沈黙のあとで、君がいた

@wanishima

静かな春のはじまり


朝のホームには、昨日と同じ空気が流れていた。

人の波が押し寄せ、離れていく。その中に埋もれるようにして、片桐翔太は電車を待っていた。


春とはいえ、まだ風は冷たい。

肌に触れた空気の冷たさが、目を覚まさせてくれるようで、それが少しだけありがたかった。


鋭い列車風とともに電車が滑り込んできて、ドアが開く。

すでに満員に近い車内に、ため息のような空気が流れた。

翔太はその流れに押し込まれるように乗り込み、吊り革を掴んだ。


社内アナウンスの声が遠くで響く。

目を閉じて、深く息をつく。

──今日も、始まる。


窓の外を流れていく景色は、どこか現実感がなかった。

同じ時間に、同じ顔ぶれで乗るこの電車。

毎朝のルーティンの中に、翔太の心は置き去りになっているようだった。


昨夜、妻の弓香とはまた言い争いになった。

「どうして、あなたは何も言ってくれないの?」

そう問い詰められた。

翔太は何も言えなかった。

何を言っても、どこかで違うと言われる気がして、口を開くのが怖かった。


娘のひよりは、もう寝ていた。

寝顔を見て、「おやすみ」と声をかける。

小さな体を包む毛布の中から、ほんのりとしたぬくもりが伝わってきた。

それだけが、彼にとって唯一の救いだった。


電車が職場の最寄り駅に着く。

人の流れに押し出されるように改札を抜けると、春の日差しがビルのガラスに反射して眩しかった。

翔太は少し目を細めて、胸ポケットの社員証を確認する。

日差しの眩しさも変わらない日常にとっては彩りになることさえも許されなかった。


オフィスのドアを開けると、すでに部下たちの声が飛び交っていた。

「片桐さん、おはようございます!」

「おはよう。今日の会議資料、朝イチで確認するから。」

いつもの声で返す。

表情は穏やかで、声のトーンも一定。

けれどその内側には、疲れが静かに沈んでいた。


翔太のデスクには、未処理の書類が積み上がっている。

パソコンを立ち上げながら、メールをざっと確認すると1番上のメールをおもむろに開く。


──藤崎美羽

総務課の後輩で企画課の翔太とは部署が違うものの何度か業務の連絡をしたことがある。

そのたびに、丁寧でそつのない対応をしてくれる印象だった。


「いつもありがとうございます。こちらの方でも確認しておきますね。」

そんな短い返信メールの文章が、妙に柔らかく感じられた。

どこか、彼女の声のように読める気がした。


午前中の会議が終わり、デスクに戻る途中。

廊下の角で、翔太は美羽とすれ違った。


「あっ、片桐さん。お疲れさまです。」

少し驚いたように、でもきちんと立ち止まって頭を下げる。

明るすぎない茶色の髪が肩に落ち、軽く揺れた。


「おう、お疲れ。藤崎さんも移動中?」

「はい。資料を経理に届けに行くところで。」

「そっか。年度末はどこもバタバタだね。」

「ですね……でも、あと少し頑張れば春ですから。」


その言葉に、翔太は少しだけ笑った。

“春”──何でもないその一言が、妙に温かく響いた。


すれ違いざまに感じた柔らかな香りが、わずかに残る。

ほんの数秒のやり取りなのに、胸の奥に静かに灯りがともったようだった。


彼女のことを特別に意識していたわけじゃない。

ただ、そんな小さな瞬間が、いつの間にか一日の中で心の余白になっていた。


昼休み、翔太はオフィスの端の自販機コーナーで、缶コーヒーを買った。

春の日差しが差し込む窓際の席に腰を下ろす。

朝よりもあたたかくなった風が頬をなで、カップの縁に反射する光がちらりと揺れた。


ふと、思い出した。

さっきの藤崎の笑顔。

自然で、作り物じゃない優しさ。


──ああいう人が、きっと周りに好かれるんだろうな。


それだけのことだった。

けれど、久しく忘れていた“穏やかな気持ち”というものが、ほんの少しだけ胸に残った。


