第2話 怒ることをやめてほしいのではなく、嫌われたくないのだ

 この世界の家は随分と小さい。

 建物自体は大きいが、その中が何十にも区切られており、小さなひと区切りが一家庭分の居住空間であるそうだ。

 一縷いちるの家族の居住空間のうち、更に一縷の部屋として割り当てられているスペースは、レイチェルの部屋のトイレほどの面積しかない。前の世界では庶民でもこの二倍は広い家に住んでいたはずだ。

 しかしその分、こちらの世界は生活に必要なスペースが小さい。スマホと呼ばれる小さな板に本の何千冊分もの情報が入っているし、魔法調合用の壺も必要ない。

 そんな世界の限られた本たちが、一縷の眼前の小さな本棚にそこそこの乱雑さで収まっていた。

 左上から順に背表紙を眺めていく。教科書と、自分で買ったらしい勉強関係の書籍がほとんどで、小説もあるが四冊のみ。スマホで本を読んでいたという形跡もない。

 退院してから一縷の部屋をいろいろ漁ってみたものの、ほとんど勉強に関連したものしか出てこなかった。令堂 一縷という人間は随分勤勉であったらしい。レイチェルも紅茶の銘柄をいくつか試したりしていたがそこまでの熱量ではなかったので、大した趣味がないという点は彼と共通していたかもしれない。

