食器洗いは自己満足
@akaimachi
食器洗いは自己満足
「また洗い残しだぞ!」
父の怒鳴り声がリビングに響いた。テーブルでは夕食の残り香がまだ漂っている。
シンクには、昨日から溜まった食器の山。しかし、母が昨夜洗った形跡はあった。手前の皿数枚と、よく使うコップが2つだけ、光を浴びて輝いている。
「だって、洗いたい分だけ洗えばいいんでしょ?」
母は平然とした顔で言う。食後のコーヒーをゆっくりと啜りながら。
「洗いたい分だけって、なんだよ!全部洗うのが常識だろう!全部洗いきらないと、次に使う人が困るじゃないか!」
父はまるで世界の終わりに直面したかのように腕を振り上げた。
「困らないわよ。だって、今、私が洗いたくないだけなんだもの。お父さんが困るなら、お父さんが洗えばいいじゃない。それに、全部洗うなんて、ただの先入観よ。シンクにある食器は、全て洗わないといけないなんていう法律、どこにもないでしょ?」
母の論理は、常識という分厚い壁に、小さなヒビを入れる。
「そんな屁理屈…」
「屁理屈じゃないわ。お父さんだって、会社で一つだけメールを返信して、残りは明日でいいってことあるでしょ?それと同じ。なぜか、食器洗いだけは『その場にある全てを完了させなければならない』という、不文律が私たちを縛っているの。それは、誰のためでもない。『きちんとやり遂げた自分』への自己満足よ」
父は言葉を失った。
確かに、食後の満腹感と、その後のだるさの中で、「全部洗う」という作業は、一種の義務感に駆られていた。そして、全部をピカピカにしたとき、胸の奥で満足感が広がる。それは、食器がきれいになった喜びではなく、「やるべきことをやった」という、自分への報酬だったかもしれない。
母は立ち上がり、シンクに向かった。
「今日は…そうね。スプーンだけ洗おうかな」
スプーンを一つ手に取り、丁寧に洗い始めた母。
父は、残された食器の山を見た。そして、ふと、その山が、なんだか自由に見えた。
「じゃあ、俺は、今日は…マグカップだけ洗うか」
そう言って、父は、昨日飲み残した自分のマグカップを手に取った。全てを洗いきらないという選択をした瞬間、食器洗いの重圧は、まるで砂糖菓子のように軽くなった。
シンクには、まだ多くの食器が残っている。だが、その食器たちは、もう誰も責めていない。ただ、次に誰かの「洗いたい」という自由な欲求を静かに待っているだけだった。
食器洗いは自己満足 @akaimachi
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