家路に着くと、リビングの明かりは白く、どこか冷たかった。

弓香はキッチンのテーブルでパソコンを開き、ひよりはその隣で絵本を広げていた。

テレビはついているけれど、誰も内容を追っていない。

翔太が帰宅しても、部屋の空気はほとんど揺れない。

「おかえり」と弓香が言う声は、まるで日課の確認のようだった。


「ただいま」

そう返して靴を脱ぎながら、心のどこかで自分の居場所を探す。

冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を開ける音が小さく響いた。

その音に、ひよりが顔を上げる。

「パパ、おかえり」

それだけで、少しだけ息ができる気がした。


「ひより、もうお風呂入った?」

「うん、ママと入った」

弓香は画面から目を離さないまま、短く「早く寝なさい」と言った。

翔太はそれ以上、何も言えなかった。

以前は、弓香が食卓に小皿を並べて、他愛ない話をしてくれていた。

けれどここ数か月、その習慣は自然と消えていた。

きっかけが何だったのか、自分でも思い出せない。


ひよりが寝室に入ると、部屋にはキーボードを叩く音だけが残る。

翔太はリビングの隅で、コンビニ弁当のビニールを破った。

弓香の背中はまっすぐで、こちらを向かない。

何かを言えば、互いに余計に傷つけるような気がした。

だから黙ることを選んだ。

それがいちばん穏やかな時間の保ち方だと、いつの間にか思い込んでいた。


翌朝、目覚ましよりも早く目が覚めた。

薄いカーテンの隙間から光が差し込んで、天井がぼんやり白い。

ひよりの寝顔の奥に見える弓香は静かに寝息をたてていた。

ベランダから聞こえる車の音を聞きながら、

翔太はスーツを手に取り、音を立てないようにリビングを抜け出した。


いつの間にか、家の中では「会話を避ける技術」ばかりが上手くなっていた。

会社に着く頃には、すでに心のスイッチは切り替わっている。

エレベーターの鏡に映る自分の顔は、

誰が見ても“普通のサラリーマン”のそれに戻っていた。


午前の打ち合わせが終わるころ、翔太は給湯室に立ち寄った。

マグカップに注がれるコーヒーの音が、妙に落ち着く。

そのタイミングで、美羽が入ってくる。

小さなノートを抱えていて、目が少し赤い。

「おつかれさまです」

「おつかれ。大丈夫?寝不足?」

「いえ……ちょっと資料が上手くまとまらなくて」


いつものように笑ってごまかすけれど、

目の奥に焦りがにじんでいるのがわかった。

翔太はマグカップを手にしたまま、ほんの少し考えてから言った。

「もしよかったら、昼に一緒に見ようか」

「えっ……いいんですか?」

驚いたように顔を上げた美羽の表情が、どこか幼く見えた。

翔太はその反応に、ふっと小さく笑った。


「いいよ。どうせ俺も午後は資料地獄だから」

「ありがとうございます、助かります」

ほんの短いやりとり。

それだけなのに、さっきまでの重さが少し軽くなる。

笑った後に、何も言えなくなって、翔太は自分でも戸惑う。


昼休み、二人で向かい合って資料を見直す。

窓から入る春の光が机に落ちて、美羽の横顔を照らしていた。

集中しているときの彼女は、普段よりずっと大人びて見える。

言葉を交わさなくても、同じ時間を共有していることが

不思議なくらい心を落ち着かせた。


時計の針が昼休みの終わりを告げる頃、

翔太はふと、心の中で“また明日もこの時間があればいい”と思った。

それが何を意味するのか、自分でもまだわからないまま。


定時を少し過ぎたオフィスは、空調とキーボードの音だけが残っていた。

ほとんどの社員が帰り支度を始める中で、翔太はまだ画面と向き合っていた。

一度切れた集中を無理に取り戻そうとするのは、

最近の彼にとってもう“仕事熱心”というより“逃避”に近かった。


モニターの向こう側に家の光景を思い出すと、

