陸 取引
「雪月院世継様を奥へ!」
花房に突き飛ばされ、いくらか後退した花霞。誰かに優しく受け止められ、そのまま外に出ていく。
「花霞、こっち!」
どうやら、受け止めてくれたのは紅白らしい。彼女に手を掴まれ、駆け足に来た道を戻っていく。後ろから幾人もの怒声が聴こえてきて、あの声が迫ってきたらと思うと、ゆっくりと恐怖が花霞の首を絞めてきた。
着物の裾を踏みそうになりながら、どうにか花ノ舎に戻ると、舎に控えていた女官達が駆け寄ってきたから、彼女達に花霞の身柄を預け、紅白は奥に消える。
安全地帯に戻ってきたからか、花霞は膝から崩れ落ち、震えながら自分の肩を抱いた。
誰かに刃物を向けられたことなどない人生だったものだから、酷い悪夢を視たような気分だが、残念ながら現実に起きた出来事だ。
「──正室を危険に晒す後宮って何だよ!」
どこからか紅白の怒声が聴こえてきて、震えが増した。誰のものであろうと、怒声はしばらく恐怖の対象でしかない。
誰かの話す声も遅れて聴こえた。何を言っているのかよく聴き取れないが、何となく困惑しているような気がする。
「──だから! お前の母親が花霞を殺そうとしたんだって!」
そう紅白が叫んだ瞬間、話していた相手が誰か分かった。
「──花霞様!」
玄関の方へと近付いてくる、慌てたような足音。花霞が顔を上げれば、困惑した顔の春露と目が合った。
花霞の姿を目にし、驚愕を顔に浮かべながら花霞の元に来て、彼女を抱き締める春露。求めていた温もりに包まれ、花霞の震えがゆっくりと治まってきた。
「やっぱり、私もいないと未来は回避できない!」
そのように叫ぶと、春露は花霞を抱き締めたまま、傍にいる女官達に色々と告げていく。
「花房は花ノ舎での勤務はもちろん、立ち入りも禁じる。あの女を今後一切私達に関わらせるな。後程、侍従処に抗議させてもらう。母上にだって抗議の文を送るし、絶対に花霞様に近付けさせないようにして。警備処から何人か人を寄越さないと……」
立てる? の言葉は、恐らく花霞に向けられたものだろう。
腰が抜けてとてもじゃないが立てそうにない。花霞が首を横に振ると、春露は彼女を抱き抱え、寝室へと向かった。
「昼食の件だけど、今日は花霞様を外に出したくないから、やめさせてもらおう」
「いいのですか、そんな」
「母上があなたに危害を加えようとしたんです。あなたの夫として、できる限りの抗議をしなくては!」
春露も春露で、今回の件を怒っているらしい。
こうなることが予想できたから、花紫冬女御への挨拶を後回しにさせてんだろう。花房も自分も、そんな心遣いを台無しにして……。
ごめんなさい、と花霞が言えば、未然に防げなかったこちらが悪いのでと春露は返し、寝台へと優しく花霞を横たえさせた。
着物が皺になる、と一瞬思ったが、着替える為に春露と離れるのは嫌だった。
「行かないでください……」
そう懇願すれば、春露は花霞の手を掴んで両手で包み込み、ここにいますと言ってくれた。
その言葉に安心したか、花霞の目蓋は急速に重くなっていき、やがて、寝息を立てるのだった。
◆◆◆
眠る花霞に布団を掛けてやり、手は離さないまま、ある方向に視線を向ける。
──すると、天井に貼り付いていたのか、すとんと何かが着地した。
真っ黒な作務衣に身を包んだ、可愛らしい少女。花霞に瓜二つに見えるが、相手は彼女が浮かべるとは思えない、憤怒の表情を浮かべていた。
「異常だよ、あんたの母親」
花霞の声が軽やかなものなら、相手の声は少年のように低い。その見た目で男なのだろう。
「天子妃と上級妃三人、四人もの人間が同時期に亡くなっているのは、明らかにおかしい」
「……」
「調べてみれば、彼女達が亡くなる直前、女官の配置換えが行われて、冬女御付きだった女官が何人も紛れ込める環境が整っていた。そして彼女達の死後、何人かの女官の消息が掴めなくなった」
「……」
「実行犯は女官だろうけど、企てたのは……」
「──引き受けよう」
何の脈絡もなく、春露は言った。
は? と困惑した様子の相手に構わず、春露は語り掛ける。
「あなたを花霞様の影武者にする。正直その方が私も安心できる。花霞様の侍女として、これまで通りあなたの姉上に傍にいてもらおう。武芸には秀でているんでしょう? なら、是非ともお願いしたい」
「……何で」
「視た。視た上で信用して、引き受けようと決めた」
「見たって、何を見たって言うのさ」
憤怒は混乱に変わり、声を上げる相手に──紅雪に、春露は笑みを向ける。
その笑みは少しだけ、淋しそうなものに見えた。
「──私には、未来が視える。そう言ったら、どうする?」
神子様は未来が視えるらしい 黒本聖南 @black_book
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