オメガじゃなければヒーローやるのに

洗う

第1話 青い薔薇の咲く世界から

 壁沿いの柱に隠れたレイチェルに気付かないまま、二人のメイドが話している。

「レイチェル様、今日も基礎魔法すら出来なかったって」

「今更誰も出来ると思ってないわよ。練習だって休んでばかりで」

「そうね。まあ王位はユーリ様がお継ぎになるでしょうから、困ることもないし」

「そもそも王子は三人も居れば充分だと思うわよ、私は。まったく陛下はどうして……」

「ちょっと、それ以上はまずいわよ」

 話し声が一層小さくなると、間もなく控えめな足音、そしてあたりは静かになった。

「レイチェル様」

 肩が跳ねる。慌てて見ると、少し離れた場所にメアリーが立っていた。レイチェルの隣の柱の影で、同じ会話を聞いていたようだ。

「……止めに入れず、申し訳ございません」

 俯いたメアリーが言う。こんな風に謝られたのは初めてではない。しかしあの会話を聞いたばかりレイチェルの頭は、これまでよりもずっと濃い惨めさで埋め尽くされた。

 返事をせずに廊下を駆け出す。その勢いのまま、突き当たりの階段を下りはじめる。

 直後、浮かぶように重心が投げ出された。

 踊り場の床がどんどん近付いていく。足を踏み外したのだと理解して、視界の隅に右手から離れた細長い杖が見える。受け身を取る余裕がない。

 最後の僅かな時間、レイチェルにあまり恐怖はなかった。頭の片隅で祈りながら、メアリーの叫ぶ声が聞こえていた。

 もしも、自分が四番目の王子じゃなかったら。他の兄弟と母親が同じだったら。

 そうしたら、僕は──

 何になりたい?


 声が聞こえる。一人ではなく、何人かが話している。知らない声ばかりだから、メアリーはいないようだ。

 ゆっくりと目を開くと、真っ白で、やけに低い天井。やけに硬くて冷たいベッドの上に寝ていると気付いた。

 すぐ近くに立っていた女性は、レイチェルと目が合うとほっとしたように頬を緩ませた。見たことのない白い服を着ている。

「良かった、目が覚めた! 聞こえますか? 自分のお名前は分かりますか?」

 突然の質問に戸惑ったものの、レイチェルは素直にフルネームを答えた。

 すると女性の表情は不安げなものに変わる。直後、隣にいた女性にこう言った。

令堂れいどうさん、記憶障害かもしれない。すぐ先生呼んで」

「レイドウって誰ですか?」

 新生・令堂 一縷いちる、目覚めの第一声である。


 僕は××××王国(日本語表記不可能)の第四王子、レイチェル・××・××××(一部日本語表記不可能)! 階段を踏み外して頭を打ったら、知らない世界で目が覚めちゃった! ここでは僕は令堂さんと呼ばれて、鏡を見ると存じ上げないホモ・サピエンスが写ってる! これってもしかして、知らない世界の知らない人と、入れ替わってる〜!?(主題歌スタート)

 三人称小説に戻そう。この身体はレイチェルと同じように頭を打っていたらしく、はじめに目が覚めたのはこの世界の病院だった。

 健康状態および意思疎通は問題なし、しかし自分の名前や家族のことは覚えていない。一時的な記憶障害だろうと診断され、一週間の入院ののち帰宅となった。

 レイチェルの記憶を宿したまま、身体も環境もまるごと入れ替わってしまった。元の自分の存在を理解する人は誰もいない。醒めない夢のようなこの状況をレイチェル、もとい令堂 一縷は──

 それはもう存分に楽しんでいた!