どうしても指が止まってしまう。

家に帰ってもひよりを寝かしつけた弓香はきっとスマートフォンから目を離すこともないだろう。

家族で過ごしているはずの時間が、

最近では、いちばん孤独に感じる夜となってしまった。


ふと気づくと、美羽の席の明かりがまだ残っていた。

真剣な顔で画面を見つめている。

髪を結んだ後れ毛が、デスクライトの光を受けてきらりと揺れた。


翔太は少し迷ってから、マグカップを持って立ち上がる。

「おつかれ、まだ残ってるの?」

声をかけると、美羽は顔を上げて小さく笑った。

「ちょっと資料の修正が出てしまって……。すぐ終わると思います」

「そうか。焦らなくていいよ、まだ夜は長いから」


その何気ない一言に、美羽は小さく頷いた。

でもすぐに「先輩の夜も、まだまだ長そうですね」と冗談めかして返す。

その軽さが、なぜか心地よかった。


給湯室でコーヒーを淹れながら、翔太は自分でも不思議に思う。

ただの後輩と話しているだけなのに、

誰かとちゃんと“会話”している感覚を久しぶりに味わっていた。


「この前の資料、見やすくなってたね」

「ほんとですか?ちょっと意識してみたんです」

「うん。数字の見せ方も上手くなってる」

褒め言葉なんて、普段は口にしない。

けれど、言葉が自然に出た。


美羽は少し照れたように笑う。

その笑顔を見て、翔太は思った。

――あぁ、こういう瞬間を自分はずっと求めていたのかもしれない。


家では無言の食卓。

会社では報告と指示の往復。

そのどちらにもない“やわらかい空気”が、ここにはあった。


帰り際、二人でエレベーターに乗ると、

蛍光灯の光が静かに揺れていた。

「おつかれさまでした」

「おつかれ。また明日」

それだけのやりとりなのに、胸の奥が少し温かくなった。


夜の帰り道、風はやわらかく、春の匂いがした。

街路樹の間を抜けるたびに、花の香りがかすかに届く。

翔太はスーツのポケットに手を入れて歩きながら、

昼間の会話を何度も思い返していた。


“また明日”――その言葉が、思ったよりも重く心に残る。

そんな自分に気づいて、少し笑ってしまう。

馬鹿みたいだと思いながらも、

どこかでそれを否定できない。


家の前に着くと、窓の明かりはもう消えていた。

玄関を開ける音で、ひよりが起きないように、

翔太はそっと靴を脱いだ。


冷蔵庫の灯りだけが、静かに台所を照らす。

空のグラスと、テーブルの上に置かれた子どもの絵。

そこに描かれているのは、三人で手をつないで笑っている“家族”の姿。

胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


ソファに腰を下ろし、天井を見上げる。

“幸せだった時間”という言葉が、

過去形でしか浮かばないことが、痛いほどわかる。


その夜、翔太はスマートフォンを手に取りかけて、すぐに置いた。

誰に連絡を取ろうとしたのか、自分でもわかっている。

それなのに、なぜそんなことをしようと思ってしまったのかがわからなかった。


翌朝、駅のホーム。

人の波に押されながらも、翔太は空を見上げた。

少し霞んだ青。

ふと、昨日の美羽の笑顔が浮かぶ。

あれは、ただの職場のやりとり。

それ以上でも以下でもない。


……そう思おうとした。


でも、電車の中で無意識にスマートフォンを開くと、

昨日のメッセージのやりとりがまだ残っていた。


「ありがとうございました、すごく助かりました!」

「気にしないで。おつかれさま」


たったそれだけ。

けれど、その短い言葉が朝の空気の中で

小さく胸を灯す。


翔太はそのままスマートフォンをポケットにしまい、小さく息を吐いた。

まるで、自分がどこか違う世界の入口に立っているような感覚だった。


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