融解点:最初の嘘

Tom Eny

融解点:最初の嘘

融解点:最初の嘘


I. 最初の嘘と、責任の「融解」


酸っぱい金属臭と、古い油の匂い。中原の体内から立ち上る、極度の緊張による「倫理の錆び」の匂いだった。 不渡りまで、あと三十時間。


窓の外、道路の向かいでは、黒沼の手下が、太陽を浴びない**「監視の影」として立っていた。そのタバコの煙**が、湿った空気の中で、破滅の狼煙のようにゆっくりと上った。


(俺だけの責任じゃない)—中原は長年の倫理観をこの自己正当化によって瞬時に融解させた。宝くじ券は、この重圧地獄からの最後の脱出口だった。


「西尾、頼む。この金は、会社(うち)の血液だ。一滴たりとも漏らすな。…すぐにだ」


中原は声を絞り出した。銀行の応接室は、冷房の無機質な低音が響く。融資担当の銀行員、西尾の顔は、一瞬、驚きで固まった後、瞳の奥に冷たい計算の光を宿した。


西尾は深く息を吐いた。「わかります、中原さん。しかし、高額当選の換金は手続きと時間が必要です。当行の貸金庫に一時的に保管するのが論理的に最善です」


中原は西尾の言葉を遮った。「わかった!だが、鍵は二つとも俺が持つ。絶対だ。銀行でも絶対に安全なんだろうな?」


「もちろんです」西尾は微笑んだ。**一呼吸。その視線は中原の手元の鍵ではなく、彼の額の冷や汗に注がれていた。中原の鍵を握る手は、興奮と罪悪感で激しく震えていた。**彼は西尾を、自己欺瞞に満ちた逃走のための道具として利用しようとしていた。


II. 貸金庫の誘惑と、倫理の爆発


その夜、西尾は自宅のPCの前で青白い光を浴びていた。画面の光が、汗ばんだ彼の顔の凹凸を際立たせる。指先はキーボードの上で異様に冷たかった。部屋はカップ麺の空虚な匂いがこもる。画面には、FX取引口座の残高と、赤い文字で示された**「ロスカット」**までの猶予。


(俺だって、銀行というシステムに搾取された被害者だ)—中原の欺瞞は、西尾に**「自分もまた被害者だ」という歪んだ自己正当化を許した。長年築いた「銀行員としての信用」は、その一瞬で急激に溶解(メルト・ダウン)した。**


翌朝、西尾は裏ルートで貸金庫棟に入った。そこは空気が重く、古びた金属と、防カビ剤のような無機質な匂いが満ちていた。扉を開ける際の鈍く重い「カシャン」という金属音が、彼の心臓を直接叩いた。


券を手に取る瞬間、彼は激しい吐き気に襲われた。喉の奥で、何か熱いものがせり上がってくるのを飲み込んだ。


もう引き返せない。


換金した数億円は、そのままFX取引口座に全額投入された。相場のわずかな急変は、彼の思惑とは裏腹に、瞬時に資金を「物理的に融解」させ、跡形もなく消滅させた。


画面上の数字が、瞬く間に緑から血のような赤へと塗り替わる。まるで熱した金属が水に触れたときのように、彼の希望が耳鳴りとともに「ジュッ」と音を立てて消えたような感覚。残ったのは、その虚無的な静寂だけだった。


金が消滅した直後、西尾は証拠隠滅を意図して、貸金庫棟の電源システムに小規模なショートを引き起こした。その「火事の噂」は黒沼の耳に入った。


III. 債務者の匂いと、プロの論理


黒沼は中原の工場にいた。不渡りを出した工場は、動く機械の音一つなく、深い沈黙に包まれていた。今は冷たいホコリと、失敗の匂いだけが漂っている。


「社長さん。金は隠しても、消えねえ。さあ、形見の場所を教えろ」


中原は震えながら叫んだ。「俺じゃない!西尾だ!あの銀行員が盗んだんだ!」—中原が最後まで手放さなかった鍵は、もはや何の価値もない、破滅の象徴に成り果てていた。


黒沼は西尾を倉庫の隅に追い詰めた。錆びた刃物のように鋭い彼の視線は、西尾の顔に突き刺さる。その瞳の奥は、光を反射しない沼のように暗く、底知れなかった。


「素直に言え。金はどこだ。会社の負債を補填したか?それとも中原の隠し場所と山分けか?貸金庫棟の火事の話まである。どちらの芝居が上手いかは知らんがな」


西尾は顔を上げ、最後の力を振り絞って叫んだ。彼は喉の奥から血を吐くようなガラガラ声を絞り出し、自分の内側の何かが、音を立てて砕け散るのを感じた。


「隠してなんかいない!全部溶かしたんだ!私が…私がFXで、すべて使い切ったんだ!中原はもう関係ない!」


IV. 真実の皮肉と、終わらない追跡


西尾の告白を聞いた黒沼は、まるで時間が停止したかのように、数秒の間、微動だにしなかった。


周囲の沈黙が、西尾の叫びの余韻を飲み込んだ。


そして、静かに、憐れむような笑みを浮かべた。


「西尾。お前は銀行員だろ。…数億円が鼻水のように消える、そんな物語を俺が信じると思うか?」


黒沼は断定した。「**いいや、それは新しい嘘だ。金は必ず残る。俺は形跡(あと)**を追うだけだ」


西尾の、「すべて使った」という物理的な真実の叫びは、「大金は必ず残る」というプロの論理と常識によって、**「最大の嘘」**として一蹴された。


金は物理的に消滅した。しかし、誰もそれを信じない。


この地獄の輪廻は、本当に誰かの**「悪意」だけで始まったのだろうか? それとも、人間の持つ根源的な自己欺瞞**のせいだろうか?


それは、中原がポケットで鍵を握りしめ、「最初の嘘」を口にした瞬間から始まっていた。金銭も信用も、真実さえもが溶け去った静かな終焉を、窓の外で立ち上る、あのタバコの煙だけが、永遠の追跡の狼煙として知っているのだった。

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