 そのとき、廊下のほうから足音が聞こえた。扉を開けて見ると、一人の女性が靴を履き、今にも出かけようとしている。

 「あ、お母様、いやお母さん、あの──」

 女性は一縷を見ずに話を遮った。

「ああごめん、すぐに出なくちゃいけないから」

「さっき帰ってきたのに?」

「荷物取りにきただけ。いつものことでしょ……ってああ、記憶喪失なんだっけ。 なに、体調悪いの?」

「いえ、元気です」

「じゃあいいじゃない。今週のお金リビングに置いてあるから」

 一縷の母親だという女性は、目を合わせることなく家を出て行った。

 制服のセーターの替えがあるか聞きたかったのだが仕方がない。幸い近頃暑くなってきたから、セーターは不要になりそうだ。念のためもう一度だけ部屋を探しておこう。

 部屋に戻ってまずはクローゼットを探し、他に服が入っていそうな場所はないかとあたりを見回してみる。

 その瞬間、天啓のように何かの勘が働いた。おもむろに体を屈めて、ベッドの下を覗き込む。

 雑誌を三冊引っ張り出してぱらぱらとめくってみる。

 ……趣味が合わない。


 敬志郎はコンビニおにぎりを飲み込んでから言った。

「僕も知らないな。令堂くんは勉強してるとこしか見たことない」

 晴れた日の昼休み、一縷と敬志郎けいしろうは窓際の机を囲んでいる。校内放送では何か学校行事の情報が読み上げられているが、騒がしい教室ではほとんど聞き取れない。

 一縷は駅前のベーカリーで買ったクロワッサンを食べ進める。敬志郎に入れ替わり前の一縷の趣味について質問したが、有益な情報は得られなかった。

「部屋を見てみてもそれらしいものはなくてさ。勉強が趣味だったのかなあ」

「そんな感じしてたよ。でも僕もそこまで仲良かったわけじゃないから、実際はどうだろ……む」

 敬志郎がおにぎりを咥えると、海苔の欠片がパラパラと机に落ちた。先程から少しずつこぼしたそれが紙吹雪のように溜まっている。

 敬志郎は一縷の口元と机を順番に見てから、むすっと唇を山なりに結んだ。一縷は「可愛い」と言いそうになるのをすんでのところで止めた。

「なんでこぼさないの」

 一縷はくずを全くこぼさずクロワッサンを食べ切っていた。

「なんでって……普通に食べたらこぼさなかったけど」

「そんなわけない! 元王子様のくせに、なんで食べ慣れてないものをそんな綺麗に……」

 そこまで言ってから敬志郎ははっとして、「王子様だからか」と自分で納得した。

「くそ、別に信じてないのに妙にエビデンスが溜まっていく……」

「えっ信じてないの。まあでも、この世界の普通ではクロワッサンを食べるとこぼれちゃうってことだよね?」

 一縷は今日の太陽に負けないぴかぴかの笑顔を見せた。

「じゃあこぼさないで食べられるボクは、ヒーローに一歩近付いてるってことだ!」

 すると敬志郎は右手で頭を抱え、左手でおにぎりの包装を握り潰した。

「それはもうどこから矯正してあげればいいんだよ……!」

「何か違う?」

「何かっていうか……そもそもヒーローが何か分かってるの」

「分かってないから考えてる途中だよ。園くん分かるなら教えてよ」

「えっ」

 敬志郎は天井のスピーカーをしばらく見つめる。

「そう言われると困るけど」

「えー」

「でも腕噛んで喜んでるのは確実に違うから!」

「えー、じゃあボク、ヒーローになれない?」

 一縷の純粋な視線を受けて、敬志郎は静かに息を吐いた。

「それはなれるんじゃないの。アルファだし」

 そのとき、少し上の方から知らない声が聞こえた。 

「こんにちは。突然すまないね」

 校内放送ではない。二人は驚いて同じほうを見る。

 すぐそばに男子生徒が立っており、柔和な笑顔で一縷たちに話しかけている。

 敬志郎が言った。

「生徒会長」

「園くんの知り合い?」

「知り合いじゃないけど、うちの生徒ならみんな知ってるよ。生徒会長だから」

「セートカイチョーって何?」

 生徒会長は眉を下げて「やはり記憶がないんだな」と一縷を心配した。

「会長にも届いてるんですね、令堂くんがちゅ……記憶喪失になったって話」

「ああ。だから混乱させないように、しばらくは声をかけなかったんだが……最近は君と過ごしていて落ち着いているらしいから」

 会長は潔くまとめた髪と利発そうな顔、そして凛としていながら威圧感はない絶妙な立ち居振る舞いであり、教室にいる生徒たちも彼を遠巻きに注目している。なるほどたしかに有名人らしい。

 会長の瞳は一縷を真っ直ぐ映し、優しい顔で口を開いた。初対面なのにうっかり忠誠心が芽生えてしまいそうである。

「はじめましてになるかな。私は相多あいだというんだが……君は自分が生徒会に入っていることは覚えているかな?」

 一縷は弾かれたように敬志郎を見て、彼も同じく、二人は完璧なタイミングで目を合わせた。

「「生徒会が趣味!?」」

 会長は至極困惑した。


 階段を下りたところで敬志郎が立ち止まった。

「じゃあ、この廊下突き当たりの右が生徒会室だから」

 不自然に道案内を中断された一縷は驚いて言う。

「ここまできたなら最後まで来てよ」

「でも生徒会室だし」

「生徒会室が嫌いなの?」

「そうじゃないけど……ああ、知らないのか」

 この国は一縷の想像より早く蒸し暑くなり、セーターの替えを心配する必要はなかった。窓から差し込む放課後の陽射しに照らされた敬志郎は、一縷と同じ長袖のシャツの下に、いつも通りの黒いインナーで首元まで隠している。

「オメガは生徒会に入れないんだよ」

「えっ、どうして?」

「どうしてもアルファが多くなる場所だから。お互いのためにね」

 一縷は薔薇園で起きたことを思い出した。

「ごめん、この前……」

「それはもういいってば。何回も謝ってもらったし」

 敬志郎はゆっくりと話しながら緩く微笑んだ。 

「令堂くんのことは怖くないよ」

「かわっ……」

「ん?」

「かわ、りに口頭で道案内してくれたところ申し訳ないけど、やっぱり着いてきてもらえたら安心だなあ~って……生徒会室に入ること自体も禁止なの?」

「それはないと思うけど」

「じゃあ行こう!」

「えっ、ちょっと!」

 一縷は敬志郎の腕を掴んでずんずんと廊下を進んだ。

 先日、敬志郎のヒートと呼ぶらしい発作に当てられたとき、一縷は突然の身体反応に驚いたわけだが、つまり一縷には当該身体反応のポテンシャルがあったということになる。

 つまり、自分は男もいける。知らなかった!

