輪郭が丸くなったその姿は、まるでこの道を通る全ての人々の罪と願いを、黙って受け入れてきたかのようだった。


 将司の足が、その地蔵の前で止まる。


 彼がゆっくりと振り返り、初めて波留の顔を真っ直ぐに見た。


 その瞳に、もう昨日までの燃えるような怒りはなかった。

 ただ、凪いだ冬の海のような、深く、静かな色が広がっているだけだった。


 だが、その静寂の奥に、決して消えることのない絶望の傷跡が、昏い影のように揺らめいているのを波留は見てしまった。私の裏切りが刻み込んだ、癒えることのない傷を。


 その静けさが、どんな激情よりも鋭く波留の胸を抉った。


 ぷつり、と心の中で何かが切れる音がした。

 堪えていたものが、限界を超えて溢れ出す。


「……ごめん」


 喉から絞り出した声は、掠れて震えていた。


「ごめんなさい……っ」


 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。石畳の冷たさが、薄いズボン越しに伝わってきた。


「私、バカだった……! 斎藤さんの言葉だけ信じて……あなたの優しさを、田舎者の限界だって、見下して……! 将司が心配してくれてるのも、分からなくなって……」


 涙で視界が滲む。将司の姿が、ゆらゆらと揺れていた。


「東京に行けば、夢が叶うって……それしか見えなくなってた。あなたに嘘ついて、傷つけて……最低だよ、私……汚れてる……もう、昔の私じゃない……っ」


 才能という麻薬をちらつかされ、私は一番大事なものを見失っていた。

 あの契約書にサインしようとした瞬間、自分の魂を、身体を、売り渡そうとしていたのだ。


 それを止めてくれたのは、私が一番裏切ったはずの将司だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい、将司……!」


 言葉にならない嗚咽が漏れる。土と苔の匂いに混じって、自分の涙のしょっぱい味がした。


 もう、顔を上げられない。許される資格なんて、どこにもない。


 その時、ふわりと、懐かしい潮の香りがした。


 影が差し、将司が隣に屈み込んでいるのが分かった。


 ごつごつして、いつも少し傷だらけの指が、そっと波留の震える肩に触れる。


 そして、力強く、引き寄せられた。

 あまりに強い腕の力に、波留はびくりと身を強張らせる。それは怒りを抑え込むような、あるいは、二度と離さないという執着のような力だった。


 将司の胸の中に、すっぽりと包まれる。彼のTシャツ越しに、規則正しい鼓動が伝わってきた。


 鍛えられた腕が、波留の背中を抱きしめている。

 その腕が、微かに震えていることに、波留は気づいてしまった。


 彼の脳裏に、自分が知らない東京での私の姿が、悍ましい想像となって駆け巡っているのかもしれない。裏切りの言葉が、何度も反響しているのかもしれない。

 許そうとする優しさと、許しきれない痛みの間で、彼がどれほど戦っているのかが伝わってくる。


「おかえり、波留」


 耳元で響いたのは、たったその一言だった。


 責める言葉も、問い詰める言葉も、慰める言葉もない。

 ただ、砕け散った心で、それでも私を全て受け止めようと足掻く、深く、痛々しいほどの覚悟だけがあった。


 その瞬間、波留の心のダムは完全に決壊した。


 子供のように声を上げて、彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。東京で溜め込んだ不安も、焦りも、後悔も、罪悪感も、その全てが温かい涙になって流れ出ていく。


