いざ、現場へ

 夜の出来事が嘘だったかのように、昼の街は騒がしかった。

 人の声、車の音、店内から外に漏れる音楽。

 見慣れた光景のはずなのに、どうしてか気は休まらない。

 化粧で隠した右手の模様のことを、忘れることができなかった。

 「変に意識しすぎるのは毒だよ」

 前を歩く青年――白浪カノンが気のない調子で言った。

 白いシャツに黒のカーディガン。大学生だと言われれば信じてしまいそうな装いだ。黒と白が反転したユズリハの服装とは、妙にちぐはぐだった。

「不安なのはわかるけど、今は気にしたってどうしようもないよ」

 肩に掛けられた細長い袋が、彼の動きに合わせて小さく揺れる。

 中に何が入っているか、なんとなく予想はついていた。

 <ナイト・ワーカーズ>に正式な依頼を出すまでに、ユズリハは思っていた以上の時間を取られた。

 規約、契約、注意事項に同意書、エトセトラ。

 正直、半分も理解できた自信はない。

 長々とした説明を終えてパンク寸前だったユズリハに、カノンは一つある提案をする。

 「昨日の場所さ。もう一回行ってみない?」

 新しい発見があるかもしれない、という彼の発案にあまり気乗りはしなかった。

 あんな目にあっているのだ。もう二度と行きたくないまであった。

 けれど他ならぬ専門家の提案なのだから、素直に従ったほうが賢明だ、ということで今に至る。

 頭が乾電池の形をしたあの怪物が殺された――いや、のは、繁華街のどこかにある路地裏だ。

 赴くと決まってから、ユズリハは自ら案内役を買って出た。

 繁華街のあたりはわりと足を運んでいたし、路地裏はあのとき初めて行きついた場所だったが、それでも一度は訪れた経験があるのだから、簡単に案内できるだろうと、そう高をくくっていた。