 体育館にホイッスルが鳴り響いたのと同時に、一縷の手から離れたバスケットボールが綺麗にゴールを潜った。

 隣の商業高校との練習試合は、一縷の活躍により圧倒的勝利を収めた。今日一番に湧き上がるギャラリーに囲まれ、両チームが礼をしてから部室へ戻っていく。

 チームメイトが歩きながら一縷に肩を回した。

「最後の最後でスリーポイントやってくれたなあ! 流石だわ令堂!」

「ありがとう、スリーポイントって何だっけ?」

「分かってないのにあそこから打ったの!?」

「あと一秒で試合終わっちゃうから、急いで投げようと思って。ごめんね、バスケのルール昨日初めて習ったから、まだうろ覚えで」

「うわー、こんなこと言ってる助っ人にMVP取られてるんじゃ、うちの将来が不安だわ。明日は何部なんだっけ?」

「野球部だよ。週末はテニス部と剣道部とビリヤード部。そのあともいっぱい出させてもらえるんだ、すごく楽しみ!」

 満面の笑みで答える一縷に、チームメイトは彼の状況を思い出した。

「ほんとどうしたんだよお前。そんなキャラじゃなかったのに」

「うーん、みんなそう言うけど、元のボクがどうだったのか……。そもそもボク、庶民の学校に慣れてないからさ」

「頭打って入院したと思ったら、厨二病になって戻ってきやがって……」

「みんなそう言うけど、チュウニビョウって何? ボクは元々こうだけど」

「ホンモノになって戻ってきやがって……」

 噛み合わないながらも賑やかに会話しながら、一縷とチームメイトたちが部室に入っていく。それを少し離れた渡り廊下から見る男子生徒がいた。

ちどり。何かあったか?」

 隣を歩くもう一人に聞かれ、鵆はくるりと従順に顔を向けた。

「会長が探してるヤツいたよ。今あの部室に入ってった」

「え、令堂くんのことか? あの部室……あれ、バスケ部に入っていたかな?」

「入ってないけど、あらゆる運動部の助っ人しまくってるんだよ。先月コケて頭打ったら記憶喪失になっちゃって、退院したら別人みたいになって帰ってきたらしい」

「記憶喪失!? それは大変だ……!」

 会長は至極真剣に心配した。

「それじゃあ、今の彼はとても混乱していることだろう。声をかけるのはもう少し待ったほうがいいな」

 そのとき、会長のポケットからデフォルトの通知音が鳴った。さっと携帯を取り出して確認すると、流れるように画面を隣の後輩へ向けた。衛の眼鏡にトーク画面が青っぽく反射する。

「このあとの打合せが延期になった。斉藤先生が急用で出席できないそうだ、鵆は来週で空いている日は……」

「え! じゃあ遊び行こうよ!」

 目を輝かせた鵆が話を遮る。

「明日小テストがあるって言ってなかったか?」

「そんなの夜勉強すればいいじゃん。会長も塾ない日でしょ? 俺ボウリング行きたい!」

「まったく、しょうがないな……」

 呆れた顔を見せながら、会長はその場でボウリング場の予約サイトを開いた。

 

 令堂 一縷の身体は、レイチェルが出来なかったことが全部出来る。

 走っても苦しくならないし、貧血で倒れることもない。これまでは要領が悪く苦手なことばかりだったのに、今はやけに頭が冴えていて、初めて聞く学問もするする理解できる。しかも学校が終わればどこへでも自由に出掛けられる。

 制約の多い人生を送っていたレイチェルにとって、この状況は楽しくて仕方がなかった。部活を一つに選ぶなんてできないし、食べたいものが多すぎて胃袋が足りない。

 そんなふうに賑やかに過ごしているが、全く新しい環境であることには変わりなく、当然戸惑う場面もある。

「私、この前家族とファミレス行ったんだけどね」

 ファミレスって何だ。

「丁度私の好きなアンガスサーロインステーキが届いたときに娘のスマホと、それと一緒に他のテーブルからも一斉に通知が来てさ、警報か何かだと思って焦っちゃって」

 アンガスサーロインステーキって何だ。

「そしたら最近若い子に流行ってる、同じ時間に写真を撮って投稿するアプリだったんだよ。名前何だっけ?」

 知るか!

