#144 一人土俵、魂のうっちゃり 第5章〜心の土俵、継ぐ者たち
魚住 陸
一人土俵、魂のうっちゃり 第5章〜心の土俵、継ぐ者たち
第1章:弟弟子、光と影の境
山嵐が奇跡的な復帰を遂げ、土俵で躍動してから一年が過ぎていた。彼の力強い相撲と、不屈の精神は、部屋の若い衆にとって揺るぎない希望の光となっていた。しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる者もいた。入門五年目の竜太、二十歳の若者は、その影の中に深く沈み込んでいた。
竜太は、山嵐の二つ下の弟弟子で、鳥取の山嵐とは対照的に、東京の下町出身。恵まれた185センチの体躯と、師匠も「天性のものだ!」と唸るほど柔軟で鋭い相撲のセンスを持っていた。しかし、ここ一年、彼の成長はぴたりと止まっていた。稽古では何度も体勢を崩し、本場所では勝ち越しができず、むしろ負け越しが続いていた。
「竜太、もっと腰を落とせ!気迫が足りん!お前の相撲は、ただの棒立ちじゃないか!」
師匠の雷鳴のような怒声が稽古場に響く。竜太は、その声にビクッと体が震え、より一層、動きが硬くなる。まるで、全身を硬い鎧で覆われているかのようだった。他の若い衆が懸命にぶつかり合う中、竜太はいつも稽古の終盤には、魂が抜けたように疲弊し、誰とも目を合わせずに部屋の隅でうつむいていた。その姿は、周囲の期待と、自分自身の現実との大きな溝に苦しんでいることを物語っていた。
山嵐は、そんな竜太の様子を、日課のストレッチをしながら、注意深く見守っていた。竜太の目から、かつての闘志の炎が消えかけているのを感じたのだ。
その夜、消灯時間間際。山嵐が一人、静かな稽古場で右膝の入念なケアをしていると、竜太が音もなく近寄ってきた。竜太の顔は、蛍光灯のわずかな光の中でも青白く、何かを決意したような、絶望に満ちた表情をしていた。
「山嵐関…お疲れ様です…」
「どうした、竜太。何かあったのか?いつもより顔色が悪いぞ!」
山嵐が、できる限り優しく尋ねると、竜太は俯いたまま、まるで胸の奥から言葉を絞り出すように、途切れ途切れの声で言った。
「俺…相撲を辞めたいんです。もう、限界です…」
第2章:打ち明けられたプレッシャーの根源
山嵐は、その言葉を聞いても驚きや動揺を顔に出すことはなかった。静かに立ち上がり、竜太の隣の床に腰を下ろした。冷たい床の感触が、彼の心に冷静さをもたらした。
「そうか…辞めたいのか。そう思うほど、今のお前は苦しいんだな…」
山嵐は、問い詰めることも、安易な励ましをすることもしなかった。ただ、竜太の言葉を、その重みごと受け止めた。この沈黙が、竜太の堰を切った。
「才能なんて…そんなの、ただの期待の重さです。入門した頃は、体が動くのが楽しかった。でも、今の俺は土俵に上がるのが怖いんです。相手にぶつかるのが怖いんです…」
竜太の声は震え、手のひらを強く握りしめていた。
「稽古しても、稽古しても、思うように体が動かないんです。勝てないんです。周りは、俺が師匠や山嵐関から期待されているのを知っています。その視線が、稽古場でも土俵でも、ずっと俺を責めているように感じるんです…」
竜太は、ついに山嵐に目を向けた。その瞳は、涙で潤んでいた。
「山嵐関は、怪我で全治6ヶ月の診断を受けながら、誰よりも早く、誰よりも強く復帰した。土俵での山嵐関は、まるで鬼のようです。どんな困難にも屈しない。でも、俺には…その折れない心が、どこにあるのか、どうやったら持てるのか、全くわからないんです…」
山嵐は、竜太が自分を目標とし、そして自分の復活劇が、知らず知らずのうちに竜太にとって越えられない壁となり、とてつもないプレッシャーとなっていたことを悟った。自分の不屈の精神が、弟弟子を追い詰めていたという現実に、山嵐は胸を締め付けられる思いがした。
「竜太、お前の苦しさは、痛いほど分かる。俺も、一人、病室のベッドで、全てを投げ出したくなった。だがな、竜太。俺が土俵に復帰できたのは、俺が特別に強かったからじゃない。俺はな、強くなろうとすることを諦めたから、土俵に戻れたんだ…」
第3章:故郷の竹細工が示す「しなやかさ」
翌朝、山嵐は師匠に事情を話し、竜太を連れて、部屋から少し離れた海辺へと向かった。東京湾の穏やかな潮風が、竜太の強張った表情を、少しずつ和ませていくようだった。
「竜太、ちょっと座れ!」
山嵐は、波打ち際から少し離れた防波堤に竜太を座らせ、自分は海を眺めるように隣に腰を下ろした。そして、財布の中から、故郷の喜朗からもらった、手のひらに乗るほどの小さな竹細工のお守りを、大事そうに取り出した。それは、精巧に編まれた、しなやかで美しい竹の輪だった。
「これは、俺が怪我をして故郷に帰った時に、倉吉の相撲道場の喜朗さんがくれたものだ。『決して折れない、しなやかな竹のように、どんな困難にも立ち向かう力がありますように』と、願いを込めてな…」
山嵐は、そのお守りを竜太の手にそっと乗せた。竹の冷たい感触が、竜太の震える指先に伝わった。
「竜太、お前は、いつも『折れない心』を、鉄のように硬く、絶対に壊れないものだと思っているんじゃないか?」
「…はい。山嵐関の相撲を見ていると、そうとしか思えません…」
「違うんだ。鉄は硬いから、一度折れたら元に戻らない。でも、この竹は違う。風に吹かれ、雪に覆われても、しなやかに曲がり、また元の形に戻る力を持っている。俺の相撲は、この竹細工と同じなんだ。投げられても、膝を痛めても、また立ち上がる。それは、頑丈さじゃなく、しなやかさなんだ…」
山嵐は、竜太の目を見て続けた。
「相撲の力士は、いつも強い心で土俵に上がっているわけじゃない。怖さや不安と一緒に土俵に上がっている。その怖さと向き合いながら、それでも一歩前に出る。その一歩を支えるのが、勝敗を超えた、お前の心の中にある心の土俵なんだ!」
第4章:師匠と母が語る「自分らしさ」
部屋に戻った山嵐は、竜太の苦悩の核心が、「完璧でなければならない」という重圧にあることを師匠に報告した。師匠は、静かに頷き、深く息を吐いた。
「竜太の苦しみは、よく分かっている。あいつは、真面目すぎるが故に、すべてを一人で抱え込んでいる。そして、お前の復活が、あいつの求める完璧な力士像を作ってしまったんだ…」
師匠は、遠い目をして続けた。
「山嵐、お前は故郷で、相撲の技術だけじゃない、人として、力士として、どう生きるかという心の軸を取り戻してきた。それは、お前を支えてくれた人たちから受け取ったものだ。竜太には、お前のその経験と言葉が必要だ。竜太にとって、お前は光であると同時に、一番の理解者でなければならない…」
その夜、山嵐は、竜太の悩みをそのまま故郷の母に電話で伝えた。母は、静かに耳を傾け、温かい声で諭した。
「竜太さんは、きっと本当の自分の相撲を見失っているんだね。山嵐、あなたは、竜太さんに無理をしない強さを教えてあげなさい。お前にはお前の、竜太さんには竜太さんの相撲があるんじゃない。自分らしく、土俵に立つこと、それが一番の強さなんだって…」
母の言葉は、山嵐自身が怪我の時、母に言われた言葉と重なっていた。山嵐は、竜太に伝えるべきは、「誰かになること」ではなく「自分自身であること」だと、改めて確信した。彼は、師匠と母の教えを胸に、竜太の心に深く寄り添うことを決意した。
第5章:夜を照らす、魂の稽古
翌日から、山嵐は師匠の特別な許可を得て、誰もいない深夜の稽古場で、竜太との二人だけの夜間稽古を始めた。それは、技術を教えるというよりも、竜太の心にこびりついた重圧と恐怖を取り除くための、魂の交流の時間だった。
「いいか、竜太。今は、誰も見ていない。師匠も、他の兄弟子もいない。勝つとか負けるとか、そんなことは考えるな。ただ、お前の好きな相撲をやってみろ。泥臭くても、恰好悪くても、お前が一番気持ちいい相撲でいい…」
山嵐はあえて、勝敗をつけない、純粋なぶつかり稽古を繰り返した。竜太は、初めこそ山嵐の目が気になるように硬く、萎縮していたが、山嵐が一切の評価をせず、ただ全力で受け止めてくれることで、次第にその硬さが解けていった。
「思い切り来い、竜太!俺の怪我のことは気にするな!全て受け止めてやる!」
山嵐の熱い声に導かれ、竜太は、自分が本当にやりたかった、恵まれた体格を活かした力強さと、天性の粘り腰を組み合わせた相撲を思い出し始めた。土俵際での粘り、もろ差しを狙う鋭い動き…
「そうだ、竜太!その粘り腰だ!誰にも負けない、お前の相撲だ!それはお前の武器だ!」
山嵐は、自ら何度も土俵に転がりながら、竜太の相撲を全身で受け入れた。竜太は、汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら、無心で体を動かした。そして、稽古を終えたとき、彼は入門以来初めて、心の底から満たされたような笑顔を見せた。
「山嵐関…俺、相撲が好きです…!怖かったけど、やっぱり相撲が楽しいです!力を出し切るって、こんなに気持ちいいことだったんですね…」
第6章:故郷からの継承の証
竜太が稽古に打ち込むようになって数日後、竜太のもとに一通の手紙が届いた。差出人は、コウからだった。山嵐は、竜太の悩みと、彼が再び立ち上がろうとしていることを、コウに伝えていたのだ。
手紙には、拙い文字で、しかし力強いメッセージが綴られていた。
「竜太関へ。テレビで、少し調子が悪いのを知って心配していました。でも、山嵐関から、また頑張っているって聞きました。山嵐関は、俺にとって希望です。でも、今は竜太関の、粘り強くて一生懸命な相撲も、すごく楽しみにしています。俺の将来の夢は、いつか山嵐関が横綱になった時、直接お祝いを言いにいくことです!でも、その時は、竜太関にも頑張って大関になっていてほしいです!一緒に夢を叶えましょう!」
竜太は、手紙を何度も読み返し、涙が止まらなかった。自分には、誰にも言えない苦しみがあったが、同時に、こんなにも自分に夢を託してくれている少年がいるという事実に、胸が熱くなった。
山嵐は、静かにコウの手紙を見つめる竜太に言った。
「竜太。お前の相撲は、もうお前だけのものじゃない。お前を信じている、故郷の人たち、そして、師匠、お前を応援してくれているお客さん、そしてコウの夢…みんなの思いを背負っているんだ。その重圧から逃げるな。その重圧を、力に変えろ!」
山嵐は、静かに竹細工のお守りを竜太に渡した。
「竹細工は、折れない心を象徴している。だから、竜太。お前の心の土俵を、俺から継いでくれ。誰かの希望となることから、逃げないでくれ!」
「はい…!山嵐関、俺、もう逃げません。俺の相撲で、コウ君や、皆の希望になります!この竹のようにしなやかな強さ、俺も身につけます!」
第7章:未来への一歩、継承の土俵
そして、迎えた次の場所。竜太は、三段目の土俵に上がった。彼の顔には、以前のような怯えも、硬さもなかった。竹細工のお守りは、静かに彼の胸元のサガリの下で揺れていた。そして彼は、恐怖ではなく、期待と決意を胸に土俵に立った。
立ち合い。竜太は、師匠の教えと、山嵐との稽古で取り戻した自信を爆発させた。迷いを捨て、持ち前の体格と、再び蘇った粘り腰で相手に食らいついた。激しい攻防の末、彼は土俵際で粘り抜き、相手の投げに耐えてから、見事な逆転の突き落としで勝ちを収めた。
取り組み後、竜太は深々と頭を下げ、観客席の山嵐を見上げた。山嵐は、何も言わず、ただ力強く頷き、微笑んだ。その微笑みは、山嵐の復帰戦と同じく、希望に満ちていた。
竜太の心の土俵は、今、しっかりと築かれ始めていた。彼は、山嵐の不屈の精神と、皆からの温かい思いを受け継ぎ、力士として、人として、しなやかな強さを身につけようとしていた。彼の新たな物語は、ここからまた始まっていく。山嵐は、自分の怪我が、弟弟子を救い、そして彼に力を与えるという、力士としての新たな継承の役割を与えてくれたことを知った。
「竜太…お前の相撲は、これからだ。俺もお前に負けないよう頑張る…全て力に変えていくんだ…」
山嵐は、そう静かに呟いた。彼の心には、弟弟子との魂の交流が、何よりも大きな力として残っていた。二人の力士の心の土俵は、未来へと力強く繋がっていた…
◆過去に投稿した第1章から4章も合わせてお読みください!
#144 一人土俵、魂のうっちゃり 第5章〜心の土俵、継ぐ者たち 魚住 陸 @mako1122
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