「ええと……あれ? こっちだと思ったんだけど……」

 歩道の隅でユズリハは小さく声を漏らした。

 スマホに文字を打ち込みながら、ユズリハはあることに気づく。

 そういえば、自分はあの路地裏の住所も番地も知らない。記憶だって、頼りになるほど残っていない。

「確かここを真っすぐ……。あんな看板あったかな……」

 だからこうしておぼろげな記憶を頼りに、液晶画面と風景とを見比べ続けているが、やはりピンとくるものはない。

「まあ、状況が状況だったからね。仕方ない仕方ない」

 後ろからカノンがかけた言葉に、ユズリハの眉がピクリと動いた。

 だってさっきから、彼はなにもしていない。

 建物を見比べているときも、必死になって地図を読み解いているときも、彼は後ろからついてくるだけだった。

 ――あなただって、地図を見るなりして調べるくらいしてくれたっていいと思いますけど。

 飛び出しそうになった言葉を飲み下すと、ユズリハは気持ちを切り替えるようにスマホの画面に集中する。

 励ましの言葉をかけたカノンは、そんな彼女の態度など素知らぬ顔をして、静かに人の往来に目を向けていた。

 何かを感じているかのように、はたまた、何かを探しているかのように、じっと目を凝らしながら、遠くでも近くでもない空間に視線を向け続けている。

 ……ふと面を上げると、彼は他所を向いている。

 次々と頭に浮かぶ不満の言葉を押し殺しながら、ユズリハは半ば諦め気味にスマホをポケットにしまった。

 「何か気になるものでも?」

 きわめて冷静な声色を心掛けたつもりだったが、妙に棘のある言い方になってしまった。

 「ん? ああ、ちょっとね。それよりどう? 場所、わかった?」

 「それが……ごめんなさい。案内しますって私の方から言ったのに」

 自然と彼から視線が逸れる。

 「そっかあ。でもこのあたりには違いないんだろう? 心当たりのある場所を一個ずつ潰していけば、そのうちたどり着くって」

 なんとも呑気な。そう思わざるを得なかった。

 カノンはやはりユズリハの内心などお構いなしで、言葉を続ける。

 「……そうだ、一緒に見てほしいものがあるんだけど、いいかな」

 思ってもいなかった問いかけに、ユズリハは一瞬、返答に詰まった。

 「はい、いいですけど……なんですか? 見てほしいものって」

 「まあまあ。見ればわかるから」

 ユズリハの反応を待たずに一言、さ、行こうか、と続けて、彼は再び人々の往来の中に身を投じた。

 まったく。気になったことを聞いても答えてくれない人なんだ、彼は。

 ユズリハの彼に対する印象は少しずつ、命の恩人からマイペースな人に変化しつつあった。


 繁華街の大通り。行き交う人々の中にいると、やはりカノンの白髪はひときわ目立っていた。

 道行く人の中には、彼の髪色がよほど珍しいのか、それとも悪目立ちしているのか、ちらちらと二度見、三度見するような人たちもいた。

 慣れっこなのか、それとも気にしていないのか。

 ともかくカノンは、人々の奇異な視線を気にするような素振りを全く見せなかった。まるで彼の周囲だけくりぬかれてるような、そんなイメージを抱いた。

 彼が何を見せようとしているのか、ユズリハには見当もつかない。

 不審に思いながらも、彼女は不思議と足早に彼の背中を追っていた。

 交差点を何度か曲がり、やがてマンションの立ち並ぶ静かな住宅地に入り込んだところで、カノンは唐突に足を止めた。

 「確かこのへんに……」

 首を小さく左右に振ると、ある地点に右手の人差し指を向けながら、彼は言った。

 「――見つけた」

 「……え?」

 なんでもないマンションの一角。

 様々な自転車が上下二段に停められている、どこにでもあるような駐輪場。

 ユズリハが目を凝らすと、空間がわずかに歪んで見えた。

 油が水に滲んだみたいな、輪郭の曖昧な影のようなものが、地面にへばりつくように蠢いている。

 「これって……怪異ってやつ、ですか?」

 「うん。これはよく見かける典型的な奴だね」

 それを眺めたまま、彼は淡々と続けた。

 「誰にも言えなかった愚痴とかさ。どうでもいいよなって吐き出されなかった不満とか」

 「それも、“願い”なんですか?」

 「少なくともツユリはそう言ってる。僕はあんまり興味ないねー。分ける基準なんて、作ってる奴ら次第だもん」

 そう言って彼は何をするでもなく、すぐに踵を返す。

 「え。ちょ……!」

 思わず飛び出た呼び声に、カノンはぴたりと足を止めた。

 「ほんとに、ほんとに見せるだけ? なにもしないんですか?」

 「なにもって……うん、そうだけど。逆に聞くけど、なにすると思ってたの?」

 「それは……目の前に怪異がいるんだし、てっきり……」

 「てっきり?」