「ちょうど美味しそうな料理があるから、絶好の撮影タイミングでしょう? でも娘が『パパ映っちゃうからどいて』って言って……パパが映らないように写真を……」

 そこまで話すと、涙目の医者は一縷の表情を見て「やっぱりまだ思い出せないみたいだね」と言った。みんながキーボードと呼んでいるものを押しながら続ける。

「身体は問題ないんだよね? じゃあ引き続き様子見だね」

「あのー」

「うん?」

「様子見でいいんですか? 確かに元気だけど、ボク、自分の名前も覚えてなかったんですよ。普通はもっと大事じゃないかと思うんですけど」

「まあ、記憶障害は本人を焦らせたら逆効果だし。それに君は丈夫だろうから、問題ないでしょう」

 医者に問題ないと言われてしまってはもう何も言えない。自由に過ごせるなら一縷としては都合が良いので、違和感は残るものの、一旦は解決としておこう。

 そのとき、疑問に思っていた他のことを思い出したので質問しようとしたが、一瞬の差で医者がまた話しはじめた。

「ああ、でも志望大学とか、将来の夢とかがあったんなら、なるべく早く思い出したいね」

「え?」

「そういうのを思い出すためには、それこそ今まで通りの生活をするのが良いと思うから──」

 その先の話は聞いていなかった。一縷の身体に医学的に良性の衝撃が走る。

 レイチェルに将来の夢なんてなかった。何を目指したところで、叶う未来が思い描けなかったからだ。

 でも今は違う。自分のなりたいものが探せる!

 一縷は診察室を飛び出した。

   

 帰りの電車の窓から見える夕焼けは、退院してから毎日見てきたはずなのに、また新しいものに感じた。

 その日一日を遊ぶことには全力だったけれど、今日明日だけではなく、長期的に好きなものを目指せるとはまだ考えていなかった。

 生まれてこのかた抱えてきたしがらみから逃れた今、自分は何になりたいだろう?

 オレンジ色の空を、上のほうからゆっくりと青色の雲が覆いはじめた。夕焼けは元いた場所と変わらない。同じ空があるということは、ここは別の世界ではなく、同じ世界にある遠い国なのだろうか。しかしレイチェルの国の名前を誰も知らないし、辞書にも載っていない。

 それに、今日も医者に聞きそびれたが、この世界にはレイチェルの知らない概念がとても深く、全ての人へ当たり前に浸透しているように思う。あまりに自然なものすぎて、わざわざ一縷に説明してくれる人なんていないような何かが。

 同じ形の人間が暮らしているのに、纏う空気が別の生き物みたいだ。やはり国が違うだけではないのだろう、と電車に揺られながら頭を巡らせていた。ちなみに「なぜ言語が共通しているのか」については、もっと強大かつ絶対的かつご都合的な力が働いているかのように、考えるとひどく頭痛がするので気にしないようにしている。良い子だ、一縷。

 今検討すべきは自分のなりたいものだ。この世界にはどんな職業や名誉があるだろう。国王、騎士団長、悪役令嬢、森に潜んで禁忌の蘇生魔法を研究している魔女などは共通しているだろうか。

 電車が緩やかに減速し駅に停まる。扉が開いて、少し蒸した空気と、一縷より若そうな女子三人組が乗り込んできた。座席が空いていないことが分かった三人は、一縷と同じように扉の近くに立つことにした。

「いくら入ってたの?」

「えっとね、二千円くらい」

 声が大きくて丸聞こえである。

「今そこはいいでしょ」

「スイカ落としたならそこが一番大事じゃん。あ、定期は入ってたの?」

「だからそこはいいってば! これは恋バナなの、恋バナ!」

「はいはい、それで?」

「えっとね、校外学習はじまってすぐに落としちゃったからね、博物館行って帰ってくる分の切符を買ったらね、入場チケットのお金が足りなくなると思ってね、私が泣きそうになってたらね、鈴木くんがどうしたって聞いてくれてね」

