山影レコード ―ホラーの定番、壊してみた。―
アールグレイ
山影レコード ―ホラーの定番、壊してみた。―
風が止まった。
夜の山は、呼吸を忘れていた。
カメラの赤いランプだけが点滅し、暗闇の奥を見つめている。
「……おい、録れてる? なぁ、録れてる?」
ピントが揺れる。画面の端に若い男の顔。額に汗が浮かんでいる。
「はいはい、佐久間先輩。バッチリです。ホラー映画っぽいですよ」
「映画じゃねぇよ。これ、マジでヤバいかもって」
四人いた。
大学映画サークル・ほらけん!
撮影のため、廃屋を訪れたのは午後十時。
山中に残る旧診療所――地元では“山影の家”と呼ばれている。
誰もが冗談半分だった。
……最初は。
玄関のガラス戸は割れていた。
懐中電灯の光が埃を照らす。床一面に散らばった紙、器具、黒ずんだ跡。
風が吹くたびに壁のポスターが擦れ、カサ……カサ……と音を立てた。
「おー、マジでやばい雰囲気じゃん!」
「やばいのはお前のテンションだよ」
4年の先輩、三鷹が笑う。噂では6年生だとも言われているが。
「黙れ陽キャ!」
佐久間たちのサークルの紅一点、石川がなじる。
「俺インキャだし!」
4人の笑い声。
まだ笑っていられた。
カメラが右に振れる。廊下の奥、閉じたドア。
音もなく、かすかに揺れた。
風ではない。
……風なら、ポスターが先に鳴るはずだった。
「おい、今、動いた?」
「どうせ猫とかでしょ」
「野良猫いねぇだろ、こんなとこ」
佐久間が一歩前に出る。床板がミシリと鳴った。
カメラの光がドアノブを照らす。
銀色のノブが、ゆっくりと下がる。
――ガチャ。
撮影者の息が止まる音。
暗闇の中で、何かがドアの隙間から覗いた。
白い、指。
……人間のものにしては、関節が多すぎた。
「逃げましょうマジで。これ、洒落にならんですよ!」
ビビリ枠の山田が後ずさる。
「撮れ! これ、ネタになるって!」
「ネタじゃないですよ!」
映像にノイズが走る。画面が一瞬、逆再生するように歪む。
その“瞬間”にだけ、影が手前にいた。
距離が反転している。
――それは、「近づく」ではなく、「すでにいた」
ライトが倒れる。
映像が揺れ、誰かの悲鳴。
床に転がったカメラが天井を映す。
廊下の奥、壁を這うように人の形が逆さまに動いている。
骨の音。関節の軋み。
そして、笑い声。
画面のノイズが広がる。
音声が逆再生されていく。
「やばい雰囲気じゃん」――その声が、低く歪んで戻ってくる。
「ンャジ、キインフイ、バヤ」
映像が途切れた。
※
夜が終わる気配が、山の上からゆっくりと降りてきた。
空の端が青白く滲む。でも鳥の声すら、まだ眠っている。
山田は、転がるように斜面を下った。
枝が頬を裂き、息が喉を焼いた。
何度も転び、そのたびに振り返る。
誰も――いない。
けれど、背後の木々が“呼吸している”音がした。
風じゃない。木そのものが、肺のように膨らんでいる。
「いやだ……いやだ……いやだ……!」
彼は叫びながら、道なき道を踏み潰した。
スニーカーの底が裂け、靴下に泥が染みる。
それでも止まらない。
ただ、光――下の街の、オレンジの街灯。それだけを目指して。
やがて、舗装路の感触が足に伝わった。
息が一度、震えた。
現実の地面。人工の匂い。
――助かった、と思った瞬間、涙が勝手に出た。
ふらつきながら、国道沿いの交番を見つける。
白い明かり。
制服。
生きた人間。
ドアを叩いた。
「た、助けてくださいっ! 仲間が、山の中で、化け物が――!」
中の警官が顔を上げた。眠そうな目を細める。
「おいおい、どうした? 遭難か? 落ち着いて話してみろ」
「違うんです! 診療所の廃墟に、“なにか”がいて、食われて、みんな――!」
山田は泣きながらスマホを取り出す。震える指で再生する。
画面の中で、あの“影”が逆さまに壁を這っている。
警官の顔が、一瞬で引き締まった。
「……署に回す。映像データ、ここでコピー取らせてもらう」
トランシーバーが鳴る。