 「……斬るんじゃないかって」

 言って、少しだけ後悔した。

 彼の雰囲気が、ほんの一瞬だけ変わった。

 さっきまでの柔らかさが掻き消えるような感じ。

 彼の表情に変化はない。それでもユズリハは、言葉を選び間違えたことに気がついた。

 「……斬る必要なさそうだから斬らない。それだけのことだよ」

 変わらない声色に混ざる、数滴の不快感。

 ユズリハはそれを敏感に感じ取ってしまう。誰もが見落としてしまう感情の機微にめざといのだ。それは今回も同じだった。

 そうなってしまうと、ユズリハにはもう何も言えない。

 何を言うべきか、正しい言葉が見つからないのだ。

 「さ、次に行こう」

 適切な言葉が見つからないうちに、彼は足早にその場から去っていく。

 ユズリハは口を閉ざしたままカノンの背中を追いかけた。

 徐々に距離が迫る彼の背を見ていられなくて、ユズリハは無意識に駐輪場に目のやり場を求める。

 それは、何も言わない。

 見送りもしないし、言葉も返さない。

 動くこともできないし、消えることすら許されない。

 そこにへばりついているだけの影。

 ただ存在しているだけの影の塊が、しかし目線を戻した一瞬だけ、吹いて消えるほど弱々しい炎のように、小さく揺らめいたような気がした。

 きっと、見間違いだろう。

 今の彼女には、そう思うことしかできなかった。


 再び大通りに戻った二人の間に流れていたのは、長い沈黙だった。

 前を歩くカノンはなぜかこちらを振り向かない。そんな彼に気を遣ってしまって、ユズリハもまた声をかけるタイミングを失っていた。

 だんまりを決め込んだまま歩いているうちに見覚えのある交差点に差し掛かると、そこから目的地である路地裏にたどり着くまでそう時間はかからなかった。

 「ふむ……」

 路地裏の真ん中あたりに立っている二人。すぐ真下を見下ろしながら、右隣のカノンが小さく声を漏らす。

 アスファルトに、どす黒い染みがべったりとへばりついていた。

 水か何かで濡れているわけではない。むしろその場に焼き付いているような跡に、不気味さを感じた。

 「昨日の怪物の体液だね、多分」

 そう言うとカノンは膝を折り、手のひらでゆっくりと色の変わったままのアスファルトを撫でる。

 「……あんなのにも、血が流れてるんですか?」

 ユズリハは立った姿勢のまま、少し気まずさを覚えつつ彼の後頭部めがけて問いを落とす。

 「んー、少し違うけど似たようなもんかな。人の形してるやつほど、組成も人のそれと似通ってるみたいで」

 感触を確かめるようにアスファルトの表面を撫で続けていたカノンは、やがておもむろに曲げていた膝を真っ直ぐ伸ばす。

 「んー、なんか面倒なことになってるっぽい」

 「面倒なこと、ですか?」

 砂利のついた手のひらをズボンで拭うカノンに、ユズリハが問いかける。

 「怪異は本来、見てわかるような痕跡を残さない。死んだら何もかも消えてなくなるような連中だからね」

 そう言われてユズリハは、昨晩の出来事を思い出す。

 彼女を執拗に襲った乾電池の怪物は、カノンにその身を斬られたあと、どろどろの液体と化して消滅した。肉体を構成していたケーブル上の四肢なんかも同じく液状化してアスファルトに染みついた。

 今まで怪異は消滅すると液体になって地面に染みつくのが普通だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

 「あの怪異は。どういう意図があったのかはまだわかんないけど」

 「……でも、あれは昨日カノンさんが……」

 「間違く殺したんだけどなー。ともかく、きみの両親を襲ったのはほぼ確定であの乾電池ヘッドだろうね。そっちは見てないけど、断言してもいいでしょう」

 「それじゃ、まだカノンさんが怪物を倒してくれれば……! それだけで、全部元に戻るんじゃ――!」

 「いや、無理だろうね」

 わずかな期待を含んだユズリハの言葉を、カノンがピシャリと遮った。

 「あれを見つけて殺したところで、解決には至らないだろう。もう一回、今朝のようなことが起きるだけだと思う」

 「で、でも……そうならない可能性だってあるんでしょう!? だったら……!」

 思わず声に力がこもる。

 脳裏によぎった光景が、彼女の気持ちを強くさせた。

「きみの言うこともわからなくはないよ。でも、もしその予想が外れてしまえば?」

 カノンの冷静な問いかけに、ユズリハは口を閉ざしたまま、顔を俯かせる。

 「今度は本当に、お父さんもお母さんも死んでしまうかもしれない。昨日までは登校してたはずの友達が、明日は来ないかもしれない。好きな人が、自分のせいで死んでしまうかもしれない……そんな、”かもしれない”がある以上、強硬手段に走ることはできないし、許されない」

