秘密はいつもティーカップの向こう側
天月りん
カレーライスの邂逅
六月の空は気まぐれだ。
ついさっきまで陽が射していたのに、気づけば黒い雲が空一面に広がり、やがて雷鳴が轟くと、容赦のない雨が落ちてきた。
あっという間に、地面が水に覆われる。
窓越しに見える雨粒は、一つ一つが糸に通したビーズのように連なり、地面を叩くたびに小さな水煙を上げた。
昼休みのチャイムが鳴っても、こんな天気では外へ出る学生は少ない。
ほとんどが手近に済ませようと、学食へ向かっていく。
かくいう俺もその一人だ。
藤宮湊、食品栄養学科の二年生。
気分次第で学外の定食屋に足を運ぶこともあるけれど、今日のような土砂降りでは、そんな気力の一つも起きない。
俺が通う大学は、横浜の小高い丘の上にある。最寄駅からは徒歩で十分ほど。
晴れた日には、坂の途中から港の風景も望める。だが――今日は分厚い雲に覆われて、視界は狭く沈んでいた。
複数の学部を抱えるキャンパスは広大だが、理系と文系の敷地は一本の大通りで切り分けられていて、行き来には歩道橋を渡る必要がある。
図書館や管理棟といった主要施設は、全て文系キャンパスの方に集まっている。
理系に所属する俺にとっては、少々不便な位置関係だ。
数多の学生の腹を満たすための食堂は両方にあるものの、その規模と雰囲気は大きく異なっている。
理系の食堂は、研究棟の上階にひっそりと構えられていて、席数も少なく、メニューも限られている。
しかも利用者のメインは院生や上級生で、下級生が入り込むには気後れする雰囲気があった。
そのため、俺を含む多くの理系の下級生にとって『学食』といえば、文系キャンパスにある大食堂を指すのが常だ。
広々として明るく、メニューも豊富。
誰でも気軽に利用できる雰囲気があり、自然と学生が集まってくる。
(でもなぁ……本当はこんな雨の日くらい、近いほうで済ませたいよ……)
傘を握り直しながら、空を見上げる。
灰色に沈んだ雲が垂れ込め、心まで土砂降りになりそうだ。
(――ダメだ。天気ごときで弱気になってどうする、俺!)
気持ちを切り替えようと、今日の昼飯に意識を集中する。
栄養バランスの良い定食にするか、それともボリューム満点の丼物にするか。
――いや、やっぱり今日はカレーにしよう。
食欲に任せて熱いルーを頬張れば、じめじめとした気分も少しは晴れるかもしれない。
歩道橋の端にできた水たまりをつま先で避けつつ、俺は足取りを速めた。
***
食堂に着いた瞬間、絶望的な気分になった。
予想はしていたけれど――やっぱり大混雑だ。
昼時はいつだって人で溢れているのに、それに加えて今日の天気。
さざめく人の波は濃く、ざっと見ただけで普段の三割増しでひしめき合っている。
雨の匂いはホールにも満ちていた。
濡れた傘から落ちた雫が床を光らせ、滑りそうになった学生が小さな悲鳴を上げる。
湿った空気がホール全体にこもり、食器がぶつかる音とざわめきが混ざり合って、耳にまとわりついた。
俺はカレーライスを乗せたトレーを抱えて、人の流れに押されるように通路を進んだ。
(まじか……どこもいっぱいじゃん……)
窓際も壁際も、すでに人で埋まっている。
空いていると思って近付けば、濡れたバッグや折りたたみ傘が投げ出され、きっちり場所取りがされていた。
視線を遣れば、女子グループに混ざって座る男子が、唐揚げをかじりながら目を泳がせている。
居心地の悪さを思えば身震いもするが、それでも席があるだけ、今はましというものだ。
揚げ物の匂いとカレーのスパイスの刺激が、鼻孔をくすぐる。
その度に俺の腹はぐぅと鳴り、胃袋が「早く座れ!」と催促する。
(やばい……冷めちゃう……!)
トレーの上のカレーライスは、もう湯気が細くなってきている。
焦って通路を曲がった、そのとき――。
「……あ」
一席――奇跡のような空きを発見した。
けれど、どうして空いているのかも、すぐにわかってしまった。
二人掛けのテーブル。
その向かいには、一人の青年――あきらかに日本人ではない――が腰かけていた。
柔らかな栗色の髪。
透き通るように白い肌。
すらりと伸びた鼻筋に、整った顔立ち。
まるで異国のポスターから抜け出してきたような美丈夫だ。
瞳は長いまつ毛に縁取られ、皿のカレーをじっと睨みつけている。
小刻みに揺れるスプーンが、彼の苛立ちを物語っていた。
(うわ……すっごい美形だけど、めちゃくちゃ近寄りがたい……!)