「こちら交番。山影地区にて、行方不明多数。現場映像あり。応援を要請」
声のトーンが一段変わった。
すぐにパトカーのサイレンが響く。
赤い光が夜明けの街を塗り、眠っていた住宅のカーテンが次々に揺れた。
署の応援車が数台、交番前に停まる。
若い警官が山田に毛布をかけ、温かい缶コーヒーを渡す。
その手の震えは、恐怖ではなく覚悟のものだった。
「確認した。――動くぞ」
その言葉と同時に、交番の外にざわめきが広がった。
機動隊員の車両、救急隊、ドローン班。
無線が飛び交う。
夜明け前の街が、まるで生き物のように息を吹き返す。
山田は毛布の中で震えながら、その光景を見ていた。
――怖いものなんて、本当は、いくらでもいたのに。
こんなにも人は、戦う準備を持っていたのか。人類は、こうやって覇権を取っていたのか、と。
霧が、重かった。
夜明け前の山は、息をするたび肺に泥を流し込まれるようだった。
空は薄灰、木々は影の群れ。
残った三人は、もう声を出すこともできず、ただ耳だけを使っていた。
――ズル、ズル、ズル。
這う音がする。
湿った地面を何かが引きずっている。
誰も口に出さない。
出したら、音に気づかれる気がした。
佐久間が、手を上げて止まれの合図を出す。
肩で息をしていた。額から血が流れ、片目が腫れている。
それでも、笑っていた。
「……来てるな。まだ、遠くねぇ」
影が木の間を揺れる。
それは人の形に似て、しかし、人ではなかった。
動きがぎこちない。
歩くでも、這うでもない。
まるで「再生を試している」ような動き。
「俺が引く。お前ら、走れ」
「は? バカ言うな! 一緒に――」
「いいから行け!」
佐久間は笑った。その覚悟を三鷹は受け止め、石川は祈るように佐久間の目を見つめた。
笑いながら、火のついていないトーチを掴む。
腰のベルトに差したスプレー缶を取り出し、ライターを擦った。
ボッ。
橙の炎が、霧の中に咲く。
「ホラー映画ってな――いつも誰かが“立ち向かわなきゃ”終わんねぇんだよ」
叫びと同時に飛び出した。
炎が軌跡を描く。霧が裂け、黒い影がそれに反応する。
次の瞬間、獣の悲鳴のような音が山に響いた。
光が弾け、闇が戻る。
仲間たちは声を上げる暇もなく、ただ見ていた。
炎が消えたあとの静寂。
血の匂い。
何かが、転がる音。
――そして、沈黙。
長い、長い時間が過ぎたようだった。
霧の中、彼の名前を呼ぶ声。返事はない。
もう駄目だ、と2人が思った、そのとき。
木の間から、何かが歩いてきた。
足取りはふらつき、服は焼け焦げていた。
それでも、顔がわかる。
佐久間だった。
肩で息をしながら、何かを引きずっていた。
それは、黒く焦げた腕。
五本の指が、まだわずかに蠢いている。
石川が悲鳴を上げる。
佐久間は、無言でそれを投げ出した。
地面に落ちた“腕”が、泥を跳ね上げて静止する。
まるで標本のように。
「……腕を、取った」
声は掠れていた。
血で濡れた口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「腕が取れるなら――倒せるはずだ」
沈黙があった。
その沈黙は恐怖のためではなく、“希望という異物”が胸に刺さったための沈黙だった。
2人も、無意識にうなずいた。
炎の残り香と、鉄の匂いの中で、彼らは初めて――“闘う”という現実を信じた。
※
夜の山が、光っていた。
月でもない。炎でもない。
人間が持ち込んだ光だ。
パトカーのサイレンが交錯し、ヘリのサーチライトが尾根を舐める。
山腹に、機動隊の車列が並ぶ。
装甲車のドアが開き、次々と隊員が降りていく。
その後ろでは、町の人間たちが懐中電灯と松明を掲げていた。
年寄りも、若者も、顔を赤くして叫ぶ。
「よそ者の子どもがいまだ帰らねえ!」
「仲間が、あの山で――!」
「待ってたぜ、ようやくあのバケモンを……!」
怒号と祈りが混ざる。
銃声ではなく、決意の音だ。
鉄と火薬と土の匂い。
道路の両脇には、猟銃、ピストル、バット、鍬。
誰もが武装していた。
