核の傘
わんし
核の傘
金属とコンクリートの臭いが混ざり合った、冷たく乾いた空気が肺を満たした。
彼は、地下数百メートルの深さに存在する、旧時代の遺物のようなバンカーの暗い通路を走っていた。
外の世界はすでに戦火の轟音に包まれているかもしれないが、この厚いシェルターの中では、すべての音が圧縮され、不気味な静寂となって響く。
彼の鼓動だけが、心臓の壁を叩く激しいドラムのように、耳の奥で鳴り続けている。
任務はただひとつ。
このバンカーの最深部にいる「彼」を止めること。人類史上最悪のボタンが押されるのを、阻止すること。
潜入は成功していた。
彼は敵国の特殊部隊のユニフォームを着用し、顔の識別認証は事前に手に入れたデータで突破した。
しかし、残された時間は秒単位で刻まれていた。
彼が通路の角を曲がった時、前方に最後の防御ラインである二人の兵士が視界に入った。
(静かに……素早く……)
彼は訓練通りの動作で、息を殺し、壁際に張り付いた。
わずかな足音も立てずに滑るように移動し、兵士たちの背後に立つ。
呼吸と同時に、二つの首筋に均等に圧力がかけられた。
彼らは声を上げる間もなく、その場で意識を失って崩れ落ちる。
彼は二人を素早く壁際へ引き寄せ、偽装工作を施した。
彼の目的とする管制室、「コマンド・センター・オメガ」は、この通路の先にあった。
部屋の重厚なハッチは、鉄と鉛でできており、まるで核戦争そのものを象徴する棺の蓋のようだった。
彼はハッチの認証パネルに手を伸ばす。
彼の指紋、網膜、そして静脈パターン――すべてが偽装されている。
ピッ、ピッ、ピッ――。
パネルが緑色に点灯し、巨大な油圧の軋む音が響き渡る。
ハッチがゆっくりと開いていくその隙間から、管制室内部の光が漏れ出した。
そこは、青白いモニターの光と、赤く点滅する警告ランプの光に満ちた、極限の緊張空間だった。
管制室の中央、鋼鉄製のデスクの向こう側に、一人の男が座っている。
彼はこの国の軍の最高権力者である老将軍だ。
白髪をきっちりと撫でつけ、その顔は蝋人形のように無表情だが、その瞳だけが、この世のすべてを焼き尽くすかのような狂気に燃えていた。
将軍の右手の前には、ガラスケースに覆われた、赤いボタンが鎮座していた。
世界の終わりを告げる、核発射のスイッチ。
将軍は、すでにケースの蓋を開け、その指先はボタンの樹脂に触れるか触れないかの距離にまで近づいていた。
彼が部屋に足を踏み入れた瞬間、管制室の隅々からけたたましい電子音が響き渡った。
『カウントダウン開始。発射まで、残り一八〇秒』
機械的な女性の声が、冷酷に時間を告げる。
彼は隠れることなく、将軍に向かって一直線に歩みを進めた。
銃を構える時間も、躊躇する時間もない。
彼は将軍の心に、発射を躊躇させる、わずか一秒の隙間を作る必要があった。
「将軍」
彼の声は低く、しかし驚くほど静かに響いた。
将軍はゆっくりと顔を上げた。
その視線は、彼を特殊部隊の一員だと認識しているようだった。
「どうした。許可なくここに入るな」
将軍の声は乾いており、感情の起伏がない。
まるで、長大な戦争の歴史を、ただ読み上げるだけの無機質な機械のようだった。
「コードの最終確認です」
彼は反射的に、訓練された言葉を口にした。
「確認済みだ。世界を救うための、最後の決断だ」
将軍はそう言って、再び赤いボタンに視線を戻す。
彼の指は、今にもボタンを押し込みそうだ。
『発射まで、残り一二〇秒』
彼は一歩、また一歩と将軍のデスクに近づいた。
その間、彼の脳裏では、将軍のモニターに表示されている、一連の複雑なデータ群が高速で解析されていた。
発射シーケンス、目標座標、そして、キャンセル・コードの入力欄。
彼が知る限り、このシステムには二段階の安全装置がある。
第一段階は物理キーと生体認証。
これはすでにクリアされている。そして第二段階は、発射直前の「最終確認プロトコル」だ。
これは、発射命令の正当性を証明するための、ランダムな数列と暗号化されたキーワードを組み合わせた、四八時間ごとに更新されるコードだった。
このコードを知る者は、このバンカー内には誰もいない。
なぜなら、そのコードは彼の上層部、つまり彼らの本国の情報機関が、万が一の暴走に備えて密かに掌握していたからだ。
「将軍。その決断は、あなたの祖国をも滅ぼす。核の傘は、攻撃の武器ではなく、抑止の盾でなければならない」
彼は、将軍の心理に訴えかけた。
言葉は、時間稼ぎのための最良の武器だった。
将軍は初めて、感情らしきものを見せた。
それは、皮肉を込めた、静かな笑いだった。
「抑止だと?もう遅い。外の世界はすでに我々を裏切った。このボタンこそが、我々の不滅の意志を示す唯一の方法だ。この世界は、膿を出し切る必要がある」
将軍の言葉には、長年の戦争指導者としての傲慢さと、孤独な決断を下す者の狂的な使命感が入り混じっていた。
『発射まで、残り九〇秒』
カウントダウンの声が、彼の背筋を凍らせる。
彼は、将軍の視線が集中しているモニターの左隅、ほとんど意識されない隅に、小さな、しかし決定的な情報を発見した。
それは、今日の最終確認コードの一部らしき文字列だった。
暗号化されており、そのままでは意味をなさないが、彼の特殊な訓練が、その文字列をある種のパスワード・ヒントとして認識させた。
文字列:$A.L.P.H.A. - 1984.03.14.$
(アルファ……一九八四年三月一四日……何だ、これは?!)
