16

「ここは……」


 突如現れた空間に足を踏み入れキョロキョロと周囲を見回しながら、ファイがそう呟いた。


「◾️◾️◾️◾️◾️……、主らにもわかりやすい言葉を使うとすれば、裏側の世界といったところかのう」


 そう言ったオリアスの説明に、ファイが「裏側?」と小さく首を傾げる。


「妾たちには◾️◾️◾️◾️◾️という物として浸透している故、説明が難しいんじゃよ。要するにじゃ、現実の場所と同じ座標にありながら、現実とは地続きになっていない世界がもう一つあるんじゃよ。それがここじゃ」


 「へえ」とわかったのかわかっていないのかよくわからない声を上げたのはアンリ。その後ろで、白亜が不思議そうに木々に触れ、有羽がペタペタと地面の感触を確かめている。


「感触は特に変な感じはしないわね」

「そりゃのう、見え方が違うだけで座標は同じ場所なんじゃ」


 自身の手のひらに伝わる感触を確かめながら、有羽が「ねえ、オリアス」と続ける。


「その、◾️◾️……ああもう面倒ね、仮に迷宮ラビリンスと呼ばせてもらうわ。この迷宮ラビリンスは、座標がわかれば誰でも入れるものなのかしら?」

「ほう、良い着眼点じゃ。じゃが、その問いには“場合による”としか答えられん」

「場合に?」

「そうじゃ。この空間には二種類ある。一つは、偶然が重なって自然発生的に出現したもの。それらは空間として閉じられておらんことが多い故、自由に出入りが可能じゃ。神隠しやきさらぎ駅に代表されるような都市伝説なんかは、大抵の場合は一般人が知らずにそこへ迷い込んだケースじゃ」

「なるほど」


 オリアスの言葉に納得したような顔を浮かべるのは有羽と白亜。その傍ら、ファイは興味なさそうに周囲を眺め、アンリは眉間に皺を寄せ難しそうな顔をしている。置いてけぼりの二人を無視して、オリアスは続ける。


「そしてもうひとつが、誰かが故意に作り出したもの。この場合の出入りの自由度は、一重に製作者の意図次第じゃ。今回のケースはこちらじゃの。悪魔である杏花の父親が、家族が安全に暮らせる家としてここ……、嬢ちゃんの言うところの迷宮ラビリンスを作った」


 ファイは変わらず辺りを観察している。ファイには、ここが現実とは切り離された場所なのだということは感覚で理解できていた。しかし、それを自分が納得できている理由がわからない。モヤモヤと胸を渦巻く何かを探しながら、先に進んだ杏花の姿を眺めているうちに、ふと、ずっと感じていた違和感の正体を自覚した。


「違和感……。そうだ、違和感だ。ここは現世、間違いない。魔力密度や、ここを満たす空気がそれを示している。ここは魔界でも冥界でもない。それは確かなはずなのに、現世にあるはずのものがここには無いんだ」

「あるはずのもの?」


 言葉を返したのは有羽。そんな有羽の方を一瞥し小さく頷いて、ファイは続ける。


「ああ。ここには、僕たち以外の生物が居ない」


 その場所は、異様なほどに静かだった。鳥の声はおろか、虫の鳴き声や羽音ですら聞こえない。それが、第一の違和感。そして、その違和感をより明瞭なものへと変えたのが、杏花が歩を進める先。


「杏花」

「……何?」

「最後にここへ来たのはいつ頃だ?」


 ファイの問いに、杏花は一瞬考え込むように天を仰ぐ。


「いつ……、いつだろ……。ちっちゃい時だった、覚えてないくらい前」

「十年くらいか」

「そのくらいかも」


 二人の会話を聞いていた有羽が息を呑む。


「そっか、言われてみれば……」

「ああ、そうだ。長い間誰の手も入っていないにしては、この場所は綺麗すぎる」


 ファイが最後まで言い終わらないうちに、パン、パン、と拍手の音が大きく響く。


「ご明察」


 レガリアだった。


「ここは決められた手順を知っている者だけが入ることを許されている。あれを見ればわかるだろう」


 レガリアの指差す先には、新築同然の綺麗さを保ったままの小屋。


「家というのはね、管理する人間がいなければ急速に廃れて行くものなのさ。杏花がここを出てから少なくとも十年、それだけの月日が経っていながら、その外観は一切劣化していない。この空間が、虫や植物はおろか、菌類等の微生物ですら拒んでいる何よりの証拠だろう」


