海鳴りのフィルム

火之元 ノヒト

海鳴りのフィルム

 ​潮の香りが染みついた坂道の町。それが、僕、篠宮和泉しのみや いずみが生まれ育った世界のすべてだった。高校二年の夏を目前に控えても、僕の日常は凪いだ海のように静かだった。学校と家の往復。そして、夜になれば自室の窓から天体望遠鏡を覗き、遠い宇宙の光を追いかける。それだけが、僕と世界を繋ぐ唯一の細い糸だった。

 ​その糸が、予期せぬ音を立てて弾けたのは、梅雨の最後の雨がアスファルトを濡らした日だった。


​「月島悠人つきしま ゆうとです。東京から来ました。よろしく」


 ​気怠いホームルームの空気の中、教壇に立った転校生は、こともなげにそう言った。洗いざらしのシャツの胸元から、黒くて重そうな機械がぶら下がっている。古いフィルムカメラだった。彼は、まるで体の一部であるかのようにそれを首から提げていた。


 ​クラスの誰もが遠巻きに彼を眺める中、僕だけが、そのファインダーの奥にある世界に心を奪われていた。


 ​放課後、悠人は一人、校庭の隅にある錆びた鉄棒に腰掛けて、しきりにシャッターを切っていた。何を撮っているのか気になり、気づけば僕は彼の隣に立っていた。


​「……何を撮ってるの?」


「ん? ああ、光と影」


 ​悠人は僕を一瞥すると、悪戯っぽく笑った。


「この町、面白い影がたくさんある。坂道が多いからかな」


 ​彼はカメラの背面を開け、慣れた手つきで撮り終えたフィルムを巻き上げる。その一連の動作が、まるで神聖な儀式のように見えた。数日後、現像した写真を見せてもらった時、僕は息を呑んだ。


 ​海へと続く踏切。夏草が茂る石段。軒先で丸くなる猫。すべて僕が毎日見ているありふれた風景のはずなのに、彼のモノクロームの写真の中では、まるで知らない世界のワンシーンのように、静かな光を放っていた。


​「すごい……」


 ​漏れた僕の声に、悠人は少し照れたように鼻を掻いた。


​「お前は? 何か好きなこととかあんの?」


「僕は……星、かな。星を見るのが好きだ」


 ​その言葉に、悠人の目がきらりと光った。


「マジで? 最高のロケーション、知らない?」


 ​その日から、僕たちの夏は始まった。


 ​僕が悠人を連れて行ったのは、町の外れ、丘の上にある古い展望台だった。コンクリートはひび割れ、訪れる者もいないその場所は、僕だけの秘密の聖域だった。そして、夜になれば、遮るもののない満天の星が降ってくる、宇宙に一番近い場所だった。


​「うわ……すげえ……」


 ​頭上に広がる天の川を見上げ、悠人は子供のようにはしゃいだ。僕は少し得意げな気持ちで、夏の大三角や、蠍の心臓で赤く燃えるアンタレスの位置を指で示す。僕が星の神話を語ると、悠人は黙って耳を傾け、時折、僕と星空を交互に見ながら、静かにシャッターを切った。


 ​カシャリ、という乾いた金属音が、虫の音しかしない夜の静寂に心地よく響く。


 ​僕たちは毎晩のように展望台で会った。学校であった他愛もないこと、好きな音楽のこと、そして、互いの世界のこと。悠人は、僕の語る何億光年も離れた星の光の話に夢中になり、僕は、彼がファインダー越しに切り取る一瞬の光の眩しさに焦がれた。


 ​それは恋とは違っていた。もっと静かで、深く、そして切実な、魂の共鳴のようなものだった。互いの欠けた部分を、相手の存在がそっと満たしてくれるような、不思議な充足感がそこにはあった。


 ​夏休みに入ると、僕たちの時間はさらに濃密になった。二人乗りした自転車で潮風の中を駆け抜け、入道雲をフィルムに焼き付けた。誰もいない学校に忍び込み、悠人が化学部から借りている暗室に立てこもった。


 ​赤いセーフライトが灯る、現像液のツンとした匂いが立ち込める空間。白い印画紙を液体に浸すと、じわり、と像が浮かび上がってくる。光が影になり、影が光になる。さっきまで世界に存在したはずの一瞬が、過去として定着していく。その魔法のような光景を、僕たちは息を詰めて見つめていた。


