第5話:月の下で待っている

 それから、いくつもの満月が過ぎた。

 紗耶はもう、会社員ではなかった。

 代わりに、港のはずれに小さなカフェを開いた。

 店の名は――「ルミナ・ノート」。

 “光の記録”という意味を込めて。


 開店の夜、テーブルはまだ二つしかなく、客もほとんどいない。

 それでも、カウンターの上には手紙用の便箋が並んでいる。

 「ここに来た人が、誰かへ言葉を残せる場所にしたい」

 それが、紗耶が見つけた新しい夢だった。


 最初の客は、年配の女性だった。

 港を見下ろす席に座り、そっと言った。

「息子と、最後に話したかったんです」

 紗耶は笑みを浮かべ、便箋を差し出した。

「よかったら、書いてみませんか? 言葉って、想いを灯すものですから」


 女性は泣きながら文字を綴り、帰り際に言った。

「ありがとう。少し、心が軽くなりました」

 その言葉に、紗耶の胸も静かに温まった。


 夜になり、店内にひとり残った紗耶は、カップにコーヒーを注いだ。

 窓の外には、今日も満月。

 その光が、海と店の中をやわらかく照らしている。


 ふと、カウンターの奥から懐かしい声がした。

「いい香りですね」

 顔を上げると、そこに久遠が立っていた。

 いつもの黒いエプロン姿。けれど、どこか透けるように儚い。


「久遠さん……」

「ずいぶん、いい店を作りましたね」

「あなたのおかげです」

「いいえ。あなた自身が見つけた光ですよ」


 紗耶は笑った。

「あなたのコーヒーみたいに、少し苦くて、でも優しい場所にしたいんです」

「きっと、そうなりますよ。

 もう、この店にはあなたがいる。

 それで十分です」


 久遠は、カウンターに一枚の封筒を置いた。

「最後に、これを」

 封を開けると、そこには短い手紙があった。


紗耶へ。


この場所があなたに届いたとき、私はもう役目を終えています。

けれど、あなたが誰かの心に灯をともすなら、

それが“ルミナ”の新しい光になります。


――久遠


 文字をなぞるうちに、涙が一粒こぼれた。

 顔を上げると、久遠の姿はもうなかった。

 ただ、窓辺に淡い月光だけが残っていた。


 外へ出ると、夜風が頬を撫でた。

 港の先に広がる海、その上に浮かぶ満月。

 その光の中に、美咲の笑顔が見えた気がした。


「ねえ、美咲。私、少しだけ強くなれたよ」

 月に向かって、紗耶は静かに言葉を放つ。

「“もう知らない”の代わりに、“ありがとう”を言えるようになった」


 その瞬間、風が優しく吹いた。

 まるで返事をするように、海が光を揺らした。


 店へ戻ると、テーブルの上に新しい封筒が一枚置かれていた。

 見覚えのない筆跡で、そこにはこう書かれていた。


“また満月の夜に来ます。そのとき、少し話を聞いてもらえますか?”


 紗耶は小さく笑った。

「もちろん。いつでもどうぞ」


 外では、波の音が静かに響いている。

 月は今日も、誰かの夜を照らしていた。

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『月に一度のカフェ』 るいす @ruis

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