 ふうん、とアンリがわかっているのかわかっていないのか微妙な声をもらす。その視線の先では、杏花がまもなく小屋のドアノブを引こうとしているところだった。


「っと、僕らも無駄話はこのくらいにしようか」


 小屋の中に消えていく杏花を見ながらそう言ったレガリアの声に、ファイが黙ってコクリと頷き小屋の方に歩き出す。


「君たちも、あまり彼女から離れすぎないようにね。僕たちはもれなく、ここでは招かれざる客だから」

 

 脅しをかけるようなレガリアの物言いに、怖気付くような人間はこの場所には居ない。眉ひとつ動かさずに自身に続く彼らの先頭で、ファイが面倒そうに溜息を吐く。


「漸く終わりが見えてきたな。さっさと行って終わらせるぞ」


 早足で小屋へと向かうファイの姿を見ながら、有羽とアンリがほんの少し眉を下げて口角を上げる。他人に冷たそうに見えて、その実面倒見が良い。ファイの誤解されやすい厄介な性質が、ここでも遺憾なく発揮される。そして、彼がそういう人間だからこそついて行くのだと、有羽らはお互いに顔を見合わせて笑うと、黙ってファイの後に続く。

 静かで、それでいてどこか懐かしさを感じさせる温かい空間の中に、ぱきぱきと踏みしめられる草の音だけが響いていた。



   ×     ×     ×



 ドアノブを引く。ふわりと埃っぽい空気と共に、肺を満たすのは懐かしい香り。同時に、杏花の脳内で幼い頃の記憶が逡巡する。こういうのを“プルースト効果”というのだと、最近ネットの記事で読んだことを思い出す。


「……お父さん?」


 そう呟く杏花の声は、冷たく重い静寂の中に消えていく。わかってはいたが、返事はない。静けさが杏花の胸を抉る。玄関を上がる時、靴は脱がなかった。知っているはずなのに初めてくる場所のようで、歩みを進める足がずっしりとした重みを帯びる。

 歩を進めるたびにミシミシと鳴る床の軋む音の奥で、微かに何か別の音が聞こえた気がした。ヒューヒューと何か小さな隙間を空気が通りすぎるような、弱々しい小さな音。鼓膜を震わせるその小さな音と共に、杏花の胸の内にゆっくりとドス黒くモヤモヤとした嫌なものが広がってゆく。

 歩調が上がる。先に進めば、おそらくそこには探し求めた答えがあるのだろう。ずっと知りたかったはずなのだ。そのはずなのに、一歩足を進めるごと杏花の心臓がまるで「知りたくない」とでも叫ぶかのように大きく脈を打つ。知りたい自分と、これ以上進みたくない自分とで板挟みになりながら最奥の扉のノブに手をかける。

 瞬間、その手をひんやりとした冷たいものが包み込む。蝋人形のような、綺麗な白い手だった。


「急ぐ必要はない、ここには僕たち以外誰も来ない」


 中性的な声が心地よく鼓膜を震わせる。視線を向けると、真っ白なまつ毛に包まれた大きな赤い瞳が杏花の顔を覗き込んでいた。


「あ……」


 その瞳に、杏花の感覚が一気に現実に引き戻される。我に返ってようやく、自身の細い喉をヒューヒューと音を立てて通過する荒い息に気が付いた。

 軽く咳払いをして呼吸を整える。そうだ、今の私は一人じゃない。


「ありがとう、もう大丈夫」


 ファイの手を握り返して杏花はそう言った。その顔に、先ほどまでのような焦燥感はない。すうっと深い息を一度吸い込むと、杏花は覚悟を決めたようにドアノブを回した。

 扉の向こうは、8畳ほどの寝室だった。生活感の無い質素な部屋の中、窓から差し込む光に照らされたシングルベッドが一つ。ふかふかと柔らかそうな白い羽毛布団が、微かに響く呼吸音と共にゆっくりと上下している。

 ゆっくりとベッドに近づき、布団の中で眠る人物に視線を落とす。目を覚ます気配は無い。重力に引かれるように落ち込んだ頬や瞼の肉がその年月の長さを感じさせる。柔らかく目尻を落とした眉と、薄く弧を描く唇が柔和な雰囲気を感じさせる。