 将司は何も言わず、ただ強く、波留を抱きしめ続けてくれた。

 その強さは、二度と手放さないという意思のようでもあり、砕け散った何かを繋ぎ止めようとする必死の祈りのようでもあった。


 どれほどの時間が経っただろう。

 波留の嗚咽がしゃくりあげるような呼吸に変わる頃、将司がぽつりと言った。


「見ろよ」


 促されるままに顔を上げると、峠の木々の切れ間から、信じられないような光景が広がっていた。


 眼下に広がる七里御浜。その水平線の向こうから、荘厳な朝日が昇り始めていた。


 夜の闇を溶かす黄金色の光が、穏やかな海面をきらきらと照らし、長く続く砂浜をオレンジ色に染め上げている。


 それは、波留が何度もスケッチブックに描いてきた、故郷の原風景。


 この光景を、私は東京の埃っぽい部屋で、どれだけ見たいと願っただろう。


「……きれい」


 涙声で呟くと、将司の腕に、さらに力がこもった。


「ああ。ここから見る朝日が、一番だ」


 壊れてしまった二人の時間が、神々の坐すこの「蘇り」の地で、夜明けの光を浴びていく。


 許されたのだと安堵する一方で、波留は悟っていた。

 彼のこの深い優しさこそが、自分にとって一生解けることのない、甘美な鎖になるのだと。

 この癒えない傷を、私は生涯、彼への愛と献身だけで償い続ける。


 ***


 一年後の秋。


 名古屋と熊野を結ぶ特急列車が、滑るようにホームに入ってきた。


 降りてきた乗客の中に、少し大人びた表情の波留がいた。都会の空気に磨かれたのか、以前の少女っぽさは薄れ、洗練された雰囲気をまとっている。けれど、大きな瞳の輝きの奥に、どこか切なげな色が宿っていた。


 ホームの端で待っていた将司を見つけると、彼女はぱっと顔を輝かせ、駆け寄った。


「将司、ただいま!」


「おう、おかえり」


 日に焼けた肌がさらに精悍さを増した将司が、こともなげに彼女のボストンバッグを受け取る。その腕は、一年前よりさらに太く、逞しくなっていた。


 二人は並んで駅を出て、七里御浜へと続く道を歩き出す。


「専門学校、どうだ? 課題、大変なんだろ」


「うん、すごく。でも、めちゃくちゃ面白いよ。週末にこうして帰ってきて、将司の顔を見ないと、また一週間頑張れないから」


 波留は名古屋のデザイン専門学校に進学し、夢への道を再び自分の足で歩み始めていた。


 斎藤のいたスタジオは問題が表面化し、業界から消えたと風の噂で聞いた。だが、そんなことはもう、波留にとってはどうでもいいことだった。


「将司こそ、船の方はどう? 親方、まだ厳しい?」


「相変わらずだ。けど、この前初めてマグロのナブラ見つけて、褒められた」


 将司はにかんで笑う。彼は高校に通いながら、放課後と週末は漁師の見習いとして働き、遊漁船業務主任者の資格取得を目指していた。


 ふと、波留の都会的な服装に、将司の瞳の奥が一瞬だけ翳る。

 東京の記憶。斎藤という男の影。

 言葉にはしないが、その痛みは消えていない。

 波留は気づかないふりをして、彼の腕にぎゅっと自分の腕を絡めた。ここにいるよ、と伝えるように。


 浜辺に出ると、秋の柔らかな日差しが、寄せては返す波を銀色に光らせていた。


 二人は砂浜に腰を下ろし、穏やかな海を眺める。


「ねえ、私、決めたんだ」


 波留が切り出した。


「いつか、アニメーターとしてちゃんと一人前になったら、熊野を舞台にした物語を作りたい。この海の青さとか、古道の森の深さとか、そういうのをちゃんと描けるようになりたいな」


 その言葉に、嘘も気負いもない。地に足の着いた、確かな夢だった。


「いいじゃん。そん時は、俺の船も出してくれよ」


「もちろん! 主人公を助ける、無口だけど腕利きの船長役で」


「まんま俺じゃねえか」


 二人で顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。

 その笑い声は、もう以前のような無邪気なものではない。嵐を越え、失われたものと、それでも残ったものを知る者たちだけが持つ、少しだけ哀しい響きを帯びていた。


 距離は、二人を隔てなかった。

 むしろ、互いの存在を確認するための、必要な時間になっていた。週末に会える喜びが、平日の頑張る力になる。


 嵐を乗り越えた二人の絆は、脆さを知っているからこそ、もう何ものにも揺るがない。


 将司は、波留の肩をそっと引き寄せた。波留は、当たり前のようにその胸に頭を預ける。


 目の前には、どこまでも続く熊野灘が広がっている。


 悠久の自然に見守られながら、二つの夢と一つの愛が、癒えない傷跡を抱きしめたまま、今、静かに輝き始めていた。


≪完≫

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都会の男に染められていくアニメーター志望の幼馴染。嘘と裏切りの果て、彼女を奪い返すために俺は東京へ向かう。だが、彼女はもう俺の知らない顔をしていた。 ネムノキ @nemunoki7

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