第19話

 鳴り止まない振動が、波留の手の中で魂を削るアラームのように響き続けていた。


 スマートフォンの画面に浮かぶ、斎藤からの執拗なメッセージ。それはデジタルという皮を被った、粘着質な呪詛そのものだった。


『ブラックリストの件、本気だからね』


『君が僕にしたことを、業界中に知らせてあげる』


 恐怖が、冷たい蔓のように心臓を締め上げる。


 波留の呼吸が浅くなり、指先が氷のように冷えていく。夢を奪われるだけじゃない。築き上げてきた全てを汚され、未来永劫、業界の罪人として刻印を押される。そんな絶望が、現実味を帯びて迫ってくる。


「……見ないで」


 か細い声で呟き、波留は画面を隠そうとした。だが、その手は虚しく震えるだけだった。


「見せろ」


 将司の低い声が響く。有無を言わさぬ力で、彼の手が波留のスマートフォンをひったくった。


 波留は抵抗できなかった。画面の光が、将司の険しい顔を青白く照らし出す。彼の視線が、一行、また一行と、斎藤の言葉をなぞっていく。


 そして、最後の一文にたどり着いた時。


 凍てついた空気が、将司の全身から放たれた。


『君が描いた絵も、僕の指導の成果物だから』


 それは、ただの脅迫ではなかった。波留の魂の最も柔らかい部分に杭を打ち込む、悪魔の所有印だった。


「……将司、違うの。これは……」


 言い訳しようとする波留の言葉を遮るように、将司はためらうことなくサイドボタンを長押しし、画面の電源を落とした。


 ブツリ、と世界から音が一つ消える。斎藤の声が、脅威が、物理的に遮断された。


「……将司?」


「今は、あいつの声、聞かなくていい」


 将司はぶっきらぼうにそう言うと、電源の落ちたそれを自分のズボンのポケットにねじ込んだ。


「でも……」


 波留は、将司の顔を見ることができなかった。彼が、才能という領域で自分が斎藤に支配されていた事実をどう受け止めたのか。それを知るのが、何よりも怖かった。


「大丈夫だ。……どうにかなる」


 もう一度、彼は言った。さっきよりも少しだけ、確かな響きを伴って。けれど、その声の奥に隠された無力感と、焼け付くような嫉妬の匂いを、波留は感じ取ってしまった。


 将司は自分のスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。コール音が数回響いた後、相手が出たらしい。


「……もしもし、俺。将司」


 電話の相手は、すぐに分かった。彼の声の調子で。


「田中のおんちゃんか? ……うん、今、東京。……あー、いや、それが……」


 将司は、歯切れ悪く状況を説明し始めた。波留のこと、スタジオのこと、そして金がないこと。


 彼の口から語られる言葉は、どれもこれも波留の犯した過ちの羅列で、彼女は俯いてアスファルトの染みを見つめることしかできなかった。


 電話の向こうから、スピーカー越しにくぐもった怒声のようなものが聞こえてくる。


「……うん。……うん、そうなんだ。……でも、波留は悪くねえ。俺が……」


 将司が庇うような言葉を口にした瞬間、ひときわ大きな声が漏れ聞こえた。波留はびくりと肩を震わせる。


 しばらく黙って相手の話を聞いていた将司は、やがて、深く息を吸い込んで言った。


「……ああ。無事だ。波留は、ここにいる」


 その言葉に、波留は顔を上げた。


 将司が、じっとこちらを見ている。その真っ直ぐな瞳は、ただひたすらに、彼女の無事だけを確かめているようだった。


「分かった。……うん。……本当に、すまん。ありがとう、おんちゃん」


 電話を切った将司は、ふぅ、と長い息を吐いた。


「田中のおんちゃんが、金を振り込んでくれるって。近くのコンビニで下ろせるようにしてくれた」


「……え……」


「説教は熊野に帰ってからだ、ってよ」


 そう言って、将司は少しだけ笑った。その笑顔に、張り詰めていた体の力が抜けていくのが分かった。


「帰れるのか……私たち……」


「ああ。帰るぞ、熊野に」


 将司は波留の手に、自分の手を重ねた。冷え切っていた彼女の指先を、ごつごつとした、でも温かい彼の手が包み込む。


 その温もりだけが、今の波留にとっての世界の全てのはずだった。


 ◇


 煌々と光を放つ巨大なバスターミナルは、まるで宇宙船の発着場のようだった。様々な目的地を告げる電光掲示板の下を、大きな荷物を持った人々が忙しなく行き交っている。


 二人分の運賃を支払い、夜行バスのチケットを手にした将司と波留は、出発までの時間を、固いベンチに並んで座ってやり過ごしていた。


 言葉は、なかった。


 謝罪の言葉は、あまりに軽すぎて口にできない。感謝の言葉も、今の状況では空々しく響くだけのような気がした。


 それだけではない。波留の心には、もっと暗く、ねじれた感情が渦巻いていた。


 将司の温かい手を握りながらも、斎藤の冷徹な支配下で得た「特別感」を、心のどこかで捨てきれずにいる自分がいた。彼に見出されなければ、自分の才能は開花しなかったかもしれない。そんな歪んだ承認欲求が、甘美な毒のように思考を蝕む。


