ファムファタルよりあいを込めて
@user_uaga4433
第1話
この世に堕ちてきた天使のようだった。
硝子越しでも決して曇ることのない美しさを放っている彼女は、魅入られてはならない危うい魅力も感じられる。清らかな人々を運ぶ天使の翼のような濡鴉色の艶やかな長髪。肌は雪原のように純白で、肌理の細やかさは磨き上げられた白磁器を連想させる。曲線を描くまろやかで女性的な身体はあまりにも官能的で、気づけば喉が音を立てていた。
横にいた後輩が尋問官に声をかける。
「この人、本当に聖職者なんですか?」
「ああ…魂、抜かれないようにな」
乾いた笑い声をあげる後輩を横目に見ながら尋問室特有の重たく、冷ややかな扉を開く。彼女の優し気な瞳がこちらに向けられ、同時にふっと口元に笑みを浮かべた。口の端から、聖職者には不釣り合いな八重歯がちらりと顔を覗かせる。まるで、深淵に潜む化け物のように。
尋問官は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
完璧で聡明さの滲んだその笑みはまるで神の代行者のような優しいものだった。けれど、背筋を撫でたのは冷かかな悪寒だった。
「お手間を取らせてしまい申し訳ありません」
彼女はそう言って笑みを張り付けたまま、ぺこりとお辞儀をした。自分が容疑者であることを知らないかのような余裕さえも感じとれる。
「いえいえ、ご協力感謝いたします。」
後輩が横から飴玉を差し出す。
「ど、どうぞ…」
「あら。ありがとうございます」
そう言いながら、白魚のような細いすらっとした指で一つの飴玉をつまむ。そして銀色の包みを丁寧に剥ぎ取り、赤い球体を口に含んだ。
「…この時期は教会の庭に薔薇が咲くとか」
「……そう…もう、そんなに経ったのですね」
「地下に籠っていると感覚が鈍りますよね」
さっきまで優し気な笑みを浮かべていた彼女の顔が少しだけ曇ったような気がした。じっと彼女を見つめる。曇っているのは瞳の奥だけ、口角はゆるりと笑みを浮かべたまま。長い睫を伏せ、それらしく装っているだけかもしれない。
「子供達も庭が好きだったとお聞きしました」
「はい、みんなで花を育てていました。」
「あなたが教えたのですか?」
「ええ。棘で怪我をする子もいましたけれど」
という言葉の後に続けて彼女は言った。
「恐れず向かっていく姿は神様の様でした。」
息がうまく吸えない程の凍てつく空気が尋問室に漂う。どこかから、耳鳴りのような耳をつんざくような鋭い音が聞こえてくる。
私は負けじと質問を続けた。
「子供達との生活は、しあわせでしたか?」
「えぇ、とても……とても幸せでした」
そして彼女はゆっくりと目を伏せる。
この飴玉は、少し甘すぎた。
最初よりも幾分か小さくなった飴玉を舌の上で転がしながら、ヴェロニカは目の前の尋問官の顔を見つめる。この人は多分怖がりながらも私のことを哀れんでもいる。きっと優しくて暖かい、そして、愚かな人なのだろう。彼には是非、うちの教会に訪れてほしいと思った。
そう思いながら、今はもう過去のものとなってしまった、未だに愛おくて堪らない日々を思い浮かべた。
最初に植えたのは朝顔だった。
眠気を訴える幼さの滲んだ声。やっと咲いた朝顔に感動する声。目を輝かせながら植物図鑑片手に解説する声。数々の声が飛び交う中、一人の女の子が私の服を掴んだ。
「先生、なんでこれとこれ色違うの?」
その子の目は朝顔の優しい青色とパステル風味の薄桃を瞳に宿すかのように、目の前にあるものを映している。
そして、一昨日の情景を思い出した。
ビビットな液が私の服の上で深紅の薔薇となって彩られていく。断末魔が、鎮魂歌のように空間に響いては散ってゆく。甘くて優しい時間。
もう記憶の中のものとなってしまったそれは、今思い出しても実に実に甘美なひと時であった。それが最期に紡いだ言葉を反芻する。
「犠牲の上に成り立つそれは祈りとは言わない」
ヴェロニカは言葉を選ぶ。子供達がユダに毒されないように。今まで通りの、世間一般の当たり前を当たり前と感じられる素晴らしい世界で生きれるように。
「これはね、祈りが神様に届いた証なのよ」
「あかし……?」
「そう。地獄で罪人が働き、救われた証」
「そうなんだ…先生、ありがとー!」
