訪問

 社務所の文書を蒐めて、例の奇怪な現象について調べていた私は、一向に手掛かりが掴めないことにいささか焦慮していた。


 ——この山地の麓の(それも十粁はある)まちの病院に療養している父を訪ねる必要があるかもしれない

 などとぼんやりと考えながら、冷めてしまった茶をちびちび飲んでいると、

「ごめん下さい。上村です。折り入ってお耳に入れておきたいことがあって参りました」

 と、上村家の亭主とすぐに分かる朗朗たる声がする。

 ——梅木の爺さんに続いて、今度は一体何であろうか

 と思いつつ、玄関の戸をゆっくり開けると、確か六つか七つになる坊を伴って上村の亭主が立っていた。

「⋯⋯実はこの雅和が昨日に川で変なものを見たらしいのです。おさ様には後でご報告しに参るつもりですが、こういう奇妙なことにお詳しそうな竹中様の方へ先にご報告申し上げた次第です」

 ——そんなに買いかぶられても困る。私の父の方がよほど色々のことを知っているだろうし⋯⋯いや、それより、また「川」か。これは愈々妙な事態になってきたぞ⋯⋯

 などと思いながら、

「そうでございましたか。どうぞ中へお入り下さい。散らかっていて申し訳ないですが⋯⋯」

 と我がむさ苦しい庵の中へ招き入れた。


 上村の亭主に促されて坊が話し始めた奇妙な話と、それに対する私の質問に返ってきた答えをまとめると、概ね次のような内容であった。

 ——昨日、これから暫くは見れなくなるであろう沢蟹を捕まえようと川のあたりを歩いていたときに、一本杉の生えているあたりに辿り着き、ふと川の淵の方を見てみると、変に茶味がかった大きな泡が湧き出ていて、その周りで魚がひっくり返っていた


 私は幾つかの質問を終えると、暫く黙ってこの異常な事態について脳内で整理をしていたが、

「私の父はお山が噴火する前兆かも知れない、などと云っていましたが、だったらお山に何かしらの動きがあるはずですよね」

 という上村の亭主の言葉に思考から現実に呼び戻される。

「あ、ああ、それもそうであるし、実は早朝に川縁にある畑が水浸しになっていたという話を、梅木の爺さんが私に持ってきていたりもするので、川自体に異常があるように私も思うのだがね——」

 昨日に川を見て私自身が感じたあの違和感を思い出しながら、答える。

「やはり竹中様もこの現象の正体についてご存知ありませんかねぇ」

「梅木の爺さんの話を聞いてから色々文書を漁ってはいるが⋯⋯そうだ、今の話は私からおさに伝えておこう。ついでに川の様子も見なくてはならないし」

——上村の亭主は私に謝辞を述べ、坊を連れて聚落の入口の方へ帰っていった。時刻は午前十時を回ったばかりである。未だ朝の大気の残滓が、杉林の陰のあたりに残っている。



 おさ——岩國家の屋敷は、聚落の中央のいささか小高い丘の上にあった。室町あたりから確実に続いている岩國家は、代々この聚落の長として認められてきたが、それは電気が通り、テレビが見られるようになったこの現在においても変わらない。

 私はその岩國家の屋敷へ向かっているところであり、ちょうど何やら妙な事態の起こっているらしい川の縁に差し掛かるところであった——


 遠目では川はいつもと変わらないように見えた。が、川に近づくにつれて私は慄然とせざるを得なかった。

 ——黄味を帯びた泥色の川が緩慢に蠢いている!

 それはあたかも何らかの生物かのようにゆっくりと動いていた。少なくとも山間を流れる水の流れではない。私の語彙力では到底言い表すことのできないその不気味な光景は、この川に何やら尋常ならざる事態が起きていることを如実に示していた。

「ああ、竹中さん! 一体これは!」

 不安の中にいささかの興奮を帯びた声がする。川に気を取られていて気付かなかったが、どうやら先に川の様子を見に来ていた者がいたらしい。声の方を見ると、竹田夫妻と婆さん、そして今朝に会ったばかりの梅木のじいさんの顔があった。

「ああ、竹田家の方々まで——それが私にも分からぬ。今おさ様のところへご報告しにいくところだ」

 平静を装って私は答える。

「ちょうど竹中さんの家に参らんとしていたところだったんじゃ。とうとう畑は泥沼になってしもうたし、見ての通り川もおかしい。何かの祟りじゃなかろうか」

 梅木の爺さんがいささか興奮しながら川の方を指差す。

「私も分からないが、ひとまずは落ち着いて聞いて下さい」

 私は自らに芽生えた驚怖の念を無理やり押さえつけて平静を装いながら続ける。

「多分皆も気付き始めているかも知れないが、竹田さんと梅木さんは、この事態を聚落むらの皆に報せて回って下さい。私は急いでおさ様のところへご報告しにいく」

 竹田家の三人と梅木の爺さんが、いささか困惑の表情を浮かべながらも力強く頷いたのを確認し、

「お気をつけて!」

という言葉が竹田の亭主の口から発せられるよりも早く、私は道を駈けていった。


 *


 岩國智治は、いささか妙にそわそわとした気分に包まれながら、縁側で煙草を吹かしていた。


 ——昨夜あたりから蟲どもの声が明らかに減っていることが原因であろうか⋯⋯

 そんなことを考えていると、妙に居ても立っても居られない気分になり、朝から縁側で煙草を吹かしていたのである。


「智治さん、竹中さんがいらしてますよ。至急お伝えしたいことがあると——」

 妻がいささか慌てた顔をしながら、こちらへやってきて私に伝える。

 彼が来るのではないだろうか、という予感が見事的中したことに驚きながらも、

「そうか、すぐに行く」

 とだけ言って居間へ戻った。

 





 

 

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泥濘の怪 古蔦蘆越嶁 @frztys_wcr

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