第4話:夜明け前の約束

 次の満月の夜、港はひときわ静かだった。

 風は冷たく、秋の匂いを運んでいる。

 紗耶は手紙を胸ポケットに入れ、迷いのない足取りで路地を進んだ。

 灯りの先に、「カフェ・ルミナ」の看板が見える。

 その小さな光に、何度救われただろう。


 扉を開けると、カラン、と鈴が鳴った。

 久遠が微笑んで迎える。

「こんばんは。少し肌寒いですね」

「ええ。でも、来たくなっちゃって」

「ようこそ。今日も満月です」


 店内には、誰もいなかった。

 ジャズが流れ、カップの音が穏やかに響く。

 いつもと同じ光景のはずなのに、どこか懐かしく感じた。


 久遠がコーヒーを差し出す。

「“ルミナ・ブレンド”です。今日は少し苦めにしてあります」

「どうして?」

「迷いを整理したい夜には、少し苦い方がいい」

 紗耶は笑い、カップを両手で包んだ。

 香りが胸に広がり、心の中のざわめきがゆっくり落ち着いていく。


「……この手紙をもらってから、いろんなことを考えたんです」

 紗耶は封筒を取り出し、テーブルに置いた。

「最初は、どうして今になって届いたのかって。でも、読んでるうちに気づきました」

「どんなことに?」

「“ごめんね”のまま時間を止めていたのは、私の方だったんだなって」


 久遠は黙って聞いていた。

 彼の瞳には、どこか深い静けさが宿っている。

「あの日、彼女がここに来てくれたなら……

 私がこの店に辿り着いたのも、偶然じゃない気がするんです」


「ええ。ここに来る人は、みんな“何かを置いていく”ために訪れます」

「置いていく?」

「未練、後悔、言えなかった言葉。

 それらを少しずつ置いて、空いた場所に“希望”を入れて帰るんです」


 紗耶はカップを見つめた。

 表面に映る月の光が揺れている。

「私も、置いていけるかな……」

「きっとできます。

 あなたが誰かの痛みを理解した今なら、同じように誰かを照らせる」


 しばらくの沈黙のあと、紗耶は口を開いた。

「この店、いつも私しかいない気がするけど……他にも来る人、いるんですか?」

 久遠は微笑んだ。

「ええ、月ごとに。

 けれど、ここは“必要とする人”にしか見えない場所なんです」

「じゃあ、私が来られるのは……」

「まだ、ほんの少しだけこの店を必要としているということですね」


 紗耶は息をのんだ。

 そして、ゆっくりと笑った。

「……そうか。だったら、最後に一つお願いがあります」

「なんでしょう」

「この店のこと、私の友だちにも教えてあげたい。

 きっと、誰かもこの光を必要としてる気がして」


 久遠は少し考えてから、穏やかに頷いた。

「それは、素敵な願いですね。

 ただし、その人が“準備できた”ときだけ。

 そのとき、道が自然と現れます」


 カップの中のコーヒーはもう冷めていた。

 けれど、不思議と心は温かいままだった。

「夜が明けるころに、きっと何か変わりますよ」

「え?」

「今夜は、あなたにとっての“最後の夜”かもしれませんから」


 その言葉の意味を尋ねようとした瞬間、窓の外の空が少しだけ明るくなっていた。

 海の向こうから、朝日が静かに昇ってくる。

 夜明けの光に照らされ、カフェの中の影がゆらめく。

 久遠は、微笑んだままその光の中に溶けていくように見えた。


「久遠さん……?」

 呼びかけても、返事はなかった。

 気づけば、店の中には自分しかいない。

 テーブルの上に、一枚のメモが残されていた。


“夜が明けても、この場所は消えません。

 あなたの心に、灯りがある限り。”


 紗耶はその紙を握りしめ、窓の外を見た。

 朝日が港を照らし、波が静かに輝いている。

 胸の奥で、美咲の声が聞こえた気がした。

 ――「また明日ね」。


 紗耶は微笑み、そっと呟いた。

「うん。また明日」

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