第9話 沈黙の青年王、降り立つ朝
昭和五十五年・弥生の月。
春のはじめ。山の冷えは、町より半月ほど季節を巻き戻している。
金胎教本部のある山の麓には、まだ霜の名残があった。石段の隙間に白く残るそれを踏まぬよう、人々は慎重に列をつくって登っていく。
まだ空は薄暗く、日の出前の青さを残している。その代わりに、石段の列という列で、小さな灯りが揺れていた。
蝋燭だ。
信者たちはひとり一本、細い蝋燭を持ち、その火を両手で囲むようにして登っていく。
誰もほとんど喋らない。
ただ、衣擦れの音と足袋が石を踏むわずかな擦過音、そして炎が風に揺れる微かな気配だけがあった。
遠くの山肌から、かすかな鳥の声が落ちてくる。夜と朝の境目に、ひとつの儀式が始まろうとしていた。
**
本堂の中は、外よりも暗かった。
厚い柱と梁に支えられた空間。高い天井には、弥生の時代から使われている灯籠がぶら下がり、その小さな炎が淡い油煙を空気に滲ませている。
中央の広間には、既に多くの人が座していた。畳の上を埋める背中の列。そのさらに奥、ひときわ高い壇上に、布をかけられた椅子がひとつ置かれている。
その背後。
壁一面を占めるように、おおこがね様の像が立っていた。
金色とも黒ずんだ鉱石ともつかぬ鈍い光。人の形を模しているようで、どこか岩そのものにも見える不可思議な像。
足元には無数の蝋燭。揺れる炎の反射が、像の輪郭をわずかに震わせていた。
その光景を、ひとりの女が静かに見つめていた。
美沙だ。
叔母としてでも、大学副学長としてでもない。ただ、“あの子をここまで見届けてしまった者”として。
(ここまで来てしもたんやね、真央……)
声にはならない。
この空気は、軽々しく言葉を漏らすことを許さない。
あの夜。大学の芝生。車座で語りあった若者たちの笑顔、迷い、光。
その全部が、この儀式に繋がっている。
(守りたかった……せやけど、守り方を間違えたんは、うちら大人の方かもしれへん)
ふと視線を横にずらすと、信吉が座っている。
**
信吉は、膝の上で固く手を組んでいた。
組んだ指の関節が白く浮いていた。
壇を見上げる。
その向こうに、おおこがね様。
わずかに視線を下ろすと、布をかけられた椅子がある。
それに、このあと息子が座る。教祖として。
(弥生……)
心の中で、亡き妻の名を呼ぶ。
あの日、最期の瞬間に見せた微笑み。
“真央は……よう聞く子やから”と、かすれた声で言った弥生。
返す言葉を、自分は持っていなかった。
(それが……こうなるなんて、お前は想像してたんか?)
胸が軋む。
扉の隙間から、春の冷気が入り、蝋燭の炎が揺れた。
信吉のさらに奥。
最古参の幹部が並ぶ列の中央。ひとりの女が背筋を伸ばして座していた。
阿倍静子。
**
静子は、膝の上で重ねた自分の手をじっと見つめていた。指先はわずかに震えている。
顔には揺らぎがない。
正面の壇。
そのさらに奥のおおこがね様。
炎が鉱石の表面に揺れるのを、長いまつげの陰から追う。
(弥生様……)
心の中にその名を呼ぶ。
まだ教団という形もなかった頃。
弥生が、人々に寄り添うように立ち、肩を支え、声をかけたあの日々。
その背後で、静子は巫女として支え続けた。
(あの光を……私は誰より知っている)
光は救い、人を動かし、そして燃え上がった。
それを二度と繰り返さないために、静子はここまで歩いてきた。
だが――。
大学から上がってくる若者たちの熱。
雑誌記事。
自らが撒いた “真神代央” の呼び名が、制御不能に広まっていく現実。
(制御するつもりが……)
そこまで思った瞬間、瞼を閉じた。
胸の奥をざらりとした違和感が撫でた。
おおこがね様が、いつもより“近い”。
耳ではなく、骨の深いところへ沈むような声が微かに触れた。
(……これ以上、踏み込むな)
息が止まる。
(……これ以上、触るな)
次の声は、囁きとも、風ともつかぬ震えだった。
静子自身、その意味をまだ理解していない。
ただ、それが“警告”として届いたことだけは確かだった。
**
大太鼓が鳴った。
ドン……ドン……。
地の底から這い上がるような音が、本堂の空気をゆっくり震わせた。
司式の僧が祝詞を読み上げはじめ、古い言葉が空間の奥へ沈んでいく。
本堂の扉がきぃ、と開いた。
外の薄い朝の光が差し込み、その光の中にひとりの青年が現れた。
白い衣。
襟元と袖口だけに金糸がかすかに縫い込まれている。
髪は後ろへ束ね、額を出した端正な顔。
神代真央。
蝋燭の炎が、彼の歩みに合わせて揺れた。
頬の線、瞼の影、唇の端に光がささやきかける。
ざわめきは起きない。
いや、起きることを許さない沈黙だった。
美沙は、胸の奥が締めつけられた。
(真央……)
かつて守ろうとした少年が、いま、すべての視線を背に受けて歩いている。
(もう、うちの手から離れてしもうたんやな……)
静かに、心のどこかがほどけた。
信吉は息を忘れた。
足音を数える。
一歩。
二歩。
三歩。
(すまん、真央……)
胸の内でそっと詫びた。
(お前が選んだんや、と……そう言うことでしか、自分を許されへん)
真央は壇の前で一礼し、目を閉じる。
何も持たない。象徴も杖も数珠もない。ただ沈黙だけが、彼の衣になっていた。
**
儀式は終盤を迎えた。
司式が宣言文の最後を読み上げ、深く礼をした。
信吉も立ち、短い挨拶で真央を“新しき導き手”と呼んだ。
それでも――
真央は沈黙を守る。
美沙と信吉は、その沈黙の意味を正確に理解していた。
静子はただ見つめ続ける。
(弥生様とは……違う)
(あの方は言葉で救った。あなたは沈黙で止めようとしている)
だが、その沈黙すら、物語にされる。
(……せめて、枠の中に。暴れさせんために)
自分に言い聞かせるように、瞼を伏せた。
そして――
式が終わった瞬間。
外から春の風が吹き込み、本堂の蝋燭を一斉に揺らした。
ゆら、ゆら、ゆら。
それはまるで“返事”のように見えた。
そのときだった。
――掘るな。
男でも女でもない。
低くも高くもない。
声とも呼べぬ震えが、本堂の底を這うように走り抜けた。
美沙が肩を震わせ、信吉が拳を握り、静子は目を見開いた。
(……今のは)
誰も口に出さない。
だが、あまりに、あまりに“はっきり”聞こえた。
掘るな。
前列のひとりが、そっと顔を上げる。
真央の背後を見つめた。
ひとり、またひとりと視線が後ろへ――。
壇上の青年の、そのさらに奥。
金色とも黒ともつかぬ鉱石。
おおこがね様の像。
雲の切れ目から差し込んだ光が像の一部を照らし、蝋燭の炎と混ざり、揺れる斑を刻んだ。
それは笑っているようでも、怒っているようでも、泣いているようでも、ただただ無表情で人々を見下ろしているようでもあった。
誰も、言葉を発さなかった。
拍手も起こらず、歓声もなく。
沈黙の青年王。
沈黙の神。
そして、蝋燭の炎の揺れだけが、そこにあった。
金胎記ー声なき神を抱いてー Spica|言葉を編む @Spica_Written
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