 ――慮られている。

 そう感じて、何も言い返せない。

 「……っ」 

 それでも、肩を落とさずにはいられなかった。

 やっと見えた一筋の光が、すぐさま闇に呑まれたような感覚。

 気落ちするのも無理はないだろう。

 そんな彼女を見て、カノンは右の人差し指をピンと空へ向けながら口を開く。

 「まあまあ、そう気を落とさないで。確かに手っ取り早い方は難しそうだけど、策がないわけじゃないよ」

 「えっ……?」

 うなだれていたユズリハは顔をゆっくりと上げる。

 その顔は酷く歪んでいて、目尻にはじんわりと涙を浮かべていた。

 カノンに言われて頭によぎった、最悪の結果というもの。

 それを想像するだけで、罪悪感に押し潰されそうになった。

 自分にはとても人の命なんて背負えない。責任なんて、とれるわけがない。

 だからもう、解決なんてできやしない。なぜかそう思い込んでいた。

 しかし。

 「……本当に、あるんですか? そんな方法が……」

 「あるよ。面倒だけど一番確実で、根本から解決できる素晴らしい方法がね」

 彼はやけに自信ありげな口調でそう言うと、ユズリハの前に手を差し出す。

 「やることは決まったんだ。一旦戻って、策を練ろうじゃないか」

 彼の手は変わらず、救いの手のままだ。

 ユズリハは安堵の笑みを浮かべ、零れそうな涙を我慢しながら、そっと彼の手を掴み――。

 「――そこを動くな、”大罪人”」

 ようやく得た安心を踏みつけにするかのように、背後から突如、冷たい声が響いた。


 振り返ると、路地裏から大通りに出る道を遮るように、人影が見える。

 少なくとも五人。全員ネクタイにジャケット姿で、ここからでは性別までは見て取れない。

 ユズリハは彼らの装いに、なんとなくツユリのことを思い出した。

 ふとカノンの方に目をやると。彼は口をわずかに開けたまま、ひどく億劫そうな面持ちで、眉間にしわを寄せていた。

 見知った顔だろうか。

 (それにしては、やけにめんどくさそうな顔をしてるけど……)

 などと思いつつ、再び視線を声の先に戻す。

 スーツ姿の人たちはそこに真っすぐ立ったまま、黙ってこちらを眺めている。その視線は観察というより、むしろ監視という方が近いだろう。

 彼らとカノンとの間には、妙な緊張感が生まれつつあった。

 互いが互いを警戒しているのか、一挙手一投足を見逃さないように、目を光らせ続けていた。

 やがて、五人のうち真ん中に立つ人物が一歩前に出ると、しばらく流れていた静寂を終わらせるかのように口を開いた。

 「まさかこんなところでお前と顔を合わせるとはな……”大罪人”」

 少し低い、男の声。

 「お前のような存在が気軽に出歩いていいわけがないということを、まだ理解できていないらしいな」

 相手を馬鹿にするようなねちっこい言い回し。

 まだ会話すらしていないのにもかかわらず、ユズリハは直感する。

 ……あの男は、苦手だ。

 「どこ歩こうと自由でしょ」

 ずいぶんとやる気のなさそうな表情を浮かべていたカノンはいつもの顔つきに戻ると、やや棘のある物言いで男に言葉を返す。

 男はぴくりと肩を震わせ、理路整然とした足取りでこちらに近づき始めた。

 「ふん……我々が不在なら、だがな。善良なる市民の味方が危険人物を見逃すなどできるはずもなかろう?」

 「どうでもいいけど、そっちこそ僕がきみらの上層部直々に”無害認定”受けてるってことくらい、いい加減覚えてほしいもんだよ」

 「ああ、よぉく覚えているとも。上層部も墜ちたものだと今でも残念に思っている。気にするな……そんな認定は俺が必ず破棄させてみせるさ」

 「それいつも言ってるけど、いつになったら破棄させてみせてくれるわけ?」

 気がつけば男は二人の目の前まで距離を詰めていた。

 整えられた短い黒髪と、きりっとした眉。少し面長で、鼻筋は真っすぐ。背はカノンよりも大きいだろうか。

 何よりも印象的な他人を見下すような目つきに、ユズリハは自然と気を悪くする。

 大罪人? 無害認定? 上層部?

