香りの記憶 ― トップスの秋
浅野じゅんぺい
香りの記憶 ― トップスの秋
香りは、記憶よりも正確に、人を過去へ連れ戻す。
夕暮れのホームで、文庫本を開いた瞬間、
ページの匂いに混ざって、焼き栗の甘い香ばしさが流れた。
それだけで、胸の奥にしまっていた秋が、静かに目を覚ます。
──トップスのチョコレートケーキ。
澪は、秋になると決まってそれを買ってきた。
焦げ茶色の箱、白抜きのロゴ、少し濃いめの紅茶。
チョコとクルミの香りが、彼女の指先から立ちのぼっていた。
あの頃の僕は、何も言えなかった。
言葉を探す前に、季節だけが通り過ぎていった。
*
中目黒の裏通り。
白い建物の前で、澪が言った。
「ここ、トップスの工場なんだよ」
二人でケーキを分け合う。
フォークの先に残るぬくもり。
「もう少し大きく切ればよかったかも」
そう言って笑う澪の声が、今でも耳の奥に残っている。
少し間をおいて、澪がつぶやいた。
「私ね、東京を離れてみたい。自分の世界を広げたいの」
胸の奥がきゅっと鳴った。
紅茶を口に運ぶふりをして、呼吸を整える。
応援するしかない。そう思うほど、何も言えなくなった。
「うん……いいと思うよ」
その言葉だけが、やけに遠くへ落ちていった。
澪は気づかないまま、変わらない笑顔で僕を見ていた。
*
季節は何度も巡った。
誰かと暮らす日々の中にも、澪の香りだけは消えなかった。
秋の空気を吸い込むたび、
焦げ茶色の箱が頭に浮かぶ。
店先でひとつだけケーキを買う。
その瞬間、澪の笑顔がかすかに重なり、
もう届かない温度が胸の奥でゆっくりと蘇る。
フォークを入れると、チョコがやわらかく崩れ、
香りがふわりと立ちのぼる。
思い出と現実が、ほんの一瞬だけ交わる。
──なぜ、あのとき抱きしめなかったのだろう。
甘さが喉の奥で滲む。
それでも、いま息をしている自分がいる。
澪がいた時間も、失った季節も、
すべてこの香りの中に溶けている。
ホームの風が、頬をかすめた。
焼き栗の香りがまた漂う。
それを追いかけるように、歩き出す。
──忘れられない人の気配を、
秋の空気の中で、そっと確かめながら。
香りの記憶 ― トップスの秋 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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