彼の記憶が、過去の極秘資料を高速で検索し始める。
アルファというコードネームは、かつてこの将軍が、若き日の軍事外交官として極秘任務に就いていた、ある中立国との平和交渉のコードネームだった。
その日付は、交渉が決裂し、将軍が失意のうちに帰国した日に酷似している。
(将軍の、最も深く、最も隠された後悔……あるいは、理想の破綻を象徴する日付だ!)
彼は、わずかな希望に賭け、暗号解読の作業を頭の中で開始した。
暗号は、この将軍の世代の軍人が好んで使用した「シーザー暗号」をベースにした、単純だが強固なものだった。
キーとなる数値が必要だ。
「将軍、あなたが信じる平和とは何だ」
彼は将軍の目をまっすぐに見つめ、挑発するように尋ねた。
「平和? フン」
将軍は鼻で笑った。
「七〇年の歳月だ。人類が核の恐怖に怯え、互いを監視し続けた七〇年間が、私の求める平和だった」
(七〇年……!)
彼の脳裏に、閃光が走った。
七〇という数字。
これは、将軍が初めて軍に入隊した年、あるいは、この国の核兵器開発が公になった年からの経過年数に等しい。
彼は、その「七〇」を暗号のキーとして仮定し、発見した文字列に適用した。
$A.L.P.H.A. - 1984.03.14.$
を、七〇文字分シフトさせる。
しかし、時間がない。
彼は、デスクの隅にある、最終確認コードの入力用端末に手を伸ばす。
「何をする!」
将軍は初めて声を荒げた!
その声は管制室に響き渡る。
「最終プロトコルの手動オーバーライドです。発射前に、最後の認証を」
彼はそう言い放ち、将軍が反応する間もなく、端末のキーボードに指を走らせる。
『発射まで、残り四五秒』
カウントダウンの声は、最早ただの雑音だ。
彼の指先は、キーボードの上で踊るように動いた。
将軍が平和交渉で用いた中立国の公用語、そして彼が最も尊敬していた歴史上の哲学者の名前、そして、七〇という数字。
彼は、暗号化された文字列から、逆算されるであろう、一つの英単語を導き出した。
それは、将軍が心の奥底で、今も信じ続けていると信じた言葉だった。
JUSTICE。正義。
彼は、端末の入力欄にその単語を打ち込む。
J.U.S.T.I.C.E. - 70.03.14
(これで、どうだ!)
その瞬間、管制室の天井が、激しい轟音と共に振動した!
ドォォォォン!!
外部から何かが激突したような、あるいは、バンカーの遥か上層で爆発が起きたような、恐ろしい音と衝撃が彼らの体を揺さぶる。
天井の蛍光灯がバチバチと音を立て、チカチカと瞬く。
(外部からの攻撃?!それとも、核ミサイルの迎撃か?!)
彼は冷や汗をかきながらも、指先を離さない。
この爆発は、将軍の心理をさらに極限へと追いやる。
「見ろ!外が崩壊している!もう、後戻りはできん!」
将軍は叫び、ついに、赤いボタンに向かって指を伸ばした!
彼の指先が、ボタンの表面に触れる!
『発射まで、残り一〇秒』
彼は残された最後の手段に賭けた。
「将軍!あなたがかつて愛した故郷の風景を思い出せ!あの、花畑を!」
彼は将軍の過去の、さらに深い機密情報から引き出した、将軍の心の弱点を突いた。
将軍は一瞬、硬直した。
その瞳の狂気の炎が、わずかに揺らぐ。
「貴様……なぜそれを……!」
将軍の指が、ボタンからわずかに離れる。
その一瞬の隙間。
彼は、端末に最後のコマンドを打ち込んだ。
それは、暗号化されたキーワードを解除し、発射シークエンスを永久停止させる、オーバーライド・キーワードだった。
PEACE。
彼は、この単語が、将軍の理想と決裂の間に存在する、最も純粋な願いだと信じた。
ピーーーン!
管制室内のすべての赤いランプが一斉に緑色に変わった。
けたたましかった電子音と警報音が、すべて停止する。
『カウントダウン停止。発射シークエンスはキャンセルされました』
機械的な女性の声が、先ほどとは打って変わって、静かに、そして確定的に告げた。
世界は、救われたのだ。
彼の全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
額からは滝のような汗が流れ落ちていた。
将軍は、赤いボタンに伸ばしたままの指を、虚しく宙に漂わせた。
彼の顔は、すべての感情を失い、ただただ呆然としていた。
彼の理想と狂気は、最後の瞬間に、彼自身の深層の願いによって打ち砕かれたのだ。
彼は、将軍を見つめ、静かに息を整えた。
「核の傘は、誰かを守るためにあるべきです。誰かを滅ぼすためにではない」
彼の言葉は、もはやスパイとしてではなく、一人の人間としての、切実な祈りだった。
バンカーの中は再び静寂に包まれ、世界を破滅へと導くはずだった熱狂は、冷たいコンクリートの奥深くで静かに収束していった。
彼は、任務完了のサインを送り、重い足取りで、光の差さない地下から、外の世界へと向かう。
外には、戦火が続いているかもしれないが、核による絶望的な破滅は、回避されたのだ。
彼は、未来への、わずかな希望の光を胸に抱きながら、暗い通路を後にした。
核の傘 わんし @wansi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます