第22話 舞台裏の約束

学園は文化祭ムード一色。

教室ではカップル、友人、部活動――あちこちで笑い声が響く。


夕焼けが校舎のガラス窓を赤く染めていた。

 講堂の扉を開けると、微かに焦げた照明の匂いと、舞台袖から漏れるスポットライトの光が勇気の目を照らす。


「……ここか」

 喫茶店の準備を終えたばかりの勇気は、額の汗を袖で拭った。

 ステージの中央では、朝霧玲奈が練習をしていた。ひとり、相手役もいないのに、まるで本番のような真剣な声。


「――どうして……あなたなの?」


 照明の熱と、彼女の熱気が混じる。

 勇気はその声に引き寄せられるように舞台袖に立った。

 観客席には誰もいない。だが、玲奈の視線の先には、きっと“誰か”がいるのだと思った。


 言葉をかけようとして、喉が詰まる。

 彼女の横顔が、あまりに美しかったから。


「……頑張ってるな」

 ようやく出た声は、思ったより弱々しかった。


「うん、ありがとう」

 玲奈は汗を拭いながら振り返り、微笑む。

 その笑顔が、どこか疲れて見えた。


「……神谷くんがすごく支えてくれるから、なんとかやれてるよ」


 その一言が、胸の奥で鈍く響く。

神谷――。

その名を聞くたび、心のどこかがざらついた。


(……そうか。やっぱり、あいつなんだな)


 笑って返すべきだったのに、唇が動かない。

 彼女の何気ない一言が、胸の奥の棘をゆっくりと押し込んでくる。


舞台上で、神谷が玲奈の台本を拾い上げて渡す。

指先が触れた瞬間、玲奈が小さく笑った。

その光景が、まるで別の世界の出来事みたいに、勇気には見えた。



 その日のリハーサルは熱気に包まれていた。

 舞台上では、朝霧玲奈と神谷蓮が立ち位置を確認しながら台本を読み合わせていた。

照明の仄かな光が二人を包み、木の舞台がかすかに軋む。


「神谷くん、ここの台詞……“もう、逃げない”のところ、もう少し間を取ってみて?」

「了解。じゃあ、朝霧が“信じてる”って言ったあと、俺が一歩前に出る感じで」


二人の呼吸が揃う。

台詞の間、目線の角度、足音のリズム。

まるで本物の恋人同士のような自然さだった。


その完璧な調和を、勇気は舞台袖で見つめていた。

拳を握りしめ、唇を噛む。

声をかけようとしても、喉が詰まって言葉にならない。


(……何だよ、あれ。完璧すぎるだろ)

神谷の真剣な眼差し、玲奈の穏やかな笑顔。

その距離感が、勇気には痛いほど近く見えた。


「次、愛の告白のシーンですね」

 神谷が台本を持ち上げる。

 朝霧は淡い笑みを浮かべ、照明の下に立った。


「……“あなたがいたから、私は強くなれたの”」

 声の響きが、美しくも冷たい。

 それは女性としての威厳と、ひとりの少女の弱さを同時に宿していた。


(……なんだよ、それ。演技なのか? 本気なのか?)


「神谷、あんたは何でも完璧だな」

 思わず言葉が漏れた。

 神谷は肩をすくめて笑った。

「いや、朝霧さんが支えてくれてるだけだよ」


 その一言で、何かが切れた。

 思わず拳を握り締めた。

玲奈が慌てて勇気に近寄り、勇気の手をそっと掴んだ。。


「やめて、勇気くん……今はそんな話――」


 けれど勇気は、反射的にその手を振り払ってしまった。


 ――パシッ。

 乾いた音が、舞台全体に響く。


 講堂の空気が一瞬、凍りつく。

 神谷は、動きを止めた。

 玲奈は小さく震え、何も言わずに手を引っ込めた。


玲奈の瞳が揺れる。

神谷が何か言いかけたが、勇気はそれを遮るように舞台を降りた。


美月は遠くからその光景を見ていた。

唇を噛み、そっと視線を逸らす。


(お兄さん……どうして、そんな顔するの)