彼女はそう言った後、足元に生えていたオジギソウを二本引き抜いて、友達の方に駆けて行った。やがてお目当ての人物を見つけた彼女は、オジギソウを一本渡して遊び始める。
実に微笑ましい光景だ。
「…あなたも朝顔になってよかったでしょ?」
子供達から目を離し、朝顔に祈りを捧げる。
慈愛に満ちたその後ろ姿は、まるで司祭が儀式を執り行うような厳かさと聖職者特有の神々しい雰囲気が共存していた。穏やかな風が彼女の頭を撫でる。教会のステンドガラスの奥からこちらを見つめる人影だけが、怪しげに目を光らせていた。
まるで、祈りの行く末を見据えるかのように。
黙り込んでしまった彼女が途端に口を開いた。
「今思えば、足りなかったのかもしれません」
「足りない、とは…?」
少し間をおいてから彼女は告げる。
初めて笑みが消えた瞬間だった。
「教育です。」
「……さようでございますか」
彼女はしばし沈黙したあと、ふっと瞼を伏せた。その表情には、悔恨にも似た柔らかな陰が身を潜めているような気がした。
「正義は千差万別。けれど、それは正せる。」
穏やかに彼女は続ける。
「教える者がいれば、救えるのです。」
「つまり…自分はそれを神から授かったと?」
尋問官の言葉を聞き、もう一度ヴェロニカは笑った。その笑みはあまりにも静かで、澄んだ湖面のような笑みだった。
「そう思うなら、きっとそうなのでしょう。」
尋問官は軽く息を飲み込んだ。
「なるほど。実に…温かな考えですね」
「ふふ、そうでしょう?」
「はい。とても。」
記録係のペンが止まる。無垢で麗しい魅惑的な彼女は、きっと神に心酔しているのだ。
それも、狂気的なまでに。
「ちなみになんですけど……自分の罪状は覚えてますか?」
「もちろん。故意殺人罪、児童虐待罪…」
「あと不法拘禁罪に死体遺棄罪ですね」
「はい、それです。」
長い溜息を吐いてから、尋問官は続ける。
「…これでも、不足しているのですか?」
「えぇ、トリガーは必要不可欠ですから。」
緊張で口の中が乾く。喉が痛い。でも、彼女と喋っていたい気持ちが軽々と上回っていく。
「私にその価値、教えてくれやしませんか?」
尋問官は真剣な眼差しで問う。
ヴェロニカはひとつ、息を吸った。
「では…花になった子供も話をしましょうか」
そう言った彼女は、どこか懐かしむような目をしていた。けれど、語られた記憶の中で、その目はやがて鈍く光り、おぞましいほどの静寂を宿していくこととなる。
その日は、朝から雨が降っていた。
「先生、わたし…未来が見えるの!」
喜々とした声色でそう告げた少女は、裾が泥で汚れた藍色のワンピースを身にまとい、無垢な笑顔を浮かべ、微笑んでいた。
「あら、それはすごいですね」
「うん! これがあればみんな救えるね!」
ヴェロニカは可憐な笑顔を浮かべながら、彼女のまだ幼い小さな手をとる。
「では…今から審判ごっこでもしましょう」
着いたのは、地下の一室。
冷たく乾いた空気に満たされたそこには、既に他の子供が一人、床に膝をついている状態で拘束されていた。両手は後ろ手に縛られ、目隠しをされたまま、身じろぎ一つせずに震えている。灯りは一つきり。上から吊るされた裸電球が、狭く閉じられた部屋の中心で壊れかけの太陽かのようにチカチカと点滅を繰り返している。少女の肩を優しく押すヴェロニカ。
「キャルメ、法廷へようこそ」
キャルメは一瞬戸惑ったような顔を浮かべた。が、その後誇らしげに胸を張ると、ヴェロニカに指定された位置に立つ。
「彼は、悪いことをしたのですか?」
少女は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐにコクリとうなずいた。
「あのね、この子、おはな折ったんだよ!」
「なるほど。それは重大ですね」
ヴェロニカはおどけた調子で言い、傍に置かれた木の箱から一枚の布を取り出す。血のように赤いそれは儀式用のケープだった。
少女の首に巻きつけて、後ろでリボンを結ぶ。
「それでは裁きの時です。さあ、判決を」
少女は戸惑いながらも、まるで劇遊びのような感覚で言った。
「……有罪、です」
ヴェロニカの瞳が細くなる。
「素晴らしい判断です」
