実存は不在
しきまさせい/マニマニ
ジュンは見たこともない激しい目をしていた。
お前、そんな風に人を見ることがあるのか。わずかな違和感と、ざわざわとうなじが泡立つ感覚と共に覚えのある香りが鼻先を掠めた。
「おかえり、辰哉」
「ただいま」
ジュンは据わった目のまま微笑んでいる。
もぞもぞとコートやマフラーを外して手を洗い、ジャケットを椅子にかけると立っているのも嫌になった俺はぐったりとソファに沈み込んだ。隣にかけるジュンの肩にもたれるとそのままネクタイを緩める。
「シワになるよ」
「うん」
「着替えてからにしなよ」
「んー」
柔らかな長い髪に鼻を埋める。反応なし。絹の髪越しのあたたかい首筋にキスをする。子供騙しみたいな軽いやつだ。ジュンは本から目を離さない。くそ、誘ってんだから乗れよ。拗ねた気持ちでぐりぐりと頭を擦り付けると、やめろよとやや冷たい声が降ってくる。
「嫌だった?」
肩に顎を乗せて端正な顔を見上げる。少なからず酔った視界ではジュンの顔はきらめくフィルターがかかったようにすら見える。
「ワックスつくじゃんか」
半拍置いて出てきた返答はその間合い故に嘘だとわかる。こいつが不機嫌なフリをするには理由があると見た。
「今日はオイルだもん」
「いいから早く着替えろって」
「脱がして」
ぎらりと光る目がこちらを見た。
真っ黒に見える瞳は実は濃い茶色で、瞳孔と同じ色でくっきりと縁取られている。ここまでどうして見える?酔いが回ってるにせよ、さすがに視界の、なんというか解像度がおかしい。
本を放り出した手が頬を撫でる。乾燥した手のひらが冷たくて気持ちいい。目を閉じて体温が移るのを楽しんでいるとソファに引き倒された。俺の上に跨るジュンが首元に顔を埋める。毛先がくすぐったくて笑っている間にシャツのボタンに手をかけられた。
人が死んだ時に飲む酒なんて碌なもんじゃないんだ。
自分を産み落とした生き物が居なくなっただけで特に感動はない。ただ人の死をあれほど忌避するくせにいざ起きてみると飲みたいだけと言って差し支えない連中が馬鹿みたいに多い。この馬鹿みたいにというのは多いにかかっているわけで別に連中を馬鹿みたいと言っているわけではない。連中はまさしく馬鹿だから、みたいなんて表現を使う必要なんてない。
そうして大義名分を掲げたドンチャン騒ぎが終わるまであの家の形をした牢獄にいたわけだがどうにも気が狂いそうでとにかくジュンに会いたかった。あの死にまつわる何もかもをジュンに吹き飛ばしてほしかった。抱いてくれと言えば、あいつは優しいからきっと葬式の後にそんなことするのはあまり良くないと眉を顰めるかもしれない。それでも抱かれたかった。触れてほしかった。俺の心臓は問題なく動いていて、あの死に引きずられることなく生きていると。
母が死んだ。喪主をやるのは2回目だ。父が死んだ時はそれなりに苦労した。問い合わせ先が多く、正しい方法を導き出すのに時間がかかるのに、宗教的なイベントとして時間制限がある。そして傍らに嘆き悲しむ母がいた。あなたしかいないのよと囁く。曖昧に微笑んで終わり。しかし反応してやらねばならない。「今忙しいから」は通用しなかった。
家の形をした牢獄には数々の部屋があるのに俺の部屋はなく、デスクから本棚に至るまで共有部分にあった。衣服は夫婦の持ち物と一緒に衣裳部屋にあった。
俺は夫婦に間借りをしていた。どこぞから母の子宮に"授かって"仕事を得て家を出るまでの間、客人として過ごした。俺から見れば家族じゃなかった。遺伝子上、戸籍上の家族は医療と行政の管理のための記号でしかない。
手元には小さなチップと高い紙がそれぞれ二つずつ。開けば"同意書"と印字されていて、ブルーブラックのインクで署名がなされている。
「ずっと一緒にいられるの。それって幸せでしょ」
母の微笑みを思い出す。あの後俺はそのサービスを展開する企業にインターンとして勤め、一部を知り、高い金で口止めされている。
やるわけねえんだよな。
人を一人、自分の欲望のために潰して消して、そこに別人を書き込むなんて馬鹿な真似。やる奴がいるのは事実で、恐らく母は俺が先に死んだらやるつもりだっただろう。母は三人で暮らすのが好きだった。愛する男と、自分によく似た顔の客人と。遺伝子も戸籍もただの記号だ。そいつをそいつたらしめるのは記憶の集積。メモリと言われても否定はできない。
やるわけねえんだよ、でも俺はこの親指の爪ほどのチップを破壊できない。記憶の集積物を破壊してしまうのは、それは殺人にあたるのではないか?
