第5話「二人の妻、一つの選択」
## 誰かが愛した世界は、消えない
それから、私は週に一度、真理子を訪ねるようになった。
最初は何を話せばいいのか分からなかった。
でも、次第に言葉が生まれた。
健司のこと。
私たちの結婚生活のこと。
真理子の病気のこと。
メタバースでの日々のこと。
すべてを、少しずつ。
---
三週間が経った、ある日曜日。
私は真理子の病室で、一つの書類を広げていた。
『メタバース遺産相続同意書』
弁護士が用意した書類だ。
健司が残したメタバース内の全資産――あの白い家、家具、写真、日記、そしてサクラのAIプログラム。
法律上、それらはすべて私が相続する。
そして、私には権利がある。
すべてを削除する権利。
あるいは、誰かに譲渡する権利。
「真理子さん」
私は、ベッドに横たわる彼女に言った。
「私、決めました」
真理子の目が、私を見つめる。
モニターに文字が表示される。
『何を...?』
「健司の遺産、あなたに譲ります」
真理子の目が、大きく見開かれた。
『え...どうして...?』
「あなたが、あの家を必要としてるから」
私は答えた。
「私には、もう必要ない。でもあなたには、あそこが生きる場所だから」
『でも...』
真理子の目から、涙が溢れた。
『それは...あなたの夫の...』
「ええ。私の夫の遺産。でも同時に、あなたの家でもある」
私は真理子の手を握った。
「あなたが愛したのは、夫の何だったの?」
真理子は、少し考えてから答えた。
『彼が見せてくれた、「生きていい」という許可』
「許可...」
『ええ。私、病気になってから、生きてる意味が分からなくなってた。動けない。話せない。誰の役にも立てない。ただ、生かされてるだけ』
真理子の言葉が、画面に流れ続ける。
『でも健司さんは、私を必要としてくれた。話を聞いてほしいって。一緒にいてほしいって。私がいることで、健司さんが救われるなら、私は生きていていいんだって思えた』
私は、胸が熱くなった。
『健司さんが愛してくれたから、私は生きていられた』
「そう...」
私は頷いた。
「私が愛したのは...たぶん、『妻でいられる自分』だったのかも」
真理子が、私を見つめる。
私は続けた。
「私、健司と結婚して、『妻』になった。それが、私のアイデンティティだった。でも、いつの間にか『妻の役割』を演じてるだけになってた」
私は、窓の外を見た。
「本当の私は、SNSの中にいた。そこでなら、承認される。『いいね』がもらえる。輝いていられる。でも、それも偽物だった」
『偽物...』
「ええ。健司がメタバースに逃げたのと同じ。私もSNSに逃げてた。現実から」
私は真理子を見た。
「私たち、似てるのね」
真理子の目が、優しくなった。
『ええ。似てます』
私は微笑んだ。
「だから、あなたにあの家をあげます。あなたなら、ちゃんと大切にしてくれる」
『ありがとうございます...』
「それと」
私は書類の別のページを開いた。
「サクラのAIも、あなたに」
真理子の目から、涙が止まらなくなった。
『サクラ...』
「ええ。あの子は、あなたの娘でもあるから」
私は立ち上がった。
「これで、私は健司から自由になれる。あなたも、罪悪感から自由になれる」
『亜紀さん...』
「ありがとう、真理子さん。あなたに会えて、よかった」
私は、病室を出ようとした。
そのとき――
『待ってください』
真理子の声が、私を引き止めた。
『あなたは...これから、どうするんですか?』
私は振り返った。
「分からない。でも、たぶん――」
私は微笑んだ。
「新しい私を、探してみる」
---
それから三ヶ月が経った。
夏が終わり、秋が来ようとしていた。
私は、アパートの一室で、新しいVRゴーグルを手に取った。
引っ越しをした。
健司との家は売却した。
思い出が詰まりすぎていて、そこにはもういられなかった。
パートも辞めた。
SNSのアカウントも削除した。
すべてを、リセットした。
そして今、私は新しい一歩を踏み出そうとしている。
VRゴーグルを装着する。
視界が白く染まる。
次の瞬間、私はメタバース空間にいた。
---
そこは、健司の家ではなかった。
広い草原。
青い空。
遠くに山が見える。
私は、新しいアバターを作った。
銀髪でも黒髪でもない。
茶色の、短い髪。
動きやすい服。
そして――三十八歳の、ありのままの顔。
若作りしない。
美化しない。
これが、私。
「さて、何しようかな」
私は呟いた。
メタバース空間には、無限の可能性がある。
家を建てることもできる。
仕事をすることもできる。
新しい人と出会うこともできる。
私は、ゆっくりと歩き始めた。
どこへ行くのか、まだ決めていない。
でも、それでいい。
今は、ただ歩きたい。
自分の足で。
ふと、画面の隅に通知が表示された。
『ルナがログインしました』
真理子だ。
私は微笑んだ。
彼女は今も、あの白い家で生きている。
健司と過ごした、あの家で。
サクラと一緒に。
それでいい。
彼女には、あの家が必要だから。
私は通知を閉じようとした。
そのとき――
もう一つ、通知が表示された。
『KENJI_MEMORYがアクティブになりました』
「え...?」
私は立ち止まった。
KENJI_MEMORY。
健司の...記憶?