「きゃー! エミのこといつも見てくれてるんだ!」

「スイカ落としちゃったって言ったら、大丈夫だから落ち着けって言ってくれてね、俺二万持ってきたからって言ってね、私の切符代わりに買ってくれたの」

「きゃー! リスクヘッジしてたんだ!」

「なんで男子っていつも校外学習で大金持ってくるの?」

「私がありがとうって言ったらね、俺保健係だからって優しく言ってくれたの……!」

「きゃー! 校外学習の班内役職に責任感を持ってるんだ!」

「強いて言うなら会計係の仕事だろ」

「もー違うよ、鈴木くんは保健係としてじゃなくて、ヒーローとしてエミを助けてくれたの! ロマンスが分かってないなあ、鈴木くんはエミのヒーローなの!」

 ぴくりと指先が動いた。

 一縷は二秒後には女子三人組の眼前に移動していた。

「ねえ、ヒーローって何?」

 電車内で女子中学生にヒーロー論を問う男子高校生はギリギリセーフくらいである。

「誰!」

「ナンパかな? わ、私には鈴木くんがいるのに……!」

「ナンパなら誰狙いかな? この中で一番可愛いのは私だけど」

「なんで女子コミュニティの中でそれが言えるんだよ」

「でもこの人イケメンだね、鈴木くんの次くらいに」

「えっと、ナンパ? ではないよ、多分。ただヒーローってどうやってなるのか聞きたくて……」

 三人は目を合わせて不思議そうな顔を共有する。するとスイカを落とした女子が言った。

「切符を買ってくれたら、ヒーローかも」

   

 この世界にはヒーローという存在がいるらしい。

 初めて知ったその言葉に一縷は何故か強く惹かれていた。自由と健康を手にした自分が目指すべき称号はこれなのではないか。期待を胸に早速自宅に置いてあった辞書で調べてみた。

 「英雄」「人気者」「物語の主人公」などを指すらしい。

 え、ヒーローって役職じゃないんだ。じゃあどうやって定義するんだ?

 ついでにチュウニビョウも調べようと思ったが、丁度そのタイミングで冷凍の宅配便が届いて調べることを忘れてしまったため、一縷の心は奇跡的に守られた。

 

 おそらくヒーローとは抽象的な呼称であり、資格や職業ではなく、人の解釈の上でのみ存在し得る椅子なのだ。分かりやすいゴールは存在しない。ヒーローになるのは一筋縄ではいかないようだ。

 少なくとも、目の前の筆記用具の使い方が分からないうちは無理だろう。

「あの、これはどうやって使……」

「まずい、遅刻しそう! 先生これから会議だから、それだけ書いてから帰ってねー!」

「あ、はい……」 

 一縷は手にペンを握ったまま、ばたばたと保健室を出ていく先生を見送った。

 たまたま廊下で先生に会い荷物持ちを手伝ったまでは良かったが、「机の上にある備品リストにペンでチェックを付ける」ミッションがまずい。

 一縷が元々持っていたボールペンの使い方は覚えた。しかし保健室にあるこれの上部を押してもペン先が出てこない。そのまま紙の上を滑らせても当然書けない。周囲に人の気配はなく、質問もできない。 じわじわと動悸が響きだした。

 先生が説明もなしに行ってしまったということは、このペンの使い方はこの社会にとって至極常識的なのだろう。

 病院で目が覚めたときから自分は一人だったけれど、医者や看護師は診察の過程で一縷の本当の話を聞いてくれた。でもここでは一縷がいくら説明しても伝わらなくて、取り合ってもらえなくて、今自分が戸惑っていることを誰も気付かない。