ジュンと住む部屋に戻り、リビングに適当に放り出した布のトートには遺影が二つ、小さな写真立ての裏には俺のささやかとは言いたくない年収が飛ぶだろう値段のチップが入っている。彼らの一生分の記憶の集積はたかだか数百万円で、それを命というにはあまりに安い。安い。安い。
いいか、俺は家族の死を悼んでるんじゃない。家族の命の値段の軽さに立ち竦んでいるでもない。人をソフトやハードとして扱ってそれでもお前らは人間なのかよと思うわけだ。お前らは自分が何者か、わからなくならないのか?それとももうとっくの昔にわからなくなってるのか?
人が死んだ時に飲む酒なんて碌なもんじゃないんだ。
自分を産み落とした生き物がこの世からいなくなっただけでなんら感動はない。お前らが死んだと思ってるだけでメモリはここにあって、お前らが死んだと思ってるだけで全然別の人間の顔をしていても構わないから蘇生させるよう指示がなされている。ハードを焼却処理したところであいつらは死なないんだ。そんなことも知らないくせに。知ろうとも思わないくせに。
喉から迸る自分の声で目が覚める。
意識と共に苦痛混じりの快感も戻ってくる。恐怖をもってジュンの肩を掴む。俺より広く、骨の太い、乾いた肌に覆われた肉体。ジュンは見たこともない激しい目をしていた。
お前もそんな風に人を見ることがあるのか?視線を辿ると俺と目が合わない。なるほど俺を見ていない。そう気づくや否や、ざわざわとうなじが泡立つ感覚と共に覚えのある香りが鼻先を掠めた。
「おかえり、辰哉」
母の香水だ。よく知っている。どんなに好みの女もこの匂いがしたら近づけなかった。
反射的に掴んだ手に力が入る。押し返そうとするもすっかり快感に殴られた脳みそはうまく動いてくれない。喉が慄く。理由は分からない。
肩を掴んだ手を簡単に引き剥がして手首から順に腕の内側に噛み付かれる。撫 でろと手を引かれる。さらさらした髪が冷たくて気持ちいい。覆い被さる身体を追いかけるように髪をいじる。
「引っ張って」
ちらりとジュンの目線が遠くへ動く。追いかけるように首を回そうとすると大きな手のひらが後頭部を押さえる。
「引っ張って、俺の髪」
にたりと笑う。ジュンの目は据わったまま、俺を見ているのかいないのかはわからない。緩慢に毛先を掴み向こうへと引く。ジュンはまだ許してくれない。
「もっとだよ」
もう一度目が向こうへ行く。何を見ているのか分からない。もう一度追いかけなければいけない気がして無理に頭を回すとジュンの微笑みはかき消えた。ひ、と止まる喉が弱々しい。自分の体の隅々までは脳がもう伝令を出せない。ジュンが大づくりの口をひらいて首筋に近づく。噛まれるのは日常茶飯事だ。ただの愛撫の一環で、彼の密かな独占欲の表れでもある。しかし今はそれがどうにも恐ろしい。どうしようもなく噛まれたくない。長い髪が胸元や顔を撫でる。いつもならどうしようもなく興奮する瞬間が今は大きな生き物に頭からバリバリ食われてしまうような感覚だ。喉から自分でも聞いたことのない音が迸る。また香水の匂いが濃くなった。5番、ダメなんだこの匂いは。恐ろしい、逃げなくては、食われてしまう。恐慌状態のままがむしゃらに動く。動いたつもりだった。脳からの伝令は普段の数段遅く指へと届く。ガチガチと音を立てる歯を抑えて思い切り髪を引く。
