下流の顔
白川津 中々
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前橋の人生は下流の中であっても人並みではあった。
何事もなく学校を卒業したものの勤め先がなく日銭を稼ぐ日々を過ごし、ようやく正規雇用で雇われた会社で面白みなく働き、会社の人間と恋人となり籍を入れた。
給料は二人合わせて五百万円程度。決して贅沢はできないが、男女二人生きていける金額。妻の方ではそんな生活にま満足しており、この先も変わらない見込みに安堵さえ見せているようだったが、彼は違った。稼ぎの悪さに苛立ちを覚え、貧しい家政に内心で唾をは吐きかけ呪っていたのだ。
家も車も買えない。上等な時計も服も縁がない。食事だって、見窄らしいものだ。なんのために生きているのだ、俺は。
物質的な豊かさから縁遠い毎日は彼の鬱憤を肥大させ喜びを奪った。世の人々がそれほど満たされているわけでもないのに、自分以外の人類が皆裕福で幸福であると、自分以上に金を持っていて、悦楽を享受していると信じて疑わないのだ。前橋は他者を羨望し憎んだ。それは自身の妻に対しても同様で、「お前のせいで」と的外れな呪詛を一人唱えていた。共有の口座に月々入れる金がなければもう少しばかり遊興に逃避できるのにという身勝手な想いが彼にはあったのだ。その邪念は、口座の額を見てとうとう制御不能となる。彼は金をくすめて身の回りの物を揃え、酒と女を漁った。酩酊し、咽せるような香水にあてられ、淫猥に耽り、脂の乗った肉を食べては、また乱れ、札束を捨てていく。もしもの時に使えるように貯めておこうと、たくさんになったら二人で旅行しようと骨身を削って預けていた金を、一晩で浪費したのだ。
狂乱の夜を過ごした前橋は大変後悔をしていた。これまでの苦労と妻の信頼を対価に一瞬の快楽を得て、後は何もない。新調したジャケットも靴も、夜の街を歩き薄汚れてしまっている。全てを失ったのだ。
途方に暮れ、朝の街を彷徨っていると、彼は出勤途中の労働者を目にした。彼らは皆、ぼろぼろの作業着だったりくたびれたスーツだったりに袖を通していて、不健康な顔をしていた。それは前橋の普段と変わらない、下流の人間の顔だった。
前橋は深く息を吐き、その場で膝をついた。
その後、前橋は何処かへ消えた。妻は大変困惑し、警察の手も入ったがついぞ見つからず、その内に妻は新しい男と二度目の結婚をした。その際、どこからか、前橋が使い果たした分と同額の金が共有していた口座に振り込まれ、彼女は少しだけ昔を思い出し、その金で新しい旦那に上等な服を買ってやるのだった。
下流の顔 白川津 中々 @taka1212384
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