 しかしどうしてか、今日こんにちも継続して敬志郎の顔が可愛い。ヒートに当てられた症状は長くても一日で収まると聞いたのに、敬志郎が笑う度に心臓が知らない動き方をする。この感情はこの世界で何と呼ばれているんだろう。

 生徒会室と書かれたプレートが見えた。その真下にある扉を勢いよく開けた。

「ごめんくださぁい!」

 男子生徒が一人いた。会議机を縦に挟み、扉の正面を向く角度でパイプ椅子に座っている。一縷たちを待ち構えていたような構図だ。

 彼は一縷を見た。次にその後ろにいる敬志郎を見た。

 そして叫んだ。

「オメガが生徒会室入ってくンなや!!」

 なぜか一縷まで廊下に逃げ帰った。

「ななな何あの人!? 入るだけなら大丈夫なんじゃ、っていうか園くんごめん、ボクが無理矢理連れてきたから……!」

 この世界で初めて怒られた一縷は男子生徒の剣幕にすっかりやられているが、叫ばれた本人は恐怖というよりも疑問を顔に貼り付けていた。

 そしてすたすたと歩きだし、なんと生徒会室の扉を迷いなくもう一度開けた。一縷が慌てて後を追う。

 同じ位置に座ったままの男子生徒が再び怒鳴るより先に、敬志郎にしては大きめの声を出した。

「そっちもオメガだろうが!」


 会長はバイプ椅子に座った一縷と敬志郎を至極明るく歓迎した。

「二人とも来てくれてありがとう! 改めて自己紹介しよう」

 会長はホワイトボードへ器用に二つの名前を縦書きしていく。一縷たちを出迎えた男子生徒は会長の隣の椅子に移動し、眼鏡の奥から敬志郎を睨み続けている。

「私は三年の相多で、そして彼が二年のちどり。鵆は二人と同学年だが、クラスは違うな」

 鵆の文字の上には『蓮根はすね』と書かれており、下の名前だと分かった。ペンを置いた会長が続ける。

「さっきは鵆がすまなかった。当たりが強いところがあるが、悪い奴じゃないんだ」

 生徒会室は奥に小さな書庫があり、そこにいた会長は鵆と敬志郎の声を聞いて顔を出したのだ。

「ほら、君も謝れ」

「……悪かった」

 意外にも、会長に促された鵆は素直に敬志郎の目を見て謝る。敬志郎が慌てて頷いた。しかし鵆の態度自体は改善しない。

 嫌な目線を受け止めながら敬志郎が口を開いた。

「蓮根くんってオメガですよね? なんで生徒会に」

「ああ、彼は生徒会役員ではないんだ。でもいつも活動を手伝ってもらっている。令堂くんは顔合わせ前に入院してしまったから、鵆と話すのは初めてかもしれないな」

 一縷が思い出したように質問した。

「ボク、生徒会入ったのにずっとサボってたんですか?」

「君は大変だったんだから、そんな言い方しなくていい」

 会長は至極紳士的に一縷に微笑んだ。一縷はその様をかっこいいとは思ったが可愛いとは思わなかったので、微笑んでいれば誰でも可愛く見えるわけではないと確認した。

「体育祭が近付いてきて、だんだん仕事が増えてきてね。もし負担でなければ活動に参加してほしいんだ。他の役員にも声をかけているが、皆忙しいようでなかなか人手が足りなくて……ああ、だから令堂くんも無理はしないで」