その言葉と同時に、隅に控えていた青年が前に出て、目隠しをされた子どもの首筋に、金属製の器具を押し当てた。ガチャン、と音がした。鉄の枷が締まり、背中に電流が流れる。子どもは悲鳴をあげる間もなく床に崩れる。
「…これ、ほんとに遊びなの?」
少女がようやく違和感に気づく頃には、部屋の空気は完全に変わっていた。血の匂いが、濡れた床に混ざってゆっくりと立ち上る。ヴェロニカは少女の肩を優しく抱いた。
「神様は時に残酷な試練を与えるものなのよ」
少女は嗚咽を漏らし、震えていた。
それでも、ヴェロニカの掌はあたたかかった。
「その後彼女はこう言ったのです」
一呼吸置いた後、彼女は一言告げた。
「私に裁く権利なんてない。私を捌いてくれ」
横にいた新人に目をやる。
彼は部屋の隅で、記録を更新しながら静かに目を見開いていた。きっと彼女の話と罪状を見比べて、あまりの違いに気分が悪くなってしまったのだろう。口に手を当てて耐えようとする彼に気づいた彼女が、ゆっくりと立ち上がり、後輩に歩み寄る。
清潔な石鹼と花の香りが鼻腔をくすぐる。
「大丈夫よ。ほら…ゆっくり深呼吸。」
彼の背中をさすりながら優しく語りかけるその姿は、さながら聖女のようであり、同時に母が子を気遣うような柔らかさを帯びていた。
後輩が怯えながらも深呼吸を繰り返す。
「どうか怖がらないで。私の顔を見て」
言いながら、彼の顔を手で優しく持ち上げる。
彼女の瞳に後輩が映った。蜂蜜色の目が、後輩の杜若色の瞳とかちあい、混ざり合う。
やがて境もなくなり、一つになって、とろけていく。あんなに怖がっていたのに。
「救済には形があるのです…貴方は、救える」
室内の空気が凍った。
それでも彼女は声色を変えず喋り続ける。
「ほら、甘いものでも…ね?」
いつの間にはキャラメルを握らされていた。
後輩はなにも言わずに受け取り、銀紙からキャラメルを取り出す。キューブ型のキャラメルの中に小さな硬い何かが入っていた。
「ん…?」
「あー、それは嚙み砕くといいぞ」
この言葉にヴェロニカが強い反応を見せる。
「いいえ。そのまま食してください。」
「……??」
首を傾げながらも、後輩は尋問官の指示に従う。周りのキャラメルを食し、残ったなにかをティッシュで包む。尋問官がティッシュに包まれたそれを指差しながら話しかける。
「なぁ後輩、それ見てもいいか?」
「えー、先輩のえっち」
「うるせ…」
ティッシュの中から転がり落ちたのは、小さな十字架型のなにかだった。
「これ、鑑識にまわすか」
尋問官がポケットから小さなビニール袋を取り出し、そっと十字架を包もうとした瞬間だった。後輩の顔が急速に青ざめていく。
「あ……う、ん…?」
後輩の脚に、東の国から伝わったとされる鋭い刃物のようなものが刺さっていた。
尋問官が反射的に銃を抜く。
室内の冷気に混じり、後輩の脚から染み出した血がゆっくりと床に垂れる。
ヴェロニカは血に濡れた指先をそっと後輩の膝裏に這わせ、刺さった刃の痛みを軽く和らげる仕草を見せた。
「痛いですか?」
囁く声は甘く、だがそこに含まれるのは慈愛とは程遠い執拗な命令に限りなく近い、聖なるものの皮を被った獣のようだった。
「いたく、ない…です」
後輩はかすれた声でそう言った。だが、身体は微かに震え、呼吸は浅く乱れている。ヴェロニカは傷口を塞ぐように手を滑らせ、やがてそのまま膝上へと触れを上げていく。肌は冷たく、薄く汗ばんでいた。脈打つ血管の鼓動が透けるように見える。ヴェロニカは、まるで眠る子供をあやすように彼の髪を撫でる。
後輩の瞳がとろりと濡れる。やがてそれは頬を伝い、雫となって零れ落ちた。
「苦労無くして人は変わらないのですから…」
彼女の手が胸元に達し、薄く震える胸を包み込む。
「痛みも恐怖も苦痛も…ただの儀式なのです」
”がんばって”と言わんばかりに再度後輩の頭を撫でるヴェロニカ。後輩と尋問官の目が恐怖で引きつる。逃げようとする力もなく、彼の心は静かに解けていく。それを見透かしたかのように、ヴェロニカの指が鋭く爪先を立てて肉を掴む。体温と血の匂いが混ざり合い、薄暗い部屋に支配の匂いが充満した。
こんな空気の中、尋問官の胸ポケットに収納されているトランシーバーが鳴り響いた。
彼女が後輩の傷口をそっと拭う。ぬるりとした赤が、白い布に広がっていく。それを慈しむように眺めていたヴェロニカが、ふと尋問官の方を見た。