 リハーサルが終わった夜。

 講堂の灯りは落ち、月光だけがステージを照らしていた。


 玲奈は一人、立ち位置を確認していた。

「ここ……神谷くんの位置、もう少し左だったかな」

 小さく呟きながら、透明な空気の中に“誰か”の姿を思い描く。


「ここで、“もう一度、信じたい”……だっけ」

独り言のように台詞をつぶやく。

そのとき、扉の軋む音。

神谷蓮が現れた。


「……立ち位置、ここでいい?」

 背後から声がした。

 神谷蓮が台本を片手に立っていた。


「神谷くん……どうして」

「忘れ物を取りに来ただけ。でも、君がいるとは思わなかった」


二人の間に、月の光が流れる。

玲奈が微笑む。

「ありがとう。明日も、ちゃんとやれる気がする」


「君なら大丈夫だよ」

神谷の声は優しかった。

二人の影が、静かに重なる。

その光景を、舞台袖から見ていたのは――桐生里奈だった。


彼女の手に握られた台本が、かすかに震える。


(分かってた……。けど、それでも――)


 光に照らされた玲奈の横顔は、まるで“恋する少女”そのものだった。


 桐生(心の声):

「……朝霧さん、本当にあの人が好きなんだ」


握りしめた拳の中で、爪が掌を傷つけていた。


玲奈の声が夜に響く。

「勇気くん……私、信じてるから」


その台詞が、演技なのか本音なのか、誰にも分からなかった。



 翌日。

 文化祭準備でざわつく校舎。

生徒会室の扉を開けると、桐生が静かに勇気に声をかけた。


「朝霧さん、昨日は誰かと帰ったみたいですよ」

 書類を整理しながら、桐生里奈が静かに言った。


 勇気は一瞬、手を止める。

「……誰と?」

桐生は少しだけ間を置いて、視線を逸らす。

「さあ……でも、講堂の方から一緒に出てきたみたいです」


胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

神谷――その名前が、頭をよぎる。


勇気は曖昧に笑ってごまかす。

「そうか。……別に、誰と帰ろうが自由だし」


けれど声は、少し震えていた。


その様子を、扉の外から美月が見ていた。

彼女の胸が、締め付けられる。


(お兄さん……また、玲奈さんのことで苦しんでる)


笑顔を作って立ち去る美月の背中が、少しだけ震えていた。



昼休み。

 文化祭前でクラスの喫茶店は大忙し。

 勇気はテーブルを磨きながら、上の空だった。

 玲奈のことを考えるたび、胸の奥がざわつく。


「お兄さん、疲れてる?」

 美月がそっとお茶を差し出した。


「ありがとな。……最近、いろいろあってさ」


「お兄さん、頑張ってるの知ってるよ」

「……そう見えるか?」

「うん。私、ちゃんと見てるもん」


 勇気は微笑んだ。

けれど、その笑みはどこか遠かった。


 美月は唇を噛み、微かに笑った。

 美月は静かにうつむく。

(その笑顔、誰のためなの……?)

 美月の胸の奥では、言葉にならない想いが静かに泣いていた。





 夜。

教室には月明かりだけが差し込んでいた。

玲奈が、そっと勇気を呼び出した。

「勇気くん……少しだけ、話せる?」


二人きりの教室。

窓の外で風がカーテンを揺らす。

玲奈が勇気を呼び出したのは、文化祭の前夜だった。


「明日、ちゃんと見ててね。……私の演技」

 教室の蛍光灯の下で、玲奈が微笑む。

 どこか遠い瞳だった。


「当たり前だろ。お前の頑張り、誰より知ってる」

「……ありがとう」


 少し間を置いて、玲奈が続けた。

「でもね、演技……だから」


玲奈は微笑んだ。

その笑顔は、どこか泣いているようにも見えた。


「じゃあ、また明日」

軽く手を振って、玲奈は教室を出て行った。

 勇気は呆然と立ち尽くす。

“演技”という言葉が、胸の奥で何度も反響した。

勇気は窓に映る自分の顔を見つめた。


(演技……? なんだよ、それ)

 

窓の外、月が静かに滲んでいた。

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俺、もう寝取りしません。でもヒロインが止まらない 源 玄武(みなもとのげんぶ) @123258

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