「いえ、ボクは特定の部活も入ってないし、前のボクが生徒会入ったらしいし、勿論やります!」

 一縷は爽やかに迷いなく手で隣を指し示した。

「園くんと一緒なら!」

 敬志郎が「えっ」と一縷を見る。謝罪以降黙っていた鵆が机に乗り出す。

「だーから……」

「鵆」

 鵆の身体と口がぴたりと止まった。会長の一言は柔らかさと重さのバランスが完璧だった。

「勿論歓迎するよ。人は多い方が助かるしね。それに、園くんこそいてくれると嬉しい」

 敬志郎が首を傾げている間に、会長は近くの本棚から一冊を引き出した。慣れた手付きでページを開いて一縷と敬志郎に見せる。

 それは生徒会の総則、つまりこの学校の校則が書かれた冊子だった。会長の人差し指が示すのは、第十二条第一項。

 生徒会執行役員は、候補者から信任投票によって選任するものとする。候補者は現に在籍する生徒のうち第2性別α及びβより立候補により決定する。

「私はね、この第十二条を変えたいんだ」

 敬志郎が冊子から会長へ視線を戻した。

「次の生徒総会に上程する準備を進めている」

 ただならぬ空気が漂っているが、一縷には何のことか分からない。一縷の不安げな顔にすぐ気付いた会長が説明してくれた。

「うちの高校は生徒による自発的な学校運営を推奨していてね、生徒会は毎年十一月の生徒総会で、何か一つ議案を上程できるんだ。それは企画のための予算案だったり、校則の変更だったりする。全校生徒に議決権があって、校則変更の場合、四分の三の承認が取れれば可決される」

 会長は立ったまま姿勢を正し、至極真剣な眼差しで宣言した。

「私は今年の総会で校則を改正して、オメガが生徒会役員に立候補できるようにする」

 一縷の感覚では、現行で立候補できないことを疑問に思う気持ちが強い。しかし生まれたときからこの世界にいる人はそうではないようだ。

 敬志郎がゆっくりと言う。

「できるんですか?」

 会長は「できるさ」と即答した。

「生徒総会まであと半年あるが、他の仕事もあるからあまり余裕はない。是非力を貸してほしいな」

 微笑む会長を頼もしく思いながら、一縷はちらりと鵆の様子を伺った。鵆はもう敬志郎を睨んでおらず、座ったまま会長を見上げていた。

 

 体育祭は二週間後に迫っていた。

 生徒会では以前から準備が進められていたようだが、その他生徒は呑気なもので、本日のホームルームでようやく出場競技を決めることとなった。

 様々な競技名が黒板に連なっており、人気の競技は立候補でどんどん定員が埋まっていく。しかしこの学校は一人一人への出場義務がない。つまり出たくない人は全く出なくても良いわけで、定員割れが往々にして起こる。

 現在も複数競技の立候補がおらず、クラスごとに一人は出場する必要があるため、実行委員の眉間に皺が寄った──が。

 このクラスには彼がいる!

「障害物競走やってくれる人!」

「はい!」

「虫食い競争やってくれる人!」

「はいはーい!」

 一縷の右手は下がることを知らず、黒板の空欄を令堂の文字が埋めていく。

「令堂くん大丈夫? これだと五連続出場だけど」

「大丈夫! 庶民と一緒に武闘大会に出られるなんてすごく楽しみ!」

「元気な厨二病ですこと」 

 にっこりと答える一縷の胸中にあるのは、純粋な積極性だけではない。

 四連続、五連続……自分のスケジュールが詰まってゆくごとに医学的に良性な痺れが全身を包む。それは物理的なものでなくとも、ヒートの敬志郎を前にして自分の腕を噛んだときに通ずるものがあった。

