反響
やまもどき
反響
あれは……――――……俺じゃない。
上京して三週間が経った。
大学の寮には空きがなく、俺は駅から少し離れた木造アパートに住むことになった。築五十年、風呂・トイレ共同、家賃三万円。古い畳の匂いが最初は気になったけれど、慣れてしまえばどうということもない。
壁は薄いが、夜は静かだった。
──最初の一週間までは。
ある晩、課題をやっていると、隣の部屋から「コトン」と何かが落ちる音がした。
このアパート、俺以外にも二人住んでいるらしい。管理人のおばさんが言っていた。「一番奥の部屋は年配の男性で、もう一部屋は若い人だけど、最近はあまり見ないねぇ」と。
たぶんその若い人の部屋だろうと思って、特に気にも留めなかった。
しかし翌日も、その翌日も、夜になると同じような物音がした。
しかも少しずつ時間が遅くなっていく。最初は十時、次は十一時半、そして午前一時。
眠りかけたころに「コトン」と響くのだ。
──そして、五日目の夜。俺ははっきりと聞いた。
「……あそぼ……」
小さな、幼い声だった。壁一枚向こうから、まるで布越しに囁くように。
思わず体が固まった。
アパートの壁の向こうには、誰も住んでいないはずだ。
翌日、学校帰りに管理人にそれとなく聞いてみる。
「隣の部屋の人、最近帰ってきてます?」
「あそこ? あぁ……まだ空きだよ。前の子が引っ越してから、ずっとね」
俺は笑ってごまかした。
まさか、夜中に子どもの声がするなんて言えるはずもない。
それから数日間、できるだけ夜更かしを避けた。
イヤホンで音楽を聴きながら眠れば、何も聞こえない。
……はずだった。
夜の三時ごろ、ふと目が覚めた。
イヤホンは外れていて、部屋はしんと静まり返っている。
次の瞬間、畳の上に何かが転がる音がした。
コロ、コロ、コトン。
寝ぼけた頭で、最初は自分の部屋の音かと思った。
でも違う。壁の向こうからだ。
そして――
「おにいちゃん、ころがして……」
はっきり聞こえた。
声は、確かに隣から。
怖さよりも、なぜか子どもがいるのかという好奇心のほうが勝った。
俺は立ち上がり、そっと廊下に出た。隣のドアの前に立つ。
部屋の中は真っ暗で、灯りの漏れもない。
ドアノブを軽く押してみる。鍵は――かかっていない。
金属の冷たさに指先が汗ばむ。
息を整えて、ゆっくりノブを回した。
ギィ……という音とともに、暗闇の空気が流れ出る。
埃と、湿った畳の匂い。
部屋は空っぽだった。
家具も荷物も、何もない。
ただ、部屋の中央に、小さな赤いボールがひとつ転がっていた。
その夜、俺は赤いボールを拾い上げた。
手のひらに収まるほどの小さなゴム製。少し擦れて、表面に黒い汚れがこびりついている。
乾いた匂いがした。古い埃と、どこか鉄のような匂い。
誰かの忘れ物だろうか──そう思って、つい持ち帰ってしまった。
部屋に戻ると、いつもより畳の軋みが重く響いた。
机の上にボールを置く。蛍光灯の光を反射して、赤い表面がどこか湿って見える。
眠気はとっくに消えていた。
けれど、何も起きない。ただ静かで、壁の向こうも沈黙している。
その静けさが、かえって不気味だった。
俺は録音アプリを起動して、スマホを壁際に置いた。
確かめたかった。
もし本当に声がするなら、録音すれば何か残るはずだ。
翌朝、スマホを再生する。
雑音の中に、風のような音、床の軋み、そして──
「……ころがして……」
小さな囁きが、はっきりと入っていた。
その直後、ボールが机の上から落ちる音。
俺は固まった。
録音の時間を見ると、午前二時三分。
俺はそのころ、確かに眠っていた。
その日から、夜になると決まってボールが動くようになった。
転がる音がして、気づくと位置が変わっている。
壁の向こうの何かが、俺の部屋まで来ているような気がした。
次の夜。
覚悟を決めて、録音ではなく映像を残すことにした。
スマホを棚に固定し、カメラを机とボールに向けて録画を開始。
部屋の灯りを消し、布団に潜った。
耳を澄ます。
静寂。時計の秒針だけが響く。
──二時を少し過ぎたころだった。
机のほうから、微かなコロ……という音。
布団の隙間から覗くと、暗闇の中でボールがゆっくり揺れている。
誰も触っていないのに。
そのまま床に落ち、壁の方へ転がっていった。
そして、壁の向こうから、小さな声が囁いた。
「……かえして……」
息が止まった。
俺は布団を握りしめ、朝まで動けなかった。
翌日。
録画を確認しようとスマホを手に取る。
画面を再生した瞬間、血の気が引いた。
暗闇の中、ボールが机の上で震え出す。
カメラの右端、壁の前。
