香りの記憶 ― トップスの秋

浅野じゅんぺい

香りの記憶 ― トップスの秋

香りは、記憶よりも正確に、人を過去へ連れ戻す。


夕暮れのホームで、文庫本を開いた瞬間、

ページの匂いに混ざって、焼き栗の甘い香ばしさが流れた。

それだけで、胸の奥にしまっていた秋が、静かに目を覚ます。


──トップスのチョコレートケーキ。


澪は、秋になると決まってそれを買ってきた。

焦げ茶色の箱、白抜きのロゴ、少し濃いめの紅茶。

チョコとクルミの香りが、彼女の指先から立ちのぼっていた。


あの頃の僕は、何も言えなかった。

言葉を探す前に、季節だけが通り過ぎていった。



中目黒の裏通り。

白い建物の前で、澪が言った。

「ここ、トップスの工場なんだよ」


二人でケーキを分け合う。

フォークの先に残るぬくもり。

「もう少し大きく切ればよかったかも」

そう言って笑う澪の声が、今でも耳の奥に残っている。


少し間をおいて、澪がつぶやいた。

「私ね、東京を離れてみたい。自分の世界を広げたいの」


胸の奥がきゅっと鳴った。

紅茶を口に運ぶふりをして、呼吸を整える。

応援するしかない。そう思うほど、何も言えなくなった。


「うん……いいと思うよ」

その言葉だけが、やけに遠くへ落ちていった。

澪は気づかないまま、変わらない笑顔で僕を見ていた。



季節は何度も巡った。

誰かと暮らす日々の中にも、澪の香りだけは消えなかった。


秋の空気を吸い込むたび、

焦げ茶色の箱が頭に浮かぶ。

店先でひとつだけケーキを買う。

その瞬間、澪の笑顔がかすかに重なり、

もう届かない温度が胸の奥でゆっくりと蘇る。


フォークを入れると、チョコがやわらかく崩れ、

香りがふわりと立ちのぼる。

思い出と現実が、ほんの一瞬だけ交わる。


──なぜ、あのとき抱きしめなかったのだろう。


甘さが喉の奥で滲む。

それでも、いま息をしている自分がいる。


澪がいた時間も、失った季節も、

すべてこの香りの中に溶けている。


ホームの風が、頬をかすめた。

焼き栗の香りがまた漂う。

それを追いかけるように、歩き出す。


──忘れられない人の気配を、

秋の空気の中で、そっと確かめながら。



















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

香りの記憶 ― トップスの秋 浅野じゅんぺい @junpeynovel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る