「遅くなってごめんね」


 輪郭を指でなぞる。記憶の中のままの、父の姿だった。


「君の父親で間違いないんだな」


 少し遅れて部屋に入ってきたファイが、杏花の背後から問いかける。杏花は背後を振り返ることはせずに「間違いないよ」と答える。まっすぐファイの耳に届くしっかりとした声。その声に、ファイが安堵したように少し息を吐く。


「うん、全部覚えてる。お父さんだ」

「そうか。……会えてよかったな」

「……うん」


 懐かしそうに目を細めて杏花は笑う。黙ってその様子を見つめていたオリアスが静かに部屋の中へと入っていく。と、杏花の隣、ベッドの真横に立ち止まって「良いかの?」と杏花に問いかける。


「お願い」


 杏花は緊張からか少し震える声でそう言った。その返事を待っていたように、オリアスがベッドの上の男性に手を触れる。


「うむ、おおかたさっきの予想の通りじゃの」

「……じゃあ」

「ここにこやつの精神は無い」

「そっか」


 そう言った杏花の声は、無理して明るく振る舞っているようにうわずっていた。


「……して、それをなんとかするためについてきたんじゃろう?」


 オリアスが浮かべるのは不敵な笑み。その視線の先にはレガリア。


「ああ。もちろん、君の協力も不可欠だけどね」

「わかっとるわい」

「君は事象を、僕は記憶を」


 そう言って顔を見合わせる二人を割るようにファイが入っていく。


「始めるぞ」


 静かで落ち着いた声と同時に、ファイが男の体に右手を伸ばす。


「一体何を……」


 不安げに呟く杏花の肩に、アンリが優しく手を添える。


「見てな、そろそろだから」

「……」


 ファイの全身を、青白い光がまるで毛細血管のように駆け巡る。その光は全身をくまなく回った後、男の体に触れているファイの右手に収束する。ファイの左右に居る二人が、何かに集中するようにその右手から溢れる光を眺めている。魔力は男の体を包み込むように増幅し、青白い魔力の光が部屋の中に充満する。


「……あ」


 寒々しく強烈な光でありながら、その光から感じられるのは優しい暖かさ。光に包まれた男の体が、とくりと小さく脈を打った気がした。


「見つけたぞい」

「こっちもだ」


 オリアスとレガリアがそれぞれそう言いながらファイの方に目線を送る。ファイは男の方を見つめたまま黙ってその声に頷くと、男の体に触れている自身の右手に力を込める。


「Blake」


 ファイの静かな声が聞こえると同時に、部屋の中に眩いほどの光が充満する。その強烈な光に、杏花が思わず目を細める。

 十秒にも満たない時間だった。弾けるような閃光は、段々と暖かな優しい光へと変わり、気が付くと室内は元の自然光の明るさに戻っていた。

 周囲を流れるのは沈黙。誰もが、固唾を飲んでファイと、ベッドの上で眠る男を見つめている。


「……駄目か?」


 ファイは肩を落として悔しげにそう呟く。そばに立っていたレガリアは、そんなファイの肩に手を添えながら笑顔を浮かべる。


「いいや、成功だよ」


 レガリアが言い終わると同時に、男の瞼がぴくり、と小さく動いた。


「……!」


 ゆっくりと、男の瞼が開く。吸い込まれるような、真紅の瞳だった。


「あれ、いつの間に眠ってしまっていたんだ…?君たちは?」


 ゆっくりと、男が体を起こす。不思議そうに周囲を見回して、最後にファイの顔を覗き込む。


「ああ、君は……、ファウストの子か」

「わかるのか?」

「容姿も、魔力も、彼にそっくりだ」


 男はそう言って、優しげな笑みをファイに向ける。


「自分の名前はわかるか?」

「バルバス……、いや。君が相手なら、橘……橘朔弥と名乗った方が良いかな?」


 男がそう名乗った瞬間、ファイの背後から杏花が朔弥に駆け寄った。


「お父さん……!」


 朔弥の体にしがみつくように、杏花が手を伸ばしてベッドのそばに座り込んだ。唖然としてその様子を見つめていた朔弥が、彼女の頭を撫でるように彼女の重たい前髪をめくる。


「まさか……杏花なのか……?驚いた。僕は一体何年眠っていたんだ」

「何年なんてもんじゃないよ、馬鹿!……おはよ、お父さん」

「ああ、おはよう」


 杏花は、まるで子供に戻ったかのように無邪気な笑顔を浮かべている。そんな杏花の頭をポンポンと叩きながら、朔弥もまた優しげな笑みを浮かべる。そこにあったのは、幸せを絵に描いたような親子の姿だった。

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