「令堂くんがいてくれて助かったよ。えーっと、あと残ってるのは玉入れだけだけど、立候補いますか?」

 そのとき、頬杖をついて静かに様子を見ていた敬志郎がゆっくりと左手を上げた。

「園くんね。了解」

 実行委員がチョークを手に取ったとき、一縷は少し離れた自分の座席から敬志郎へ呼びかけた。

「えっ、園くん大丈夫!?」

 一縷が敬志郎へ届くように大きな声を出すので、二人揃ってクラスメイトの視線を受ける。敬志郎は白い頬を若干染めながら顔を顰める。

「大丈夫だよ。なんで」

「いつも体育の授業見学してるでしょ? 無理しないでいいんだよ」

「だから玉入れにしたんだよ。そんな走ったりしないから」

「でも陽射しは強いだろうし周りはうるさいだろうし、体調悪くなるかもしれないよ」

「少しくらいなら平気だよ、多分」

「多分じゃ駄目だよ! いつもみたいに休んでてよ、埋まらないところはボクが出るから!」

 敬志郎の表情がいっそう険しくなった。

「令堂くんはもう無理だよ、何個も出てるじゃん」

 そして実行委員を見て、叩きつけるように言った。

「今残ってるやつ全部僕が出ます!」

「え、今残ってるのは……」

 その場の全員が黒板を視線でなぞる。定員に達していないのは、玉入れ一名と──

 紅白対抗リレー、クラス選出、残り一名。

 久々に教室が静まった。実行委員が敬志郎に小さく「できる?」と問う。

 敬志郎はもうあとに引けなかった。

「できる!」

 直後に口元を手で抑えた。

「でもちょっと保健室行ってきます……」

「言わんこっちゃなーい!」

 一縷は敬志郎の背中をさすりながら保健室へ連れ添った。


 保健室には誰もいなかったが、敬志郎は慣れた様子で奥のベッドに腰掛けた。

「勝手にベッド使っていいって言われてるから」

「そうなんだ。あ、無理に喋らなくていいよ。薬持ってたら飲んでね」

 一縷はいつの間に手にしていたペットボトルの水を枕の横に置く。敬志郎は教室から持ってきた錠剤を流し込んだ。

 丸椅子を動かしてベッドの近くに座るが目は合わせずに黙っている。校庭から掛け声が小さく聞こえてくる時間の後、敬志郎がゆっくり口を開いた。

「看病慣れしてるね」

「そう? ついこの前まで看病される側だったからかな」

「執事がいたの?」

「執事はいないけどメイドがいたよ。まあ、ボクの看病をするのはメアリーだけだったけど」

「メアリーとどんな関係なんだよ……」 

 敬志郎が一縷の目を見る。笑顔は崩さないまま、一縷の頬はじわじわと赤くなっていくが、元から血色のよい顔なので敬志郎には気付かれない。

「やっぱり、前の令堂くんとは別人なんだね」

「ああ、うん、そうだよ。ずっと言ってるでしょ。前のボクってどういう感じだったの?」

「ボクを保健室に連れてきてくれないだろうし、もししてくれたとしてもすぐに教室に戻る感じ、かな」

「えー、感じ悪い……」

 一縷はこの身体の持ち主に共感できなかった。すぐ教室に帰るなんて変な奴だと思う。先生がいないときに置いて行くのは心配だし、せっかく敬志郎と二人きりでいられるのに。……ん?