 意味の分からない単語が並べられ、気分はすっかり蚊帳の外である。

「……何をじろじろと。おまえには罪の自覚がないらしいな……”罪人”」

 と、思っていた矢先、急に男の矛先がユズリハに向いた。

「は、はあ? 罪人? 何のことですか……?」

 まったく身に覚えがない指摘に、ユズリハは思わず面食らった。

 罪の自覚どころか、そもそも何の罪も犯していないはずだ。

 ユズリハの反論に、男はまるで残念だと言わんばかりに深いため息をつくと、ひどく冷たい眼差しで彼女を見下ろした。

 「な、なんですか? 言いたいことがあるならはっきり言ったら……?」

 「……では、は何かな?」

 そう言われて、咄嗟に右手を隠すように背中に回す。

 完璧に隠したはずだった。

 カノンですら、見てもわからないと言わせたほど綺麗に隠れていた。

(なんでわかったの? 見えないようにしてるはずなのに、どうして?)

 男は何も言わない。ユズリハの言いたいことなど察しがついているのか、嘲るように鼻で笑うだけだ。

 「罪の証をその身に刻んでおきながら、自らは潔白だと……? 滑稽だな。滑稽極まりない」

 取り乱すユズリハを歯牙にもかけず、男の左腕が静かに上がる。

 地面に水平、肘は直角。指をまっすぐ空に伸ばしたその姿は、さながら軍隊の号令のようだ。

 「……その厚顔無恥な精神性こそが、お前が罪人たる証明なのだ」

 男の動きに従うかのように、未だ背後に控える四人の人影がわずかに動く。

 遠くからでも肌で感じる、刃の切っ先を向けられているような感覚。そんなものとは縁遠いユズリハであっても、この感覚には覚えがあった。

 ――これは、殺気だ。

 ほんのわずかな恐怖心。だが、たったそれだけで十分だった。

 ちゃんと息を吸うことができない。

 足は生まれたばかりの動物のようにがくがくと震えて、うまく立っていられない。

 指先にも力が入らず、思うように動かせない。

 バクバク、バクバク。心臓の音が、けたたましく脳内に響く。

 「――あ、ああ……う、あ……」

 ヒューヒューと耳障りな呼吸音とともに、言葉にすらなっていない嗚咽が漏れる。

 昨日のことも、それから今朝のことも、考えないようにしていた記憶を無理矢理刺激され、頭が真っ白になりながら、ユズリハは膝から崩れ落ちた。

 「罪人には、罰を」

 「……っ……!」

 男の左腕が、空間を裂くように振り下ろされる――だが、腕は水平になり切らないまま、その動きを止めた。

 「……うちの依頼人クライアントを困らせないでもらえるかな」

 号令の腕を、カノンの掌が受け止めていた。

 「……なんのつもりだ」

 無理矢理振り下ろさんとするも、掴まれた腕はピクリとも動かない。

 「それはこっちの台詞。勝手な真似するなよ」

 カノンは起伏のない声色でそう言うと、さらに強い力で男の腕を握る。

 「っ……」

 声こそ上げないものの、男の顔色がわずかに曇った。

 「くっ、手を離せ……!」

 「やだね。きみらがなんにもしないで帰ってくれるってんならそうしてやってもいいけど」

 「罪人は裁かれるべきだというのが、まだわからんかっ……!」

 今度は振り払おうと試みるも、やはりカノンの手は男の腕から離れない。

 「きみらこそ、相変わらず自分らのこと棚に上げて価値観を押し付けるのはやめなよ、くだらないからさ」

 「身を清めた我々に、原罪などとうに存在しないのだ……!!」

 未だに抵抗を続ける男の態度にうんざりしたカノンは、本当に握りつぶしてやろうかという勢いで、腕を掴んでいる手にさらに圧力を加えた。

 「ぐぁっ……!!」

 骨がきしむような痛みに、男の表情が苦痛に歪む。

