琥珀色の処方箋

サンキュー@よろしく

【自主企画用書き下ろし】

 ある暑い日だった。いや寒い日だったか……まぁ関係はないさ。どのみち、私の心は灼熱の砂漠と極寒の氷河を同時に抱えていたのだから。重厚な木製の扉に手をかけると、カラン、と澄んだ鈴の音が迎えてくれる。いつものバー、いつものカウンターの隅。私はそこに亡霊のように腰掛け、琥珀色の液体が揺れるグラスを、ただぼんやりと見つめていた。


「随分と、遠い目をされていますね」


 磨き抜かれたカウンターの向こう側で、白髪のマスターが、静かに声をかけてきた。その手は、音もなくグラスを磨き続けている。


「……そう見えますか」


 私は視線も上げずに答えた。


「えぇ。まるで、この世の終わりかのような……そんなお顔です」


「はっ、言い得て妙ですね。世界の終わりか。いや、私の世界は、もう終わったのです」


 グラスを一気に煽る。喉を焼くような感覚だけが、自分がまだここに存在しているという事実を、嫌というほど突きつけてくる。何年も……いえ、私の人生そのものを賭けたものが、砂の城みたいに呆気なく崩れてしまったんだ。信頼、キャリア、未来……その全てが、私のたった一つの判断ミスで。


「だから私は死んだ。社会的に。もう会社に私の居場所なんかないんですよ」


 絞り出した言葉は、静かな店内に虚しく響いた。マスターはグラスを拭く手を止め、静かにこちらを見つめている。


「『死んだ』、ですか。ですが歴史上、『失敗』や『終わり』と思われた場所から、偉大な発見が生まれることも少なくないのですよ」


「私のはただの、取り返しのつかない愚かな失敗です。慰めならよしてください」


「……ペニシリンという抗生物質はご存知ですか?」


 唐突な問いに、私は眉をひそめた。


「世界初の抗生物質でしょう。それがどうしたと言うのですか」


「えぇ。実はあの大発見は、偶然の産物でした。細菌を培養していたシャーレに、どこからかアオカビが紛れ込んでしまった。本来なら、それはただの『汚染』……つまりは『失敗』です。ですが発見者フレミングは、それを捨てなかった。アオカビの周りだけ細菌が増殖していないことに気づき、そこに新しい可能性を見出したのです」


 マスターの落ち着いた声が、ささくれ立った心に染み込んでくる。だが、素直に受け取れるほど、私の心は軽くない。


「……その人は天才だったのでしょう。私のような凡人が犯したミスとはワケが違う」


「本当に、そうでしょうか。天才だったから、ではありません。物の見方の違いだった、とは考えられませんか?」


 マスターは私の空になったグラスに、黙って同じ酒を注いでくれた。氷がカラン、と澄んだ音を立てる。そして、彼はゆっくりと、言葉を紡いだ。


「かつて、かの発明王、トーマス・エジソンはこう言ったそうです。『私は失敗したことがない。ただ、一万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ』」


 一万通りのうまくいかない方法……? ただ、「うまくいかない方法」を見つけ出しただけ……?


「あなたは今、とても貴重なデータを一つ、手に入れたのですよ。『このやり方では絶対にうまくいかない』という、確かな真実をね。それは、次への絶望ですか? いいえ、次なる成功への、最も確かな道標じゃありませんか?」


「……ははっ。そうか……道標、ですか。あなた、面白いことを言いますね」


 心は乾ききっていたはずなのに、自然と笑みが漏れた。「失敗」ではなく「うまくいかない方法の発見」。なんて都合のいい言い換えだろう。だが、その強引なまでのポジティブさが、不思議と凝り固まった思考を溶かしていった。


「ありがとう、マスター。少し、目が覚めました」


 私は財布を取り出して勘定を頼んだ。しかし、マスターは優雅な所作でそれを押しとどめる。


「今宵は、私のおごりです」


「え、なんでですか」


「ふふ……。私の方が、あなたよりずっと多くの『うまくいかない方法』を見つけてきましたからね。これは後輩への、ささやかな投資というやつですよ」


 そう言って悪戯っぽく笑う彼の目には、俺なんかよりもずっと深い、哀愁と、そして優しさが滲んでいた。

 俺は何も言えず、ただ深く頭を下げて店を出た。ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よかった。さて、と空を見上げる。まずは、どの「うまくいかない方法」から次に試してみようか。道のりは、まだ長そうだ。

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