そこに、白い手が見えた。
子どものもののように小さく、細い指。
その手がボールを撫で、ゆっくり転がす。
だが、次の瞬間、映像が真っ暗になった。ノイズ音。
画面が戻ったとき、机の上には誰もいない。
ただ、壁にぼんやりと影のようなものが残っていた。
その夜、寝る前に壁を叩いてみた。
三回、軽く。
返事はなかった。
……けれど。
ふと、畳の上で何かが跳ねた。
見ると、赤いボールが自分の足元まで転がっていた。
その表面には、指の跡のような汚れが五本、くっきりとついていた。
俺はそれを握りつぶすように掴み、廊下に飛び出した。
隣の部屋の前に立ち、ドアを叩く。
「いるんだろ! ふざけんな!」
叫んでも、返事はない。
ドアノブを捻る。開かない。
鍵がかかっていた。
……この前は開いていたのに。
胸がざわついた。
ふと足元を見ると、ドアの隙間から赤い液体がにじみ出ていて、思わず後退りした。
指先で触れると、ぬるりと温かい。
鉄のような匂い。血の匂い。
その瞬間、ドアの向こうからトン、トン、トンとノックの音が返ってきた。
内側からだ。
翌朝。
俺は眠れぬまま朝を迎え、管理人の部屋へ向かった。
昨日の夜に起きたことを、そのまま話した。
ドアの隙間から血のような液体が出てきたこと、ノックの音が返ってきたこと。
管理人のおばさんは最初こそ苦笑していたが、俺の顔を見て表情を曇らせた。
「……ちょっと待っててね」
彼女は奥の棚から鍵束を取り出し、俺を伴って隣の部屋へ向かった。
ドアノブを回す前に、俺は思わず息を止めた。
血の跡は、もう消えていた。床も乾いている。
おばさんは不安そうに鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開けた。
中は――何もなかった。
昨日と同じ、がらんとした部屋。
ただ、壁際の畳が一枚、黒く染みていた。
おばさんは眉をひそめて、「また……出てきたのかねぇ」とつぶやいた。
「また?」
「前に住んでた子がね……。夜中によく、誰かが遊びに来るって言ってたの。部屋の隅に小さな子が座ってて、ボールを転がしてくるって。その子、ある日突然いなくなっちゃってね。警察も探したけど、結局見つからなかったんだよ」
俺は息を呑んだ。
喉の奥が焼けるように乾いていく。
おばさんの声が、遠くでこだまするように聞こえた。
「ねえ、君……」
おばさんが、俺の手元を見て目を細めた。
「そのボール、どこで拾ったの?」
俺の手の中には、赤いボールがあった。
気づいたら、握りしめていた。
いつの間にか指の跡が増えていて、今は七つの黒い跡がべったりとついている。
その夜。
俺はどうしても眠れなかった。
壁の向こうを見ていると、あの声がまた聞こえる気がした。
録音も映像ももう撮る気になれない。
ただ、静かに、聞こえないふりをするしかなかった。
──だが、二時を回ったころ。
壁の向こうで何かが這うような音がした。
乾いた指先が、壁紙をかすめていく音。
心臓が凍る。
そして、あの声が、耳のすぐそばで囁いた。
「……おにいちゃん、どうして……おいていったの……?」
息が止まった。
声は、聞き覚えがあった。
忘れようとしていた、あの事故の夜の声。
田舎で暮らしていたころ、妹と遊んでいた河原。
ボールが転がって、妹が追いかけて、俺が目を離した、あの瞬間。
その後、二度と見つからなかった小さな遺体。
「……もう、ひとりにしないで……」
壁が、脈打つように震えた。
畳の上に赤いボールが転がる。
音もなく、俺の足元へ近づいてくる。
床板の隙間から、白い指が伸びた。
小さくて、細い。
その指先が、俺の足首をそっと掴む。
「……ごめん……」
口から勝手に声が漏れた。
涙が流れていた。
ボールが転がり、俺の手の中に収まる。
暖かい。
心臓の鼓動が速くなる。
視界が赤く滲んでいく。
「……いっしょに、いこう……」
声が耳の中で響いた瞬間、部屋の灯りが消えた。
真っ暗な中で、子どもの笑い声が部屋いっぱいに広がる。
その音が、だんだんと遠ざかっていく。
畳の下に引きずり込まれるような感覚のあと、俺の意識はふっと途切れた。
翌朝。
管理人が廊下の掃除をしていたとき、ふと異臭に気づいたという。
隣の部屋のドアの隙間から、赤黒い液体がにじんでいた。
鍵を開けると、中には誰もいなかった。
畳の上には、小さな赤いボールがふたつ、並んで転がっていたという。
反響 やまもどき @yamamodoki
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