周囲の学生も青年の存在に気付いているようだが、遠巻きに眺めるばかり。
その一角だけが、食堂という海に浮かぶ孤島のように、しんと静まり返っていた。
(……やめとこう。他を探そう……)
怯んで視線を逸らすが、やはり空席はそこしかない。
ぐるりと見回しても、背中を丸めて食事をかき込む学生ばかりで、どこもぎゅうぎゅう詰めだ。
(……仕方ない……)
腹を括り、引きつった笑みを浮かべながら、俺は男に声をかけた。
「えっと……エクスキューズ、ミー……イズ、ディス、シート……えっと、シート、フリー?」
出てきたのは、我ながら酷い英語。
口にした瞬間に恥ずかしくなって、冷や汗が首筋をつぅと伝わった。
すると青年はちらりとこちらに視線を寄こし、低く短く言った。
「日本語で結構」
「ひっ……!す、すみません!……あの。ここ、空いてますか?」
慌てて日本語に切り替えると、青年は皿から目を離さぬまま、短く答えた。
「お好きに」
つっけんどんな答えは、許可なのか拒否なのか判然としない。けれどもう、逃げ場もない。
「し、失礼しまーす……」
俺はトレーをそっと置き、青年の正面に腰を下ろした。
***
向かいの青年は、俺など存在しないかのように、相変わらずカレーを睨み続けている。
その姿はまるで、冷ややかな異国の彫像のようだ。
(……雰囲気わるっ……)
視線を向けるのも憚られ、俺は黙って食事を始めることにした。
手を合わせて「いただきます」と呟き、テーブルの皿を見る。
それだけのことで、思わずにやけてしまう。
なぜなら――カレーはカレーでも、今日はちょっと奮発して、コロッケのトッピング付きなのだ。
雨の中を歩いてここまで来たのだ、これくらいのご褒美は許されるだろう。
カレーライスの上にドン!と鎮座する、揚げたてのコロッケ。
衣はさくさくで、スプーンで割れば湯気とともに、ほくほくの芋が顔をのぞかせる。
白飯とルーを軽く混ぜ、コロッケを乗せて――ひと口で頬張った。
(……うまっ!カレーにコロッケって、どうしてこんなに合うんだろ)
やっと満たされていく腹の虫。
待たせて済まなかった!とばかりに目の前の食事に夢中になっていると、不意に声が届いた。
「……い、おい、君」
(……気のせいかな?)
その声は、正面の席から聞こえる気がする。
「聞いているのか?それとも――耳が聞こえないのか?」
「ぶふっ!?」
予想外の展開に、口の中のコロッケを噴き出しそうになる。
慌てて水で流し込み、咳き込みながら正面の男を見た。
「お……俺ですか!?」
「そうだ、君だ。君は――このカレーライスをどう思う?」
どう?どうとは何が?――カレーが?
問われた内容の真意がわからない。
「えっと……どうもなにも……ただのカレー、じゃないですか?」
正直に思ったままを答えると、青年の表情がわずかに揺れた。
(だって、カレーだよな?特別でもなんでもない、どこにでもあるただのカレー……)
しかし次の瞬間、青年の瞳――緑のようであり、金のようでもある、不思議な光を湛えた虹彩が、ぎらりと鋭く光を放った。
「ただの?……カレーライスを、ただの、と言ったのか」
低く響く声はまるで地の底から這い上がってくるようで、俺の背筋はぞくりと粟立った。
テーブルを挟んだわずかな距離に、張りつめた空気が漂い始める。
「……ふっ。なるほど、ただの、か――」
青年の唇が弧を描く。その笑みには、嘲りも怒気も含まれていない。
ただ、何か重大な真理に触れた者だけが持つ、確固たる自信のようなものが滲んでいた。
「君は何も知らないのだな。――いや、身近過ぎるがゆえに、見えなくなっているのか。だがその無知は、アイデンティティの喪失と言っても過言ではない」
「む、無知!?」
真正面から突きつけられたナイフのような言葉に、思わず声が裏返る。
ただ食堂で昼飯を食べていただけなのに、いきなりの「無知」呼ばわりときた。
(なんだ、この人……!)
胸の奥で怒りの感情が膨らむ。
俺たち学生にとってカレーといえば、安くて手軽なお馴染みのメニューだ。
店によって味わいは異なるが、どこで食べてもそれなりに美味い。
凝りだすとどこまでも手をかけられる料理ではあるが、それでも所詮は大衆食。
目の前の青年に大げさに語られるほどのものじゃない。
そう言ってやろうとした。けれど――なぜか反論の言葉は喉に引っ掛かり、思ったように出てこない。
(悔しい……けど……)
目の前の青年が、ただの大げさな人間では片付けられない気配をまとっていることに、俺は気付き始めていた。
そんな俺の逡巡に構うことなく、青年は語り続けた。
「カレーライスの背景には、世界の海を越えていこうとする人類の挑戦があり、船乗りたちを苦しめた病との戦いがあり、そして――食文化を根底から変えた工夫があるのだ。……君にはそれが見えないか?」
言葉と同時に、青年の視線が宙を彷徨う。
その瞳は目の前のトレーといった小さなものではなく、もっと遠い世界を映している。
そう感じた瞬間――脳裏に、鮮やかな景色が立ち上がった。
異国の市場に広がる、香辛料の刺激。
見知らぬ港町の夕暮れ、屋台から漂う煮込み料理の匂い。
香辛料を混ぜ合わせる手、立ち昇る湯気、ざわめく人々の声――。
断片的な幻を見せられているようで、思わず息を呑む。
「そんな料理を――ただの、と呼ぶことは許されない」
最初は胡散臭いと思った。けれど今は違う。
彼の熱量を受けて、俺の内側には小さな火が灯った。
青年の口調はあくまでも静かで――けれど力強い。
まるで教壇に立つ教授のように、あるいは舞台に立つ役者のように。
(この人の言葉を、全部受け止めなきゃ……)
スプーンを持つ手は、いつしか止まっていた。
***
こちらの続きは、アルファポリスにて連載中です。
ティールーム<ローズメリー>にて、あなたのお越しをお待ちしております☕️
https://www.alphapolis.co.jp/novel/400679482/624998094
秘密はいつもティーカップの向こう側 天月りん @RIN_amatsuki
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