奇妙な最上階

霧原ミハウ(Mironow)

某首都の大学・奇妙な最上階

 1.奇妙な最上階


 北の大国。首都の大学本部棟の中央塔は、夜になると都市の巨大な墓標のようにそびえ立つ。スターリン・ゴシックの威圧的なシルエットだ。

 大学付属高校のナージャは、その建物の頂上にまつわるある噂に取り憑かれていた。


「ねえ、デニス。本当に行くの?」

「わかってるだろ、行くよ。でも、お前も怖いんだろ?」

「バカ言わないで。あたしは別に。ただ……あんたの顔が青白いから」

 ナージャは笑い飛ばすが、その声は少し上ずっていた。


 デニスが怯えるのには理由があった。噂はたくさんあるが、一番恐ろしいのはこうだ。


エレベーターでそこに行けるのは、選ばれた人間だけ。そして、そこへ行ったら帰れない。人を運んだあと、死神が迎えに来る。


「まあ、それは昔の怪談だろ。どうせ誰かが大げさに言ってるだけだ!」


 デニスは否定したが、彼の足は石のように重い。

 しかし、ナージャは止まらない。


「あんた、それでも男?あたしは行くわ」


 警備が手薄になる土曜の昼下がり。二人は古い玄関から内部に潜り込んだ。成功すれば誰にも見咎められない、警備の甘い時間帯だった。

 エレベーターホールは、土曜であるはずなのに、尋常ではないほど静まり返っていた。この巨大な建物が持つ、全ての音と生気を吸い取ったかのようだ。二人が最上階のボタンを押しても、エレベーターはすぐには来ない。

 待っても、待っても来ない。デニスは壁に寄りかかり、汗を拭う。


「来ないな……」

「来るわよ」


 そして、待ち始めてから十数分が経過した頃。遠く、上の方から、金属の軋むような音が響いた。音はゆっくりと近づき、エレベーターが目の前に滑り込んできた。

 乗り込む二人は、迷わず一番上にあるボタンを押した。誰も使わない最上階へ。

 ゴトゴトという重い音を立てて上昇し、そして到着。ドアが開く。

 目の前に広がっていたのは、まさに噂通りだった。

 薄暗く、空気が淀んでいる。廊下を遮るように、古びた鉄格子が張られていた。

 窓は閉まっているのに、奥の部屋のカーテンが不規則に揺れている。何かが、「コツ、コツ」と、壁を叩くような奇妙な音も聞こえた。


「降りよう」

 

 ナージャがエレベーターのボタンを探る。

 だが、そこには、呼び出しボタンも、階数を示すボタンも、何もない。あったはずのものは、すべて削り取られているかのように、平らな金属板が貼られているだけだった。

 ナージャの顔から血の気が引く。


「うそ……」

「籠、まだここにいるだろ」


 デニスがエレベーターのドアを必死に引っ張るが、びくともしない。

 ここに来たら、帰れない。 噂は、噂ではなかった。


「誰かが上がってくるのを待つしかない」

「誰が!?こんなところへ!?」

「階段があるはずだ。歩いて降りよう」


 2.閉じ込められた牢獄


 ナージャとデニスは、鉄格子の廊下を行きつ戻りつした。どこかに出口はないか、非常階段はないか。しかし、通路に面したすべてのドアには、厳重な閂(かんぬき)がかけられていた。逃げ場は完全に断たれている。


「階段、ない……どこにもないよ、デニス」


 ナージャの声は絞り出すようで、もはや悲鳴の一歩手前だった。

 その時、鉄格子の向こうから、強烈な嫌な臭いが鼻を突いた。

 それは、生乾きの湿気と、古びた金属、そして、何か腐敗した、得体の知れない臭いが混ざり合ったものだった。


「ひっ……!」


 ナージャは口元を押さえ、通路の壁にへたり込む。その視線の先、鉄格子の隙間から、暗い室内が見えるような気がした。


「ここ、変だよ……絶対に変だ」


 デニスもまた、その臭気に身を固くする。噂が、ただの怪談ではないことを、肌で感じていた。

 そして、ナージャが本当に取り乱しそうになった、その刹那――。

 チーン。

 エレベーターホールの数字を示すランプが、再び動き始めた。

 4。5。6。7。8。

 上昇していく光を見て、デニスは息を呑んだ。


「誰か……誰かが、上がってくる」


 だが、ナージャは顔を上げるどころか、体を縮こまらせた。


「違う!違う!あれは……死神が、迎えに来るんだよ!」


 ランプは止まらない。

 9。10。11。

 デニスの心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いた。11階。この建物があるはずだとされている、実質的な最上階だ。彼らの居る「12」の直下。

 そして――。

 12。

 ランプが12に灯り、目の前のエレベーターのドアが、音もなく、ゆっくりと開いた。

 中には、誰もいない。冷たく、がらんとした箱が、二人を招き入れている。まるで、真空の棺のようだ。


「いやあああああああ!」


 ナージャは絶叫し、デニスは本能的に動いた。


「チャンスは今しかねえだろ!行くぞ!」


 彼は半狂乱のナージャの腕を力任せに掴むと、問答無用で、誰も乗っていないエレベーターへと押し込んだ。

 そして、開いたままのドアに背を向け、2階のボタンを、指が痛くなるほど何度も連続で叩き続けた。

 降りろ。降りろ。降りてくれ。


 3.狂乱の脱出


 デニスは2階のボタンを、指が潰れるのではないかと思うほど激しく叩き続けた。エレベーターは重い唸りを上げ、下降を始めた。

 ナージャの甲高い悲鳴が、金属の箱の中で反響する。彼女はデニスの腕にしがみつき、何か意味不明な言葉を叫び続けていた。デニスはただ俯き、階数表示から目を離さなかった。