ジュンが顎を上げて喉を晒している。白い喉仏が蠢いて含み笑いが聴こえた。
意味のない母音が呼吸と共に溢れ出る。指先が白くなるほど、腕が痛くなるほどに握りしめた手を解くとジュンの髪が指から滑り落ちる。絹の手触り。俺の野生動物。
大きな手が頭を撫でる。後ろ頭からうなじにかけて何度も。目の前には爪の痕が残る汗に濡れた肌がある。頬を寄せると頬骨が鎖骨にあたる。目を閉じて額を擦り付けるとぬかるんだ感覚がして、初めて自分がびっしょりと冷たい汗をかいているのを知った。
「髪を引っ張られたんだよね」
呆然としたままシャワーを浴びて、少し冷たいくらいに清潔なシーツに包まれている。ジュンは照れ臭そうに笑って言った。
「何に?」
「わかんない、女の人」
ザワリとうなじが粟立つが匂いはない。ジュンは体を丸めて俺の胸元に頭を寄せる。鼓動を確かめる。
「ふうん」
「幽霊かも」
「なんで?」
「葬式の後なのにヤったから」
「何が悪いんだよ」
「いや悪かないけどムカついたんじゃね」
もっと心を傾けろって。
ジュンはまた含み笑いをして、安心した子どもの顔に戻ると寝るよ、と呟いた。
記憶の集積体がその人自身ならそいつはなんだ。お前の髪を引いたのは?
データの消えた、真っ新な体に集積体を入れ込むのであれば別に性別すら関係ない。ただ本人の記憶に合うようにある程度寄せて選定する。性別の変更は負荷が大きすぎるために避けられる。
では幽霊と言われるものはどうなる?本当に存在するとしたら?もし万が一、俺以外の代理人が現れて両親を"起こした"として、彼らに新しい身体が与えられたとして、その幽霊は、では、一体、
「代わりにやってやろうか」
「え?」
胸元のジュンが顔を上げずに言う。
「今、辰哉が考えてること、代わりにやってやるよ」
言葉が出ない。うまくまとまらないまま黙り込むとジュンもぞもぞと顔を上げる。
「俺ね、別に何か壊すことは少しも怖くないんだ、実は」
真っ黒な目と目が合う。心から嬉しそうに、1番の好物を出された子どものように瞳を煌めかせて、有機的なまばたきをゆったりと繰り返す。何かにキマっているわけでもなく、脅しでもなく恐怖でも狂気でもない。ただ普通に、「コンビニに行くから何か買ってくるよ」と言う時のなんら変わらない態度だ。あの激しさは確かに怒りだったが、この煌めきからは何某かの好意であることしか伝わらない。
「すこぉしもこわくないわ」
だいぶ前に流行った歌を口ずさむとまた彼は笑った。
「いつでも言いなよ」
ね、と噛んで含む物言いに無理矢理うなづく。リビングで放り出した写真立てが音を立てた気がした。耳には何も届かないにも関わらず、ただ確信だけがある自分の頭が恐ろしくて、俺はじっと白み始めた窓を眺めていた。
実存は不在 しきまさせい/マニマニ @ymknow-mani
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