 男がカノンの腕を振り払えない限り、この攻防戦に勝ち筋はない。

 やがて動きを止めたままにらみ合いを続けていると、男が掴まれていない方の右腕でカノンの肩をパン、パンと数回叩いた。

 それはギブアップのサイン。

 カノンが腕から力を抜くと、男のは素早く腕を自分の方に戻し、掴まれていた箇所に手を当てながら口を開いた。

 「……いいだろう。今日は上の指示に従ってやる」

 カノンからしてみれば、負け惜しみにしか聞こえない言葉。しかしそれを追求するのも面倒なので、適当に返事を返すだけに留める。

 殺害の指示撤回を受け、背後に控えていた人影たちも同様に殺気を収めると、一人、また一人とその場から散っていった。

 気配が消えていくのを見届けるなり、カノンはすぐにユズリハの目の前にしゃがみこんだ。 

 殺気が解かれたとはいえ、未だにユズリハは覚束ない意識のまま、カノンを呆然と眺めることしかできないでいた。

 「まあ無理もないか……できたばっかりのトラウマをいきなり掘り起こされたんだからね」

 安心させる術はないものかと、ためしに彼女の手を優しく握る。

 手はすっかり冷え切って、まるで今の彼女の心を現しているようだった。

 そのまま彼女の腕を自分の肩に回すようにして支えると、さながら怪我人の介護のようにゆっくりと立ち上がる。

 どうやら足には力が戻ったようで、まだ不安な部分はあるものの、自力で歩くこと自体は可能なようだ。

 「さ、帰ろう」

 そう声をかけて、決して慌てず落ち着いた足取りで大通りの方に向かう。

 ユズリハの体がついてこれているか、しきりに確認しながら、一歩、また一歩と足を進める。

 ちょうどスーツの男の隣に差し掛かったとき、彼はまっすぐ前を向いたまま、唐突に口を開いた。

 「そういえばさ。ずっと気になってたんだけど」

 「……なんだ。今なら特別に答えてやらんでもない」

 「駐輪場で発生した小さな怪異。あれに何かしたのか?」

 物言わぬ怪異。生まれて間もない、将来性の塊。

 その気配が消失していることに、カノンは気がついていた。

 「答える義理はないな」

 子供じみた反応に、思わず苦笑いが漏れる。ひとしきり笑った後で、再びカノンが口を開いた。

 「聞いてるのは僕の方なんだからさ、答えてよ。いいから」

 静かな問いかけには、怒りの色がこもっていた。

 「ふん……お前が考えているとおりだ。我々は職務を全うしたまで」

 不快感をあらわにしつつ、男が答える。

「そっ、かあ……いや、残念だね」

 平坦だが少しだけ沈んだ声色でそう言うと、彼は再び、大通りへと足を進める。

 スーツの男はその場に立ったまま、彼が横切っていくのを見送った。

 正確に言えば、見送ることしかできなかった。

 今、男がカノンに攻撃を仕掛けようものならば、無事では済まなかっただろう。

 痛み分けで済めば御の字。だが実際は、返り討ちにあうのが関の山だ。

 触れようとするものすべてを斬ってしまいそうな、鋭い刃物のごとき危うさが今の彼にはあった。

 遠くなるカノンの背中を、せめてもの抵抗だと刺すような視線を送りながら、男は誰もいなくなった路地裏で、一人呟く。

 「いずれ、思い知らせてやろう――お前の罪のなんたるかを」

 その言葉を残して、ついに路地裏から人の姿が消えた。

 怪物が刻んだどす黒い染みだけが、未だべっとりとへばりついていた。

 


 


  

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ホワイトスカーレット かなね @Kanane_s

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