 大した問題ではない。どこか人がいる場所に行って、使い方を聞けばいいだけだ。

 冴えるようになった頭では理解していたが、一縷は動けなかった。

 左右から一粒ずつ零れそうだと気付いて手で受け止めようとしたが、突然横から物音がして間に合わなかった。

 先程まで閉まっていたカーテンが半分ほど開かれ、白いベッドと生徒が現れた。一切音がしなかったが、ずっとカーテンの奥で寝ていたようだ。 

 おそらく男子だろうと思われるが随分中世的な顔立ちで、肩の上で揃えられた髪が細く真っ直ぐ下りている。ネクタイを付けずにシャツを二番目のボタンまで開けているが、その首元は黒いインナーで覆われている。

 生徒は大きな瞳で一縷をしばらく見つめてから口を開いた。

「どうしたの?」

「あ、えっと……このペン、インクどうやって出すのかなって」

「ああ……」

 彼はゆっくり一縷の隣まで歩いてきて、ペンを受け取った。そして迷う素振りなくくるりとペンを捻った。

「わ! 捻るのそれ!?」

「繰り出すタイプもあるから」

 彼はそのまま備品リストにチェックを入れてくれた。寝ていたのではなく、ベッドの上で一縷と先生の話を聞いていたらしい。彼は何も言わず、紙に水分が染み込んだ部分を避けて最後まで書き込んだ。

「ペン先仕舞うときは逆に回すんだよ」

「ありがとう……」

「他に分からないこと、ある?」

「えっと、今は大丈夫。ありがとう」

「うん」

 彼は一縷の目を見てゆっくり話したあと、保健室を出て行った。

 一縷はペン先を仕舞ってペン立てに戻してから彼を追いかけた。

 彼はおそらく同じクラスの生徒だ。しかしたびたび欠席しているし、登校している日も昼休みなどは教室におらず、話したことがない。

 用事があるわけではない。でも、もう少し話してみたい。

 廊下を歩き、少し遠くへ後ろ姿を見つける。彼は一縷に気付かないまま歩き進め、下駄箱で靴を履き替えて、体育館の裏側へ入って行った。一縷が行ったことのない場所だ。

 なんとなく話しかけるタイミングを掴めず、尾行する形になりながら後を追った。

 薄暗い細道を抜ける。体育館の壁が途切れ、ぱっと視界が明るくなる。

 一縷は思わず叫んだ。

「赤い薔薇だ!」

「えっ!?」

 ジョウロを持った彼が驚いて振り返った。

「ちょっと、なんでついてきてるの」

 彼の質問に答えずに、一縷は彼の背にあるこぢんまりとした薔薇園を指さした。

「赤い薔薇が咲いてる!」

「うん? まあここの薔薇はほとんど赤だけど」

「そうなの!? 青じゃなくて!?」

「……ん?」

 一縷は伝わらないことも忘れて興奮のままに喋る。

「ボクがいた世界では薔薇は青ばっかりなんだ。商店でも青い薔薇が一番多く売ってるし一番安いんだよ。子供が最初に習う基礎魔法も青い薔薇を出すのが一番簡単で、まあボクはそれもできなかったんだけど。他には紫とか緑とかがあるけど、赤い薔薇は存在しないはずだよね? オレンジとかピンクまでなら魔法の調合で人工的に生み出せたけど、赤はまだ生み出せなくて、幻の花って言われてるんだよ」