 一縷が自分の思考を整理するより先に敬志郎が言った。

「でも悪い人じゃなかったよ」

 敬志郎が目を逸らした。

 と思ったが違った。彼はまだ一縷と視線を合わせている。

 誰を見ているのと聞く代わりに別のことを言った。

「やっぱりリレーは園くんには難しいよ。玉入れと一緒にボクが出ておくから」

 すると目の前の可愛い顔が曇る。

 敬志郎は今度こそ顔を背けた。

「僕が出るってば。気、遣わなくていいよ」


「なーにしてんだ。こんなとこで」

 呆れ顔の衛が見下ろす敬志郎は、水飲み場にできた小さな影の中でストローを咥えていた。

「何飲んでんの」

「プロテイン……」

「はあ? 今から鍛えたって遅いだろ。体育祭来週」

「少しは効果あるかもだし……リレー出なくちゃいけないから」

「はあぁ~!?」

 衛の大声で周囲の体育祭実行委員が二人に気付く。体育祭準備中の校庭でサボり休憩していたところを見られ、敬志郎は居たたまれなくなる。

「ライン引きすらできねー奴が何言ってんだ。ほら来い!」

 衛がむんずと敬志郎の腕を掴んで歩く。校庭へチョークのラインを引いている生徒たちが視界に流れていき、あっと言う間に生徒会室へ到着する。

 戸惑いながら疲れた身体をパイプ椅子へ下ろした敬志郎の前へ、ドンと音を立ててものが置かれる。

 体育祭の進行表だ。当日に全生徒へ配られるものであろうが、まだ折り目がついておらず、未製本の状態だった。

 進行表の山を置いた衛が敬志郎に問う。

「事務作業ならできる?」

「あ、うん、平気」

「これ全部二つ折り」

 衛は迷いなく敬志郎の隣へ座り作業を始めた。A4用紙に印刷されており、半分に折れば四ページの冊子になる。

 ぽかんと衛を見ていた敬志郎だが、はっとして紙の山に手を付ける。

「これも生徒会がやってたんだね」

「全校生徒と教員分だからあと山五つ分あるぞ」

「ひえー……」

 今日の衛は愛想こそないが、あの日のような凄みもない。何度か体育祭準備の手伝いをしているが、衛の態度は驚くほど普通になっていた。

「ねえ、なんで最初に話したとき睨んできたの?」

 衛は手元を見たまま即答した。

「お前がオメガだから」

「だから、それは君もでしょ」

「お前がオメガで、会長がアルファだから」

 敬志郎は思わず口をきゅっと結んだ。目を見開いて衛を見る。

「隠さなさすぎじゃない?」

「馬鹿かよ。隠してたら牽制になんねーだろ」 

 一切の照れも躊躇いもない堂々とした声だった。

「え、じゃあ、他の生徒会役員が活動に来てくれないっていうのは」

「全員、会長狙いのベータだったからな」

 衛は壁のほうを見ながら目を細めて口角を上げた。

「出てけとは言ってねーよ」

「態度で追い出したってこと!? 最低!」

「知るか! どうせ俺が何したところで会長は孤立なんかしない! 見ろやアレ!」

 立ち上がって移動した鵆が窓の外を指さす。敬志郎が覗いてみると、校庭の一角に人だかりができている。

 会長が十人弱の生徒および教師に囲まれていた!

 彼は爽やかかつ逞しい笑顔のまま聖徳太子の如く話を捌いている。用事が終わったら去っていく者がいれば、あわよくば雑談しようとそばを離れない者もいる。

 人気者であることは有名な話だが、敬志郎が実際にその様子を見たのは初めてだった。

「そういえば前回の役員選挙、やけに倍率高かったな……あれは邪魔しに行かなくていいの?」

 ふと思ったことを鵆に聞く。

「行こうとしたらお前がバテてたんだろ」

 鵆が椅子に戻って作業を再開したので、敬志郎も続く。

「で? なんでリレー出るんだよ。万年体育見学男が」

「なんで知ってるの」

「この程度の噂いくらでも回ってる」

「リレーは僕の意思じゃないっていうか……いや僕が立候補したんだけど、その」

「?」

「……令堂くんが、僕には無理だろって言ってきたから」

「うーわ、ウザ」

 鵆が手を止めずに容赦なく言い放った。敬志郎は驚いて彼を見る。

「オメガだからっつーのは分かるけどさあ、こっちだって男だから。舐めんなっつの!」

 大きな、のびのびとした鵆の声だけが生徒会室に響いた。

「ほんと、アルファって馬鹿ばっか!」

 敬志郎はしばらく彼を見つめたまま、ぽかんと口を開けていた。

 そのとき、生徒会室の扉が勢いよく開け放たれた!

「あー! 園くんいた!」

 雪崩れ込んできた一縷は息を切らしており、珍しく顔が青い。

「助けてーーッ!」

「なっ、何!?」

「さっきまで校庭で準備してたんだけどっ、周りの人が一斉にスマホで写真撮りだして! 本当に一斉に! こんなことある!? 洗脳!? 洗脳かなぁ!?」

 衛が自分のスマホを確認し、「ほんとだ、通知来てる」と呟いた。

「撮る?」敬志郎が一応聞いてみる。

 衛が答えた。「会長といるときしか撮らない」


 体育祭当日。

「えっ、体育祭って兵役訓練の一環じゃないんですか!?」

 物騒な発言はそこそこの大きさだったが、あたりの騒がしさのおかげで大勢に聞かれることはなかった。

 しかし、会長は至極誠実に耳を傾けていたので始終聞き取っている。

「生徒の体力向上や、集団活動の経験なんかが目的だと思うよ。今の日本に兵役はないしね」

 一縷と会長は生徒会役員なので、パイプテント下の休憩スペースが使える。過密出場の合間を縫って昼食を食べに来た一縷と、過密業務の合間を縫ってスケジュール確認をしに来た会長が鉢合わせ、お互いのタスクを片手に雑談している。