 11、10、9……

 この一瞬一瞬が永遠に感じられた。途中の階で止まるのではないか。またあの誰もいない「迎え」が来るのではないか。

 ようやくランプが2を指し、ガシャン!という乱暴な音を立ててエレベーターは停止した。

 ドアが開くやいなや、デニスは腰が抜けたナージャを引っ張り出し、自身も文字通り転がり出た。二人は床に這いつくばったまま、酸素を求める魚のように激しく呼吸した。


 4.戻った日常と異様な視線


 デニスがようやく顔を上げると、驚きと混乱で固まった。

 あれほど人気(ひとけ)がなかったはずのエレベーターホールは、まるで別の世界のように変わっていた。

 土曜の午後のはずなのに、そこには大勢の学生や職員が行き交っていた。話し声や足音、ざわめきが、耳鳴りのように響く。

 さらに異様なのは、角にあるはずのキオスクだ。いつも土曜は閉まっているのに、蛍光灯が煌々と灯り、ジュースやタバコを買い求める学生で賑わっている。

 日常が、急に戻ってきていた。

 二人はホールの真ん中で床にへたり込み、パニックに陥った表情を晒している。当然、ホールにいる全員の視線が、二人に注がれた。

 ナージャは床に座り込んだまま、未だに「いやだ、いやだ!」と小さく叫び続けている。


 5.11階までしかないよ


「おい、君たち、どうした?」

 一人の白衣を着た大学院生らしき男が、眉をひそめながらデニスに近づいてきた。

 デニスは震えながら、絞り出すように答えた。

「俺たち……閉じ込められそうになったんです。エレベーターで。一番上、12階から来た」

 その瞬間、ホールのざわめきが一瞬で止んだ。

 デニスに視線を向ける人々の表情が、困惑から不審へと変わる。白衣の男も目を大きく見開き、周囲を見回した。

 やがて、誰かが、静まり返ったホールに響く声で言った。

「このエレベーターで上がれるのは11階までしかないよ」

 若い男女は、二度目の、そして最大の恐怖に襲われた。ナージャは再び悲鳴を上げ、デニスは彼女の手を引き、ホール中の視線を背中に浴びながら、一目散にその場から走り去った。


 6.逃走、そして事故


 二人は、ホール中の疑惑と不審が入り混じった視線から逃れるように、ひたすら走った。

「12階!?」という周囲のささやきが、デニスの背中を鞭打つ。ナージャは、もはや恐怖で息をするのも忘れたかのように、デニスに引きずられるまま、錯乱状態で足を動かした。

 彼らは重いドアを蹴破るように外へ飛び出した。モスクワの初冬の冷たい空気が、火照った体に叩きつけられる。デニスはナージャの手を離さず、大学の敷地から、とにかく遠くへ、現実のある場所へと向かおうと、車道へ飛び出した。

 次の瞬間、激しい衝撃音と、ナージャの断末魔の叫びが響いた。

 二人は、走ってきた乗用車に、はね飛ばされた。

 周囲に集まる野次馬の視線の中、デニスは全身に痛みを訴えながらも、ナージャの無事を確認しようと体を起こした。幸いにも、速度が出ていたものの、二人は打ち所がよく、軽傷で済んだ。奇跡としか言いようがない。

 しかし、ナージャは意識こそあるものの、虚ろな目を宙に向けていた。彼女は、あの「12階」の恐怖を、現実の事故という形で持ち帰ってしまったのだ。


 7.談話室の囁き


 数日後。大学付属高校の談話室。


「信じられない話だけど、あれは本当らしいよ。二人がはねられたのは、軽傷で済んだのがむしろ奇跡だって」

「デニスとナージャ?あの子たち、今、入院中だろ?」

「そう。でも、彼らが『12階』に行ったって言ったのも本当だ」


 会話をしていたのは、大学の職員と付属校の教師だった。彼らは声をひそめ、人目を憚るように話していた。


「あそこには昔、一時的に留置する『牢獄』のような場所があった。それは事実だよ。思想的に危険視された人間が消える場所だった」

「じゃあ、女性が落下して死んだっていうのも……?」


 職員はコーヒーカップを置いた。


「あれも本当だ。40年ほど前、あの最上階から誰かが落ちた。女性だったという話だ。粛清か、事故か、それとも……耐えかねて自らか。公式にはただの事故として処理されたがね」

「しかし、あの階は……かなり以前、完全にエレベーターのボタンからも、図面からも消され、立ち入り禁止になっていたはずでしょう?」


 職員は窓の外、雪をかぶり始めた大学本部棟の尖塔を一瞥した。


「ああ、そうだ。しかし、あの高校生二人がどうやってそこに行ったのか。そして、なぜあの階は、今でも『12』として存在し続けているのか……誰も、知らないことにしているんだよ」

 教師は震えながら言った。

「その階が、今も機能しているとしたら?人が消えた40年前と同じように、誰かがそこに閉じ込められているとしたら?」

 職員は静かに首を振った。

「ボタンがない。エレベーターは呼べない。誰も行けない。しかし……」


 彼は窓の外を見上げた。大学の中央塔の先端が、鈍い冬の光の中で冷たく輝いている。


「『迎えに来る』ことだけはできる、というわけだ。あの二人は、運ばれた後だった、ということだろう」


 教師は黙り込んだ。彼らの目の前には、事故で怪我を負い、錯乱した若い男女が実際にいたという動かしがたい事実がある。


 ――誰も行けない。しかし、向こうからは来られる。


 二人はコーヒーを飲み干すと、二度とこの話題に触れないかのように、重い沈黙の中で立ち去った。

 

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