 そこまで喋ってからはっと気付いて黙った。おそるおそる反応を待つ。

 彼はしばらく地面を見て考えてから、一縷に視線を戻し、「逆」と言った。

「逆?」

「ここでは赤い薔薇が一番多い。で、青い薔薇はまだない」

「ええ!? そんな、ファンタジーじゃないんだから!」

 彼は「ふむ」と言いそうな仕草で一縷を見つめる。

「やっぱり、記憶喪失の噂は本当なんだね」

「! あの、記憶喪失っていうか」

 ここしかチャンスはないと、一縷は一思いに自分の状況を説明した。

「……えーっと、つまり君は元々ナントカ王国の第四王子兼王様の妾の子で、病弱と要領の悪さと兄弟間差別に苦しんでいたところに頭を打って、令堂くんに転生したと」

「そう!」

「……」

 他の生徒だと、このあたりでチュウニビョウだと言われる。薔薇園の隅にある鋳物のベンチに並んで腰掛けて、一縷は上目遣いで彼を表情を伺った。

 一縷の緊張にも関わらず、彼はやけにあっさりと頷いた。

「分かった」

「分かったの!?」

「まあ、分からないところばっかりだけど。なんにせよ、僕と君が初対面になることは変わらないみたいだからね」

 彼はベンチの背もたれに肘をかけて、「僕のこと覚えてないんでしょ?」と言った。

「えっと……ごめん……」

そのだよ。園 敬志郎けいしろう

 やっぱり男だった。

「園くん……は、元の令堂くんと仲が良かったの?」

 敬志郎は少し間を置いてから答えた。これまでのゆっくりとした沈黙とは少し違うものである気がしたが、何かは分からない。

 「仲が良かったっていうか……僕は園芸部だから当番でここに来てて、君は部員じゃないけど、このベンチに勉強しに来てた」

「このベンチは勉強用に開放されてるの?」

「いや、普通に園芸部用」

「え? じゃあなんかそれって……迷惑じゃない!?」

 今度は間髪入れずに「確かに別人だ」と言った。

「とにかく、君とは時々話してたから……退院して学校に戻ってきてから様子がおかしいとは思ってたよ。すれ違っても挨拶されないし」

「え、ごめん! 無視したつもりじゃなくて」

「いいよ、それは今日話して分かったから。それじゃあ──」

 敬志郎が首を傾げながら小さく微笑んだ。真っ直ぐな髪が重力に倣ってふわりと揺れた。

「今日からまた友達になろっか」

 一縷の心臓が医学的に良性に撃ち抜かれた!

 なにそれ可愛い!

 あとなんかいい匂いがしてきた!

 あたりいっぱいに咲いている薔薇の匂いだろうか、と考えた刹那、今度は医学的に悪性に頭を殴られた!

 いや、違う。殴られたのではなく酷い眩暈が起きている。そして身体中が燃えるように熱い。何が起きているか上手く判断がつかない。視界がかき混ぜられたように歪んでいる気がする。

 それなのに、目の前で息を切らしている敬志郎ははっきりと見えた。

 彼は青いのか赤いのか分からない顔色で表情を歪めている。

「ごめん、今日、朝から調子悪くて、薬飲めなかったの忘れてた……」

「だ、だいじょうぶ? どこが苦しいの?」

「走れる?」

「え……」

「僕は走れない。君がまだ動けるなら今すぐ離れて」 

「そんな、駄目だよ、君を置いて行けないよ」

「は? もしかしてもう意識ない? くっそ!」

「ぐぇっ!」

 敬志郎が突然一縷を腹から蹴り飛ばした。しかしその脚には大した力が入っておらず、一縷の身体はベンチから落とされるに留まった。一縷が息絶え絶えに上半身を起こすと、同じく浅い呼吸を繰り返す敬志郎に見下ろされていた。