「兵役がないなんて、ここはすごい平和な国ですね」

「そうだね。日々に感謝するとともに、この平和を維持し、さらによい社会にしていくよう努めていかないといけないな」

「お、王様みたいな台詞だ……!」

 よく晴れた五月の陽射しが遮られたテントの下でも、会長の笑顔ははつらつと眩しい。

 その歩く太陽に、一縷は目標へのヒントを感じ取った。

「会長はヒーローなんですか?」

「うん? その自覚はあまりないけど……まわりの人のために出来ることはしたいと思っているよ」

「出来ることをしたらヒーローですか? ボク、せっかく新しい人生になったから、ヒーローを目指したくて」

「そうか、早く記憶が戻ることが一番だが……」

 会長は一縷を病人として至極心配している。

「今の君が目標を持っているなら応援するよ。そうだな……世のためになる、何か大きなことを成し遂げたらヒーローじゃないかな」

「例えば?」

「総理大臣になって、政策を実行するとか」

 そのとき、一縷の腹の虫が呑気に鳴いた。先程まで六連続で競技に出ていたため、食べ終わったコンビニ弁当では足りなかったようだ。

 会長は「ははっ」と嫌味なく笑うと、自分の鞄から小さな箱を取り出した。

 一縷に渡されたそれは某栄養ブロック食である。

「良かったら食べるといい」

「やった! これ初めて食べるなあ」

 一縷は無邪気にその場で箱を開けて一本目を齧った。

 しかし視界に捉えたものによって、食事は一口で中断される。

「あとで食べます、ありがとうございました!」

 駆け出しながら咀嚼して、飲み込んだと同時のタイミングで辿り着く。

 体育館の壁沿い、影ができた場所でうずくまっているのは敬志郎だ。

 敬志郎は一縷を見上げたが、ばつが悪そうにすぐ顔を逸らした。


 先生は校庭の臨時救護室に待機しているため、本日も保健室に人はいない。

 前回と違うのは、敬志郎がベッドに近付こうとしないことである。

「大袈裟だって。大丈夫だから」

「何言ってるの、冷や汗かいてるのに」

 肩を抱いてベッドに向かい、敬志郎を無理やり座らせた。

「薬は持ってる? 先生呼ぼうか?」

「ううん」

「じゃあ水は飲める? これから持ってくるから」

「いいよ。すぐ戻るから」

「なんで? 休んでなよ」

「なんでって、リレー出なきゃだし。もう始まるでしょ」

「リレー!」

 一縷は困り顔で言った。

「無理だよ! ボクが出ておくから!」

「出なくていい!」

 敬志郎が叫んだ。

 一縷は驚いてしばらく動けない。彼のここまで大きな、感情を隠さない声を聞いたのは初めてだった。

 保健室の照明をつけておらず、昼下がりの日光だけが窓から二人を照らしている。賑やかな声が校庭から遠く聞こえる。いつもよりうすら暗い部屋だけれど、敬志郎が青白い顔で自分を睨んでいることははっきり見える。 