「……出てもよろしいのよ?」
その声には皮肉も挑発もなく、ただ配慮するような優しさがあった。尋問官は無言のまま、ジャケットの内ポケットから携帯を取り出す。
画面には、捜査本部の番号が浮かんでいた。
「…こちら、特別聴取班0865です。」
数秒の間に、尋問官の表情が変わる。
目元に走るわずかな動揺。眉間に刻まれる皺。
それが何を意味するか、ヴェロニカはもう分かっていたのだろう。にこりと微笑んだ。
「ああ、ああ…ようやく、ですね」
尋問官は受話器越しに聞き返し、短く頷いた。
「……庭を掘った、ようやく見つけたよ」
「それはそれは…」
「ご遺体は13体。DNA照合も完了している」
「……素敵」
その言葉に、後輩が小さく呻いた。
まだ傷の痛みが引いていないのだろう。でも、誰も彼を気遣う余裕などなかった。
尋問官は静かに立ち上がり、ジャケットの内ポケットから手錠を取り出す。
カチリ、という独特の金属音が部屋にこだまする。
それは確かに、決着の音だった。
「あなたを正式に逮捕します」
「………ねぇ、」
「…はい。」
「最高のフィナーレを、どうもありがとう。」
ヴェロニカは、まるで婚礼の日の花嫁のような微笑みを浮かべながら、両手を差し出した。
錠の冷たさに身じろぎもせず、むしろ安堵したように息を吐く。
尋問官は目を伏せ、手錠をかける。一瞬、その指先が彼女の肌に触れた。
体温が、異様に高い。
それなのに、寒気が背筋を走った。ドアの向こうに、本部の人間たちが待機している。彼女はもう、彼の手を離れ、捜査本部の管轄に引き渡される。
──それが、別れの合図だった。
「最後に、いいか」
「はい?」
「……君は、神の道具なのか?」
少しの沈黙。
やがて、彼女は小さく笑って言った。
「いいえ。私の意志ですわ」
言葉とともにドアが開く音。
数名の職員たちが彼女を囲い、静かに連れて行く。その背中はまっすぐで、堂々としていて、どこか誇らしげですらあった。
彼女の足音が遠ざかっていく。
その一歩一歩が、尋問官の胸の奥で音を立てるようだった。残された尋問官は、後輩の傍にしゃがみこんだ。
息が乱れている。汗をかき、震えていた。
「…大丈夫か」
「はい。すみません」
その声はどこか遠く、熱の抜けた子どものようだった。
風の噂で耳にしたのだが、ヴェロニカは牢獄の中で死体となって発見されたらしい。
死因は薬物の過剰摂取。
そういえば、捕まった後も彼女は飴玉を食していたと聴く。きっとそれが災いしたのだろう。
それと、司法解剖した際に、溶けかけた薬剤と紙切れが出てきたという噂も耳にした記憶がある。文字は滲んで判別不可能だったが、解剖した者たちはそれを『遺書』と定義したらしい。
薬物による自殺。
実に彼女らしい最期だと思う。
まぁ、私は記録を読める立場ではなくなった。真実は、未だ闇の中である。
あの時彼女に脚を刺された後輩は、ヴェロニカとの経験を糧に、今や尋問官の中でも一目置かれる存在となった……らしい。
一方で、私は無事定年まで勤めあげ潔く退職。
今は若い頃の稼ぎでなんとか呼吸をしている。
私は今でも考えることがある。
あの時、彼女が自分の正義を見直していたら?
あの時、私が彼女の心臓を撃ち抜いていたら?
そんなたらればが脳内で溢れて零れていくのを感じながらも、私は今日も寝台に寝転ぶ。
だが、この感情もきっと彼女の前ではたかが救済対象となってしまうのだろう。『正義を見直すことが出来たら』なんてものはこちらが正しい前提の話である。
結局私も彼女も、なにも変わらない。
何が正しくて、何が間違っているのか。こんな事は、きっと世界中の誰に聞いたって正解は出ないだろう。実に馬鹿馬鹿しい。
一つ確かなことは、彼女の愛は一般的な愛とは決して相容れないものであった。
ただ、それだけである。
その日もまた、教会の庭に水音が響いていた。
植えられた花々はどれも美しく、色とりどりの花弁が背伸びをし、嬉しそうに揺れている。微笑みながらじょうろを傾けるシスターの姿は、まるで慈母のように穏やかだった。
だが彼女の足元、濡れた土の上には、
──小さな血の滲んだ爪が、一枚落ちていた。
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