パン屋の櫻子さん
鷹見津さくら
櫻子さんは朝ごはんを作る
西園寺櫻子さんの朝は早い。というのも、西園寺家が一夜にして没落してしまったせいで彼女はパン屋に居候することになってしまったからである。
家って一晩で没落するものなのですねぇ、とのんびり言った櫻子さんを筆頭に西園寺家の人々は良く言えば善人、悪く言ってしまえば甘すぎた。
楽天的で人を疑うことを知らない。困っている人間たちにお金を貸して、悪い人間に利用され、没落してしまったのである。しかしながら、それは西園寺家の素晴らしい特徴でもあった。
西園寺家の危機に立ち上がったのは、これまで西園寺家に恩を抱いていた人間たちだ。そんな訳で、没落し一家は離れ離れになったものの、全員何とか安全に暮らしている。
櫻子さんをお家に呼んでくれたのは、西園寺家に毎朝パンを届けてくれていたパン屋さんだった。彼女は夫を早くに亡くし、女手一つで街のパン屋さんを切り盛りしながら息子を育てている。彼女の作るパンの美味しさといったら、もう、と櫻子さんは想像だけで笑顔になりながら、お布団を畳んだ。ここに来てから教わった畳み方だ。
今の時間は午前五時。パンを仕込むには、少々遅めの時間だったけれど、問題はない。つい先日まで、箸より重いものを持ったことのなかった彼女に美味しいパンなど作れる筈もなかった。しかしながら、居候としてお世話になるのだから、何か役に立ちたいという櫻子さんの主張をパン屋の主とその息子は無碍に出来なかったのである。
パジャマから動きやすい部屋着に着替えた櫻子さんは、手のひらを握りしめて今日も頑張りますわ、と気合を入れた。耳をすませば、微かに階下から音がする。その音を少しだけ聞いてから、櫻子さんは階段を降りた。
向かう先は台所。パンを仕込む方ではなく、プライベートで使う方の台所である。櫻子さんの知っている厨房よりもこぢんまりとしたそこは、朝の櫻子さんにとっての城だった。そっと冷蔵庫を開けて、中身を確認する。
「うん、よし、大丈夫ですわね」
櫻子さんの白魚のような手が、冷蔵庫からお味噌を取り出した。麦味噌、というらしい。パン屋の主である里仲さんの実家では、よく使われているのだとか。
次は、人参。とうふ。乾燥わかめ。
確認するように頷きながら、櫻子さんは食材を集めた。そして、まな板と包丁を用意する。
櫻子さんは、箸より重いものをほとんど持ったことがない生粋のお嬢様である。料理なんて、ほぼしたことがない。おっとりとしていて、どちらかといえば不器用だった。けれども、真面目でもある。そして、勤勉だった。
少しばかりおぼつかない手付きで櫻子さんが人参を切る。皮は昨日のうちに里仲さんが剥いてくれていた。とん、とん、とん。ぎこちないリズムで、慣れていない猫の手で押さえられた人参が刻まれていく。恐る恐る豆腐が切り分けられる。
真面目で勤勉な櫻子さんは、一度、家庭科の調理実習で作ったお味噌汁だけは、何とか作れた。教科書に書かれた作り方を脳内で反芻しながら、ゆっくりゆっくりお味噌汁を作る。それが、里仲パン屋で櫻子さんに与えられたお仕事だった。
ゆっくりと鍋に水を張り、火にかける。煮立ち始めたので、人参をいれてからしばらく待って、櫻子さんはそうっと豆腐を入れた。ここが肝心なのです、と櫻子さんは心の中で呟く。最初の一週間は、焦ってしまって上手に豆腐を入れられなかった。そうなるとどうなるか。豆腐の角から欠けて、ぼろぼろになってしまったのである。里仲さんとその息子が、何も言わないことに櫻子さんは落ち込んだものだった。何も出来ない自分にきっと愛想をつかせたのだわ、と楽天的な櫻子さんには珍しくそんなことを思ったこともある。
