【鬼の守り部番外編】残り香

白原 糸

残り香

 第一印象は敵に回してはならない人間、だった。

 羽坂はざか紘太朗こうたろうは煙草を吸いながら、遠い記憶を手繰っていた。ベリーショートの白い髪、長い首、無駄を削ぎ落した体はすとんと立っているように見えて、隙がない人間だった。

 そして――澄人すみとを護る為に羽坂に鋭い目を向けてくる女性だった。

 日馬くさま秋良あきら。それがその人の名前だった。

 くるりと揺れる煙草が風に消える。羽坂は〈教育総監棟きょういくそうかんとう〉の屋上から薄い白煙越しに景色を見下ろしていた。

 七階建ての煉瓦造建築である〈教育総監棟〉の屋上からは〈白幹ノ通しろもとのくに〉が一望できる。この国の主要であり、最も大きな通りは常に車と辻馬車の行き来が絶えない。ここから真っ直ぐ先にあるのが他国に繋がる〈白幹ノ帝国駅〉だ。

 朧に見える駅の姿を眺めながら羽坂は煙草の煙を吐き出した。

 日馬秋良は澄人が五歳の時から十二歳まで護衛を務めていた〈護衛師ごえいし〉の一人だった。澄人が最も信頼を置いていた人間の一人だが、澄人が幼年学校に入学すると同時に〈飛花之国ひかのくに〉に移住した。

 ――君も来るか。

 淡々とした口調で問われたあの日、羽坂はすぐに答えられなかった。当時、羽坂は二十二歳だった。日馬はそんな羽坂に向かって微笑んだ。

 ――その反応を見て安心した。咄嗟にでも行くと答えていたら私は澄人様だけを連れて桜の国に行くと決めていた。

 その時、羽坂は日馬との未来を想像した。

 桜の国で日馬と過ごす未来だ。だが、その未来はすぐに澄人に塗り替わった。

 ――羽坂さん。

 小さな手が自分に縋る。幼い澄人を守るように抱きしめて眠ったあの夜から、羽坂は自分の未来を決めた。

 それなのに、たった一瞬だけでも日馬との未来を見てしまった。

 羽坂紘太朗はそもそも、子供を預かるような男ではない。

 子供を預かるという意味では同期の高久たかひさただすと、意外にも小説家の志々目しのめ鏡一郎きょういちろうが向いている。それにもかかわらず、羽坂は十八の時、八歳の澄人の護衛を任されるようになった。

 何回か預かっているうちに情が湧いた。

 この子供を守りたいと思ってしまった。

 あの家では子供らしく笑うことのない澄人を――自分の下では子供らしく居られるようにしてやりたかった。

 自分の下では無邪気に子供らしく笑う澄人を前に優越感がなかったと言えば嘘になる。〈護衛師〉である日馬はそんな羽坂に懐く澄人を安堵した目で眺めていた。

 ――私は澄人様が心から笑ってくださるなら、良いのです。

 澄人を見て優しい表情を浮かべる日馬の横顔は美しかった。羽坂はその時、日馬に触れたいと思ったのだ。

 遠くから喇叭の音が聞こえる。

 我に返った羽坂は、自分の手元を見た。半分以上が灰になった煙草を、もう片方の手で持っていた携帯灰皿の中に押し込める。あれから八年が経ち、羽坂は三十になり、澄人は二十になった。日馬は三十六になったらしいことをこの間、澄人と一緒に街に出かけて知った。

〈白幹ノ通〉のお店で缶に入った紅茶とクッキーを買った澄人がカードに言葉を書いていた。羽坂の目の前で、見られることを物ともせずに。

 日馬さんへ、三十六歳の、とするりと書いた文字から目を逸らした羽坂は、自分の重ねた年月を思った。日馬が桜の国に行ってから、八年が経ったのだ。

 カードを書き終えた澄人が顔を上げた気配がする。

 ――羽坂さんも、日馬さんに何か贈りますか?