制服の列に混じる、作業着の男たち。
山を“封じる”ように、灯火が連なっていく。
上空でヘリのプロペラが唸る。
山影の木々が揺れ、光が踊る。
闇の中、警察無線が飛び交う。
「東側確保」「西尾根、索敵開始」
そして、「異常熱源、確認――行くぞ」
その瞬間、山全体が息をした。
風が吹き、霧が揺れ、木々の間に“何か”が蠢く。
影。歪んだ人の形。
だが、今度は逃げる方が違っていた。
“それ”が這い出た瞬間、ライトが一斉に向けられた。
白い光の海が山肌を包む。
誰かが引き金を引いた。
最初の銃声。
それを皮切りに、轟音が山を満たした。
――人間が、叫んでいる。
「下がるな! 撃て!」
「照らせ! 照らせぇ!」
光の奔流が、闇を焼いた。
それはもう戦闘ではなかった。
人間という種の、反射的な祈りのようだった。
“それ”は悲鳴を上げ、姿を崩していく。
形が溶け、煙のように散る。
誰かが泣いた。誰かが笑った。
夜が、光で満たされていく。
――そのとき。
山道の上から、声が響いた。
「撃つな! 生存者だ!」
ライトが向けられる。
焦げた服。血にまみれた顔。
佐久間、三鷹、石川が立っていた。
佐久間の腕には、黒焦げた何かがぶら下がっていた。
「……化物は倒したのか……?」
佐久間が呟く。
返る声はない。
ただ、誰もがその姿を見上げていた。
山は静かだった。
風もなく、虫も鳴かない。
ただ、無数のライトが霧を照らし、光の海が夜を押し流していく。
山田が震える声で言った。
「……倒したんですよね……」
佐久間は、焦げた腕を地面に落とした。
泥の上で、それは動かなかった。
「知らねぇ。でも――」
彼は笑った。
「腕を取れるなら、倒せるはずだ」
その言葉が、夜明け前の山に響いた。
誰かが拍手した。
やがて、それが連鎖し、群衆の波が歓声を上げる。
“恐怖”は確かに存在した。
だがそれ以上に、人間の方が異常だった。
光に包まれた山の中で、闇の方が怯えているように見えた。
※
翌朝。
山影が発見された地区の上空を、ヘリが何機も旋回していた。
報道のドローンが、焼けた山肌と、光に濡れた装甲車の列を映していく。
人々は拍手し、泣き、抱き合い、「もう終わった」と繰り返していた。
警察本部の記者会見。
「詳細は調査中だが、脅威は鎮圧された」
フラッシュの光。
拍手。
誰も、再生ボタンを押すことを恐れてはいなかった。
――午後。
捜査資料室。
証拠映像の解析班が、机を囲んでいた。
机の上には、あの夜に撮られた“元の映像”。
再生ボタンが押される。
画面の中。
最初に映るのは、あの廃診療所の玄関。
埃の舞う空気。揺れるポスター。
そして、倒れたカメラ。
ノイズ。
低い、逆再生のような音。
次の瞬間、画面の奥に“それ”が映る。
しかし――おかしい。
あの夜と違う。
今度は、光の海の中に、人間たちが逆再生で笑っている。
町民も、警官も、ヘリも、全てが時間を巻き戻すように動いていた。
分析官の一人が眉をひそめる。
「……なに、これ? 元データと違うぞ」
「編集じゃない。これは――再生側が、書き換えられてる」
音声が入る。
耳鳴りのようなノイズの中に、かすかな囁き。
――「腕を取れるなら、倒せるはずだ」
それが何度も、何度も、重なって再生される。
男の声、女の声、子どもの声。
無数の声が同じ言葉を繰り返す。
映像班の主任が停止ボタンを押す。
だが、画面は止まらない。
モニターの枠を越えて、暗い輪郭が滲む。
誰かが息を呑む。
その瞬間、すべてのモニターが一斉に点滅した。
――“記録は終わっていない”。
黒画面に、最後のフレーム。
カメラのレンズが、観る者を見返していた。
外の世界では、街の子どもたちが夜の山を撮影し、「また笑ってる」と呟いた。
誰が笑ったのかは、再生すればわかる――と、誰もが思っていた。
山影レコード ―ホラーの定番、壊してみた。― アールグレイ @gemini555
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