「いつもは周期通りだから、油断してた……ごめん、走って、お願いだから」

「走るってなんで!?」

「なんでって!」 

 敬志郎は苛立ちと焦りのままに叫んだ。

「君がアルファだからだよ!」

「それーーーっ!!」

「は!?」

「アルファって、何ーーーっ!?」 

 一縷はこのときだけ身体の熱さを忘れて叫び返した。

「病院の人も先生もそれ言うけど何!? ボクが男なのは分かってるけどアルファって何!? あとベータとオメガって何!? ずっと聞くタイミング逃してたんだよぉ!」

 目をつぶって言い切ってから敬志郎のほうを見た。彼はずっと一縷を見つめていた、いや、目を逸らせないようで、すぐに視線がぶつかった。

 瞬間、脳の何かの糸がぷつりと切れた感覚がした。数秒間の記憶が飛んだ。

 気が付いたら敬志郎の顔が近くなっていた。

 顔の後ろには茶色の地面。自分が彼をベンチから引きずり下ろし、両手を掴んで組み敷いていることを理解した。

 そして、アルファという立場も、理屈を経由せずに納得した。

 自分はアルファだから、オメガの敬志郎に発情しているんだろう。

 自分はアルファだから、黒い布で隠れているにもかかわらず、この人の項がこんなに美味しそうなんだろう。

 周囲の音が聞こえなくなった一縷が敬志郎を黙って見つめる。開いたままの口から垂れた涎が彼の首筋に落ちる。

 彼は先程の蹴りで力を使い切ったらしく、何も抵抗しない。意志に反して期待している身体を必死に抑えて、それでも目を逸らすことはできずに震えている。

 一縷は最後の理性で襲い掛かるのを耐えていた。それでも彼は全て諦めてしまったようだった。

「……大丈夫。僕、チョーカー付けてるから、最悪のことには、ならないよ」

「……」

「まあ……最悪じゃないって、だけだけど」

 一縷を真っ直ぐ映したままの瞳から、ゆっくりと、彼によく似合う速さで涙が流れた。

「まだ事故ったことなかったのになあ……」

 

 泣かないで。

 頭の片隅でそう思った。

 片隅にあったそれは物凄い速さで脳内を移動し、中央まで来るとここぞとばかりに膨らんだ。

 一縷は右手を敬志郎の腕から離し、そのまま自分でかぶりついた!

「えっ!?」

 敬志郎は仰天しながらも反射で一縷の下から抜け出し、ずるずると地面を這って一メートルほどの距離を確保した。

「……」

「……大丈夫?」

「……い」

「うん?」

 一縷はセーターの袖と口元に血を滲ませながら、転生以来最上級の輝きを湛えた瞳を敬志郎に向けた。

「気持ちいい……!!」

「は?」

「すっごい痛いのにすっごい気持ちいい、痛いところからじわじわ幸せになっていくみたいな……! こんなの元の世界でも味わったことないよ。ボクはこれのために生まれてきたんじゃないかってくらい……!」

 敬志郎は数秒固まってからはっとして自分の項をさすり、「え、僕噛まれてないよね?」と呟いた。

「そうか、これが……! ありがとう園くん!」

「うぎゃあ! こっち来るな!」

 折角離れたのに、再び一縷は敬志郎にずいと顔を近付ける。しかし自傷により熱は幾分か収まっており、未だ興奮はあるものの充分理性で抑え込める。敬志郎のほうも、アルファが突然自分の腕を噛んで喜び始めたのである程度冷静になっていた。

 一縷は敬志郎の左手を自分の両手で握った。そして惜しみなくきらきらさせた瞳を真っ直ぐに向ける。

「ボク、自由な身体になったからなりたいものを探しててさ、ヒーローとか良いなって思ってたんだ!」

「え、何? ヒーローになりたいってこと?」

「そう! でもヒーローってふんわりしてるでしょ? どうやってなったらいいのかなって思ってて」

「はあ、まあそうだろうね……」

「ヒーローってこれなんだね! だって、こんなに満たされて気持ちいいんだから!」

「え?」

「園くんのおかげで道が見えたよ。今は何故か腕を噛んだらヒーローになれたけど、常に噛むわけにはいかないだろうから、どうやったら常にヒーローでいられるか、これから探していけばいいよね!」

「いや、ちょっと」

「君といれば、きっと僕は完全体のヒーローになれる! これからもよろしくね、園くん!」

 五月。晴れた春の空が眩しく、夢の世界のような真っ赤な薔薇を照らしている。突然放り出された醒めない夢の中、一縷はなりたいものと新しい友達を手に入れた。胸は希望に満ち満ちて、身体は熱を持っているが頭ではすっかり忘れている。

 同じく発情を忘れ去った敬志郎が唇を震わせた。

「……な、なんかっ……全部ちがーーーう!!」

 新生・令堂 一縷。目指せ、完全なヒーロー!

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