 透き通る色素の薄い灰色の目が他意もなく羽坂を見つめていた。

 初夏の生温い風が吹き、漂う煙が羽坂の軍装にまとった。この国では季節外れの桜の匂いのする煙草の残り香に日馬を思う。

 この煙草は、日馬に勧められて吸い始めたものだ。煙草をやめられないなら、澄人様に影響のないものを、と渡された煙草は〈彼岸ノ桜〉だった。煙草特有の臭いは避けられないが、後に残る香りが桜になるこの煙草はあまりにも高級故に吸っている人が少ない。この煙草に手を出せるのは羽坂が軍人だからだ。

 結局、羽坂は日馬に物を贈らなかった。澄人はそうですか、と答えたが、がっかりしているのは顔を見ずとも分かっていた。

 それでも、羽坂は日馬に何かを贈ることは出来なかった。

 物を贈れば否応なしに思いを自覚させられる。一瞬でも思い描いた未来に引き戻される。

 羽坂は澄人と生きる未来を選んだ。この先、誰かと遊ぶことはあろうとも、家族を持つことはない。

 何があった時、羽坂は自分が優先して守る人が澄人であることを自覚していたからだ。

 そんな人間が家族を持てるはずがない。

 ――君が。

 遠いあの日の、日馬の声が聞こえる。

 ――もしも君が家族を持ちたいと思うなら、〈家籍かせき〉を結ぼう。私がその家族になってもいい。私は君のことをよく知っている。私なら澄人様を優先する君の気持ちも分かる。おそらく、私も同じことをする。だから、私はこの先も子供を持つ気はない。……例え桜の国に行ったとしても、私の本質は変わらないからだ。だから羽坂。私なら君に答えられる。例え、私と君、どちらに何があろうとも――互いに澄人様を優先する。それでもいいなら、家族になろう。

 淡々とした声で羽坂に告げた日馬の声を、今でも覚えている。

 そして羽坂は理解してしまった。

 日馬と自分は男女の仲には成り得ないことを。

 凛とした横顔を見せる日馬のその先にあるのは澄人だ。根っからの〈護衛師〉である日馬は例え最期の時になろうとも自分を選ぶことはない。

 日馬の言う家族というのはそういうことだ。

 男女、同性間で結ぶ婚姻は〈縁ノ結えんのむすび〉。親子関係となる結びは〈縁ノ子えんのこ〉。そして――互いに親族関係の縁を断ち切り、家族となるのが〈家籍〉だ。〈家籍〉は友人間、あるいはこの先もずっと家族でいたいと思う相手と結ぶものだ。婚姻と形の違う結びを日馬は口にした。

 羽坂にとって日馬は、家族ではない。好いた人だ。触れたいと思う人だ。〈家籍〉ではない。羽坂にとって日馬は〈縁ノ結〉をしたいと思う相手だ。

 自分の中にある欲を思う時、羽坂は八年経っても日馬への想いを忘れられぬ自分に自嘲した。

 仮にあの時、〈家籍〉を結んでいたとしてもいずれは破綻する。日馬も分かっているから敢えて口にしたのだ。

 だが、今でも不意に考える。日馬と生きる未来を思う。日馬と並んで本を選ぶ未来を思う時、強い光に塗り潰される。

 ――羽坂さん。

 澄人の声が聞こえる。強く淡い光がそこにある。

(だから言っただろ。羽坂……。この仕事を受けたらもう、後戻り出来ない、と……)

 心の内で自分に吐き捨てる。

 それでも羽坂は澄人と生きる未来を選んだ。いつか澄人は自分の手から離れる時が来る。その日まで共に生きると決めたのだ。

 そうして羽坂は煙草の箱を取り出した。本型の豪奢な入れ物に入った煙草は後、二本しかない。一本をくわえて軍衣のポケットに煙草をしまう。次に胸ポケットからライターを取り出して火を点ける。ライターを最後にしまった羽坂は煙草を呑んだ。煙を呑む。肺を満たす。

 深く吐き出した煙は目の前の景色を白く朧に見せていく。

 目の前を漂う煙によって羽坂の周囲は桜の匂いで満たされた。

(ああ……この煙草か)

 日馬にとっては澄人を思い、選んだ煙草だ。

 羽坂にとっては日馬を忘れられない煙草となった。吸い終えた後にも桜の匂いが体にまとわりつく煙草は、日馬の横顔を思い出せる。澄人を見つめる横顔がとても美しい人だった。

(嫌な残り香だ)

 記憶を追い出すかのように羽坂は煙草の煙を吐き出した。

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