「リレーに出るのは僕の仕事でしょ。なんでそんなにあれこれやろうとするの」

「園くんが心配だから」

「そこからおかしいんだって。一人をそんな過剰に心配するのは変だよ。君が前いたところでは普通だったのか知らないけど」

 敬志郎がベッドに添えた右手を握りしめると、シーツのしわが深くなる。

「それともオメガが可哀想?」

「え……」

「ヒーロー目指してるんだもんね。なんか色々間違えてるけど、ヒーローは人助けするってことくらいはそろそろ分かってるでしょ。ヒーローになりたいから僕に構うの?」

「そういうわけじゃないよ」

「結果的にそうなってるんだよ。アルファだからオメガが可哀想なんでしょ。アルファだからヒーローになりたいんでしょ? 僕だって──」

 敬志郎はそこで視線を逸らし、表情を歪めて足元を見た。

「……オメガじゃなかったら、ヒーローとやらになってみたいよ」

 校庭から一際大きな声援が上がる。紅白対抗リレーが始まったらしいが、一縷には聞こえていなかった。ただ目の前の泣きそうな人を見ている。

 初めて会った日も泣かないでほしいと願ったのに、この世界に来たばかりの一縷には上手くできない。

 せめて今の気持ちを素直に伝えたいと思った。

「園くん、ボクは……」

 敬志郎は黙ったままだ。

「ボクは、自己犠牲を伴う人助けに快楽を見出しているんだ」

 敬志郎が顔を上げた。

「……なんて?」

「自己犠牲を伴う人助けに快楽を見出しているんだ」

「……復唱ありがとう。ついでに解説も欲しいかも」

「園くんの首を噛む代わりに自分の腕を噛んだとき、血と一緒に初めての感覚が溢れ出してくるみたいに気持ちよかった。後から気付いたけど、あれは怪我をしたから気持ちよかったんじゃなくて、怪我をした先に善行があったから気持ちよかったんだ……!」

 一縷は拳を握りながら熱く語る。

「自分が苦しくなると、その分相手のためになってるような気がして、すごく満足感があって……人のためになって自分も気持ちいい! きっとこの方向がヒーローなんだ、と思ったんだけど」

「違うね」

 敬志郎の中世的な声が一等低くなった。

 しかし冷たい声色にひるむことなく、一縷が寂しげに微笑む。

「みたいだね。園くんが悲しむことをするのは、きっとヒーローじゃない」

「はあ?」

 今度は変に上ずった声になった。顔色が青と赤を往復して不健康である。

「ヒーローが何なのか見つけたいのも本当だけど、園くんが心配なのも本当だよ。いつも飲んでる薬、あんまり身体に合わないんでしょ?」

「えっ」

 言っていなかったことを当てられて敬志郎は目を見開いた。

「ボクも前の身体ではそうだったよ。薬なのに飲む度に辛くなって、でも飲まないわけにもいかない。調子が良い日のほうが珍しくて、屋外で人ごみの中に何時間もいるなんて耐えられなかった」

「……」

「嫌な気持ちにさせてごめんね。君は初めてできた友達だから、心配しすぎちゃうのかもしれない」

 一縷がしゃがみこんで敬志郎の顔を覗く。

「許してくれる……?」

 彼の返事を待つ間、いつの間にか呼吸を止めていた。

 レイチェルだった頃は魔法も運動もままならず、幾度となく怒られ幾度となく謝ってきたが、許してほしいと思ったのは初めてかもしれない。怒ることをやめてほしいのではなく、嫌われたくないのだ。

 敬志郎は静かに一縷を見る。落ち着いたのか、だいぶ顔色が良くなった。しかし表情は晴れず、さきほどとは違う感情を滲ませて、また顔を伏せた。

「もちろん、許すよ」

「よかった! ありがとう!」

 一縷は心から安堵した。

「っていうか、そうじゃなくて、君に心配されることが嫌なんじゃなくて……」

「ん?」

「……ごめん。まだ上手く言えない」

「そう? 分かった」

 話がひと段落ついたように思えたが、敬志郎は俯いたまま唇を噛んでいる。体調は改善したようだが、この様子ではまだ心配だ。

 どうしようかと悩んでいると、一縷は前の世界でのことを思い出した。

 汗で貼り付いた敬志郎の前髪を、右手で優しく避ける。

 驚いた彼が顔を上げる。

 目の前に差し出された額にそのまま口付けた。

「うわーーッッ!!」

 突き飛ばされた一縷が身体を起こしたとき、敬志郎は後方のベッドへ倒れ込んでいた。

「ええっ、園くん大丈夫!?」

「誰のせいだと!」

 医学的に良性に体温が上昇した敬志郎が言い返す。

「急に何すんの!?」

「え、何って、メアリーがよくしてくれたやつを……」

 遠くでピストルが二発鳴り響き、最終競技のリレーが終了したことを知る。一縷たちの準備の甲斐あって体育祭は大成功を収め、生徒たちの良い思い出となったであろう。敬志郎も今日のことを生涯忘れないであろう。

 敬志郎はわなわなと震え、今日一番の大声を出した。

「メアリーとどんな関係なんだよ!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オメガじゃなければヒーローやるのに 洗う @koredakarajinnseiha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