 この手に触れる資格などない。そう思うのに、離すことができない。背徳感と自己嫌悪が、波留の心を締め付けた。


 やがて改札が始まり、二人は列に並んでバスに乗り込んだ。指定された席は、後方の窓際二席。将司が窓際に座り、波留はその隣に腰を下ろす。


 定刻通り、バスは静かに動き出した。滑るようにターミナルを抜け、東京の夜景の中へと溶け込んでいく。


 窓の外には、眠らない街の光が洪水のように流れていった。数日前、夢と希望を胸にこの光を見上げた自分を思い出し、波留は唇を噛んだ。


 あの時の高揚感は、今ではどす黒い後悔と絶望に塗り替えられている。


 不意に、将司の肩が、波留の肩にこつんと寄りかかってきた。見ると、彼は窓に頭をもたせかけたまま、静かな寝息を立てていた。


 熊野から夜行バスで駆けつけ、一日中自分を探し回り、そしてあのスタジオで声を張り上げたのだ。疲れていないはずがない。


 その無防備な寝顔を見ていると、罪悪感で胸が張り裂けそうになった。


 と、その時。脳裏に、斎藤の声が蘇る。


『君の才能は本物だ』


『僕が地図を教えてあげる』


 オンラインでの指導。二人きりの画面の向こうで、甘い言葉で心を絡め取られ、思考を奪われ、夢を人質に支配された、あの時間。将司には決して分からない世界。そこに一時でも魅入られてしまった自分は、もう「穢れてしまった」のだ。


 涙が、堰を切ったように頬を伝い始める。声を殺して泣く波留の肩を、眠っているはずの将司の頭が、ぐっ、と少しだけ強く押し付けてきた。


 まるで、泣くな、と。お前がどんなに変わってしまっても、俺はここにいる、と言ってくれているかのように。


 波留は、そっと自分の頭を将司の頭に寄せた。潮の香りと、太陽の匂いがする。ずっと昔から知っている、世界で一番安心する匂い。


 繋いだままの手を、強く、強く握りしめた。


 バスは高速道路を走り続け、やがて東京の光は遠ざかっていく。長い、長い夜が、二人を乗せて西へ、西へと向かっていく。


 ◇


 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、波留は目を覚ました。いつの間にか、自分も眠ってしまっていたらしい。将司の肩に寄りかかったままの姿勢で、体は少し痛んだが、心は奇妙なほど静かだった。


 窓の外の景色は、一変していた。


 どこまでも続くコンクリートの壁も、ひしめき合うビル群もない。代わりに広がっているのは、深い緑に覆われた山々と、その間を縫うようにして流れる川。朝靄が、水墨画のように柔らかな輪郭を風景に与えている。


 見慣れた、故郷の景色だった。


 やがてバスは速度を落とし、アナウンスが終点の熊野市駅を告げた。


 バスを降りた瞬間、むわりとした湿気と、磯の香りが混じった空気が、二人を包み込んだ。


「……っ」


 波留は、思わず深く息を吸い込む。


 東京の乾いた空気とは全く違う。肺が、体が、この空気を待っていたと叫んでいるようだった。ようやく、息ができる。


 だが同時に、あまりに清浄な故郷の空気が、斎藤によって精神的に深く汚された自分の心を容赦なく照らし出すような気がした。この場所に、今の私はふさわしくない。


 将司もまた、空を仰いで大きく息を吸い込んでいた。その横顔は、東京にいた時よりもずっと険が取れて、穏やかに見えた。


「……あの、将司」


 波留は、意を決して口を開いた。謝らなければ。伝えなければ。


「ごめん……なさい」


 ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。


「私……もう、前みたいには……戻れないかもしれない」


 将司は、何も言わなかった。ただ、波留の方に振り返ると、黙って手を差し出した。その瞳の奥に、一瞬だけ深い痛みの色がよぎったのを、波留は見逃さなかった。


 それでも、彼は手を差し出している。


 波留は、おずおずと、その手を取る。将司は、力強くその手を握り返すと、ゆっくりと歩き出した。


 どこへ行くのか、波留には分からない。ただ、彼の大きな背中についていく。


 見慣れた商店街を抜け、住宅地を過ぎる。道端の草花の匂い、遠くから聞こえる漁船のエンジン音。全てが、波留の罪悪感を刺激する。


 俯いて歩く波留の手を、将司がぐい、と引いた。顔を上げると、目の前に古びた石の道標が見えた。


『熊野古道 松本峠』


 そこは、何度も、何度も、二人で歩いた道の入り口だった。


 嬉しいことも、悲しいことも、この道は全部知っている。


 蝉の声が、木々の間からシャワーのように降り注いでいた。緑の匂いが、東京でささくれ立った心を優しく撫でる。


 将司は、苔むした石畳の入り口で立ち止まり、初めて波留の方を真っ直ぐに見た。その眼差しには、慈悲も同情もなかった。ただ、燃えるような、容赦のない闘志が宿っていた。


 波留は息を呑む。彼が何をしようとしているのか、分かってしまったから。


 これは慰めじゃない。罰であり、試練だ。


 私の心に巣食う斎藤という悪魔を、この神々の道で、彼自身の手で祓い浄めるという、無言の宣告。


「行こ」


 その声は、静かだった。


「ゆっくりで、いいから」


 咎めるでもなく、問い詰めるでもない。ただ、共に歩き、全てを洗い流す。その揺るぎない決意だけがそこにあった。


 波留は、こくりと頷いた。溢れそうになる涙を、ぐっと堪える。


 将司に導かれるまま、波留は熊野古道の石畳に、第一歩を踏み出した。


 この道の先に待つのが救いなのか、それとも更なる絶望なのか、今はまだ、分からない。


 ただ、この手を離せば、二度と戻れない場所へ堕ちてしまうことだけは、確信していた。

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