白い紙片

BOA-ヴォア

白い紙

彼女が最後に残したのは、一枚の白い紙片だった。

──「書き終えてから死ぬべきだ」などという言葉を、彼女はどこかで読んだらしい。そしてその言葉を、おそらく “誓い” に変えた。


日比谷(ひびや)という小さな出版社の編集室に、私は呼び出された。午前十時過ぎ、空は灰色に揺れていた。

編集長の机の上には、無数のインク染みと、ひしゃげたペン先と、そしてあの白い紙片。

「これは彼女の遺した……“原稿”というより、“告白”に近いものだ」編集長はそう言って、紙を私の前に差し出した。


紙片には、鉛筆で書かれた文字が途切れ途切れに並んでいた。「私が見たもの」「赤い印」「終わりなき夢」——それは、文章というにはあまりにも朧(おぼろ)で、しかし読むほどに背筋が冷えた。

「彼女、佐知(さち)は昨日、死にました。書き終わる前に」編集長の声が揺れた。

その死は、自殺と断定された。だが私は違和感を覚える。

“書き終えてから死ぬべきだ”という彼女自身の言葉が、まるで呪いのように迫ってくる。


私は紙片を手に取り、文字の隙間を眺めた。鉛筆の線が、まるで血管のように紙の白を裂いていた。そこに“赤い印”という言葉が走っていた。

思い出した。数日前、彼女から短いメッセージが来ていた。

「赤いインクが恋しい」――それだけだった。


インク。赤。印。印象。

私はコピー機を使って紙片を複写し、インク染みの位置、文字の書き出しをルーペで確認した。

そのとき、紙片の余白に、極小の点があった。赤というより「薄紅」。微かに膨れて、影を落としていた。インクとは異なる。

「これは…何だろう」

独り言を呟いた。編集長も顔をしかめる。


「警察には“遺書”として扱われています。ですが、彼女の部屋には原稿用紙数十枚と、インクと、そして“封をされた瓶”が見つかりました」

瓶。ガラスの小瓶。その中には、乾いた赤い粉末が残されていた。警察の見立てでは、インクの自家製だった可能性があるという。


私は思い返す。彼女がこの出版社に持ち込んだのは、一作の“傑作”だった。

「傑作を描いてから死ぬべきだ」――その言葉が彼女の中で反復し、最後には自身に向かった。

私は気づいた。彼女は“書き終える”ことを、死と同列に置いていたのだ。

そして、書き終えないまま死んだという事実が、彼女にとっての“錯誤”だったのかもしれない。


夜、私は佐知の部屋に足を運んだ。鍵は彼女自身が保管していた。窓が少しだけ開いて、風が紙屑をひとひら舞わせていた。

机の上には、原稿用紙の束。最後の一枚は空白だった。インクの瓶は、机の隅に倒れていた。粉末がガラスの底に僅かに附着している。

壁際には、紙に書かれた文字が貼られていた。「見えるものは、書かれるべきだ」。その文字の“影”が壁に伸びて、まるで誰かがそれを読んでいるように揺れていた。


その瞬間、階下から警察のサイレンが聞こえた。私は息を呑み、瓶を手に取った。粉末を少しだけ指にとる。視線の先にある空白の原稿用紙が、淡く赤く染まったように錯覚した。

私は急いで部屋を出た。通路の蛍光灯がちらつき、影が壁を走っていた。

再び編集室に戻ると、編集長が私を見て言った。

「…彼女の原稿を、君に託したい。最後の“空白”を、埋めてくれないか?」


私は瓶を握りしめ、小瓶の蓋をそっと閉めた。机の上には、白い紙片がまた一枚。

赤い印。終わりなき夢。

紙に向かうと、私は静かにペンを握った。

──書き終えてから死ぬべきだ。彼女の言葉が耳を打つ。

だが私は思った。

「生きて、書き終えて、誰かに渡そう」

それが、彼女が叶えられなかった“傑作”への、小さな贖罪だと感じたから。


窓の外、夜風が吹いた。紙片の端が微かに揺れ、インクの残り香が鼻をくすぐった。

私はペンを走らせた。文字が白紙を裂いて、赤いインクの影を呼び込む。

そして、そのとき――

耳の中に、筆跡ではない“声”が囁いた。

「終わったら、私を見つけて」

私は一瞬手を止めた。だがペン先を紙に戻した。

もう、彼女は待っていない。

私が書き終えるその時、彼女の物語が、静かに終わるのだ。

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