​「フィルムって、流れ星みたいだよな」


 ​ある時、悠人がぽつりと言った。


​「一回シャッター切ったら、もう二度と撮り直しはきかない。その瞬間だけの光を捕まえる。成功するか失敗するかは、現像してみるまで分からない」


 ​その横顔に、ふと影が差したように見えて、僕は何も言えなかった。悠人は時々、そういう顔をした。決して未来の話をしようとせず、この夏が永遠に続くかのように振る舞いながら、その実、すべてが消えてなくなることを知っているかのような、諦観を滲ませた目をすることがあった。


 ​その予感は、町の夏祭りの夜に、現実のものとなった。


 ​神社の境内は、裸電球のぼんやりとした光と、人の熱気で溢れていた。浴衣姿の悠人は、いつもより少し大人びて見えた。僕たちはリンゴ飴を齧り、たわいもない話で笑い合った。祭りの喧騒が、終わりを先延ばしにしてくれているようだった。


 ​だが、喧騒はいつか終わる。最後の花火が夜空に大輪の花を咲かせ、ぱらぱらと寂しい音を立てて消えていく。その残光が闇に溶けるのを待って、悠人は口を開いた。


​「和泉、俺、この夏が終わったら、引っ越すんだ」


 ​海鳴りの音だけが、やけに大きく聞こえた。心臓が冷たい石になったみたいに、ずしりと重くなる。分かっていたはずのことだった。彼はいつか、この町からいなくなる。フィルムに焼き付けた風景のように、過去の人になる。それでも、喉の奥が詰まって、声が出なかった。


​「親の都合なんだ。……ごめん、今まで言えなくて」


 ​謝るなよ、と思った。悠人が悪いわけじゃない。ただ、僕たちの夏に、あまりにもはっきりと終わりが宣告されたことが、どうしようもなく悲しかった。


 ​残された時間は、あとわずか。僕たちは「最後の思い出」を作ることにした。数日後にピークを迎える、ペルセウス座流星群。それを二人で一緒にフィルムに収める。僕たちの夏の、最後の儀式だった。


 ​流星群の夜、展望台の空気はひんやりと澄み渡っていた。僕たちは並んで寝転がり、黙って夜空を見上げていた。やがて、すうっ、と夜空を切り裂くように、最初の光の筋が走る。それを合図にしたかのように、次から次へと、星が流れた。


​「……綺麗だ」


 ​僕が呟くと、隣で身体を起こした悠人が、首に提げていたカメラを外し、僕の胸に押し付けた。ニコンF2。いつも彼が大切にしていた、重くて冷たい感触。


​「お前が撮れ」


「え……?」


「いいから。俺たちの夏、お前が終わらせろ」


 ​悠人はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。


 ​促されるまま、僕は震える手でカメラを構える。ファインダーを覗くと、無数の星が流れる夜空と、その下に立つ悠人のシルエットが見えた。これが最後の一枚。このシャッターを切れば、本当に、すべてが終わってしまう。


 ​一筋の、ひときわ大きな流れ星が、悠人の肩の上を滑っていく。


 ​僕は、祈るように、シャッターを切った。


 ​夏休みが明けた日、悠人の席は空っぽだった。まるで最初から誰もいなかったかのように、教室の時間は静かに流れていった。彼は誰にも別れを告げず、蝉時雨が止むのと同時に、この町から消えた。


 ​季節は秋に変わり、ひんやりとした風が吹くようになった頃、僕は一人、放課後の暗室にいた。託されたフィルムを現像するためだった。 


 ​赤い光の中、現像液に印画紙を浸す。焦りと期待が入り混じる中、じわり、と像が浮かび上がってきた。


 ​星が、降っていた。

 夜空を埋め尽くさんばかりの、無数の光の軌跡。

 そして、その下に立つ、一人の少年。


 ​ファインダー越しに僕が見ていた悠人は、こちらに背を向けていたはずだった。なのに、そこに写っていた彼は、振り向きざまに、少しだけ寂しそうに、でも確かに笑っていた。


 まるで、僕に別れを告げるみたいに。


 ​涙が、ぽたぽたと現像液の中に落ちた。像が滲んで、悠人の笑顔が揺れた。


 ​僕は、託されたカメラを手に、もう一度、あの丘の上の展望台に登った。ファインダー越しに見る僕の町は、悠人と出会う前と同じはずなのに、まるで違って見えた。ありふれた風景の中に、数えきれないほどの光と影が息づいている。儚いからこそ、焼き付けなければならない一瞬が、世界には満ちていた。


 ​カシャリ。


 ​僕はシャッターを切った。


 いなくなった君の視点で、僕はこの世界の光を撮り続けていく。


 それが、僕たちの夏の、永遠の続きだから。


 ​遠くで、海鳴りの音がした。

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