しかし、今の櫻子さんは豆腐を上手に鍋に入れられる。人間って成長するものね、と櫻子さんは思ってから首を振った。周りの人間の助けあってこその成長なので、驕ってはいけないと思ったのである。櫻子さんに豆腐の上手な入れ方を教えたのは、里仲さんの息子――亮平さんだった。
無事、豆腐を入れられたので、櫻子さんは乾燥わかめを入れた。ここでも少し、櫻子さんはドキドキしてしまう。初日にわかめをほんの少し多めに入れたせいで、味噌汁ではなくわかめ汁になってしまったのだ。あの緑一色のお汁はちょっぴり、櫻子さんのトラウマになっている。
ぐつぐつと沸騰しないように気をつけながら、櫻子さんはお味噌を入れた。ぐるぐると味噌漉しの中でかき混ぜる。味噌が溶けて、残った麦を勿体無いので、味噌漉しをひっくり返して入れてしまって、顆粒だしを加えれば、完成だ。
ご飯が炊く音が聞こえる。櫻子さんは昨晩、里仲さんと一緒に予約炊飯をしたので、ちょうど良い時間に炊けたらしい。
しばらくすると里仲さんと亮平さんが台所にやってくる。少し出来た隙間時間に朝ごはんを食べるのだ。食べ終わったらあっという間にパンを焼く作業に戻ってしまう。里仲さんは、小柄で笑顔を浮かべると出来るえくぼが可愛らしい。今日も笑いながら、台所に来ていた。対する息子の亮平さんは口を真一文字にしている。
里仲さんは櫻子さんが怪我をしていないかを確認してから、いい匂いだねと朗らかに言う。亮平さんはそれに頷いた。言葉少なな亮平さんだが、よそったご飯と味噌汁を差し出すと目を細める。お喋りさんと無口さんで対照的な親子だけれど、優しいところがよく似ていますねと櫻子さんは毎朝思っていた。
使用人たちへの給金を支払って、屋敷を手放して本当に西園寺が無一文になった時、櫻子さんはこの後どうしましょうと考えていた。アルバイトというものもやったことがなく、一人で生活だってしたことがない。櫻子さんは自分の生活能力があまり高くないということを把握していた。運動も得意ではなく、手先だって器用ではない。
櫻子さんは、もっと花嫁修行をしておくべきだったわ、と思いながら悩んでいたのである。そんな中、うちに来ないかと誘ってくれたのが里仲さんだった。櫻子さんと同じ年の息子さんがいることが嫌なら断って構わない、どこか他の家を頼れるまででも良いからと言われて櫻子さんは頷いたのだ。亮平さんとは知らぬ仲ではなかったし、里仲さんの作るパンが大好きだったので。
ちらり、と亮平さんの様子を櫻子さんは窺う。美味しいと思ってくれるかしら、といつも櫻子さんは考えてしまうのだ。亮平さんのおかげで豆腐の角は欠けることがなくなったけれど、味の自信はなかった。里仲さんはにこにこと笑いながら、上手になったと言ってくれる。でも、亮平さんは無口なのだ。小さい頃からの仲なので、何を考えているのか多少は分かるけれど、と櫻子さんは思う。そんなことを思いながら味噌汁を啜ったので、少し舌を火傷してしまった櫻子さんは、大人しく水を飲んだ。
ことり、と亮平さんが味噌汁を机に置く。
「……美味しかったです」
亮平さんの静かな声が、櫻子さんの耳に入る。ぱっ、櫻子さんは顔を上げた。食器を洗いに行く亮平さんの後ろ姿が見える。そこにありがとうございますわ、と櫻子さんは言葉を返した。自分の顔がふにゃふにゃとほころんでいるのが櫻子さんには分かった。
家が一晩で没落したって、悲しいことは悲しいし、嬉しいことは嬉しいのだと櫻子さんは知っている。
パン屋の櫻子さん 鷹見津さくら @takami84
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