通知をタップする。
すると、説明文が表示された。
『このAIは、故・木村健司のメタバース内での行動、会話、思考パターンを学習したメモリアルAIです。遺族の許可により、限定的にアクティブ化されます』
メモリアルAI。
健司が、生前に設定していたのか。
それとも、真理子が...?
私は、しばらく考えた。
それから――
通知を閉じた。
「いいや」
私は呟いた。
「健司は、もういない。それでいい」
私は再び歩き始めた。
でも――
ふと、振り返った。
遠くの丘の上に、人影が見えた気がした。
男性のアバター。
こちらを見ている。
健司...?
いや、違う。
ただの見間違いだ。
私は目を閉じて、深呼吸した。
それから目を開けると――
人影は、消えていた。
「...気のせいか」
私は苦笑した。
でも、不思議と温かい気持ちになった。
まるで、誰かに見守られているような。
誰かに、「頑張れ」って言われているような。
私は前を向いた。
そして、歩き出した。
新しい世界へ。
新しい人生へ。
---
数週間後。
私は、メタバース内で小さなカフェを見つけた。
そこで、一人の女性と出会った。
彼女も、現実で何かを失った人だった。
私たちは話をした。
過去のこと。
これからのこと。
メタバースでできること。
現実でやりたいこと。
そして、彼女は言った。
「一緒に、何か作りませんか?」
「何かって?」
「メタバース内で、居場所のない人たちのためのコミュニティ。現実で孤独な人が、ここで繋がれる場所」
私は、少し考えた。
それから――
「いいですね。やりましょう」
私は微笑んだ。
新しいプロジェクト。
新しい仲間。
新しい目的。
私は、もう逃げていない。
ここは、逃げ場所じゃない。
新しい生き方の、選択肢。
---
その夜、私は現実世界で、真理子にメッセージを送った。
『真理子さん、元気ですか? 私、メタバースで新しいことを始めました。今度、見に来てください』
数分後、返信が来た。
『おめでとうございます。私も、サクラと元気にやってます。健司さんも、きっと喜んでると思います』
私は微笑んだ。
そして、もう一通、メッセージを送った。
『ありがとう。健司のこと、忘れないでいてくれて』
『あなたこそ。健司さんを、愛してくれて、ありがとうございました』
私は、スマホを置いた。
窓の外を見る。
夜空に、星が瞬いている。
健司は、もういない。
でも、健司が愛した世界は残っている。
真理子が守っている、あの白い家。
サクラが笑っている、あのリビング。
そして――
私が歩き始めた、この新しい世界。
誰かが愛した世界は、消えない。
形を変えて、誰かに受け継がれて、続いていく。
私は、VRゴーグルをもう一度手に取った。
そして、ログインした。
---
メタバース空間。
私のアバターが、草原に立っている。
遠くに、建設中のコミュニティセンターが見える。
まだ、小さな建物だ。
でも、これから大きくなる。
多くの人が集まって、笑って、支え合う場所になる。
私は、その方向へ歩き始めた。
そのとき――
ふと、振り返った。
丘の上に、また人影が見えた。
男性のアバター。
こちらを見ている。
今度ははっきりと見えた。
健司だった。
健司のアバター。
彼は、静かに微笑んでいた。
そして――
ゆっくりと、手を振った。
私は、涙が溢れた。
「健司...」
私も、手を振り返した。
健司は、もう一度頷いた。
それから――
光に包まれて、消えた。
私は、しばらくその場に立ち尽くした。
それから――
「ありがとう」
私は呟いた。
「さよなら、健司」
私は前を向いた。
そして、歩き出した。
涙を拭いながら。
でも、笑顔で。
新しい世界へ。
新しい人生へ。
誰かが愛した世界は、消えない。
それは、次の誰かに受け継がれて、新しい形で生き続ける。
健司が愛した世界。
真理子が守る世界。
そして――
私が創る世界。
すべてが、繋がっている。
すべてが、生き続けている。
私は、もう振り返らなかった。
ただ、前を向いて、歩き続けた。
メタバースの空は、どこまでも青かった。
---
**<完>**
---
## エピローグ
半年後。
世田谷中央病院、603号室。
真理子のベッドの横には、大きなモニターが設置されている。
画面には、メタバース空間が映し出されていた。
白い家のリビング。
ソファに座る真理子のアバター、ルナ。
その隣には、小さな女の子のアバター、サクラ。
「ママ、今日ね、お花が咲いたの!」
サクラが嬉しそうに言う。
「そう、よかったわね」
ルナが優しく答える。
二人は、幸せそうに笑っていた。
そこへ――
玄関のドアが開いた。
「こんにちは!」
新しいアバターが入ってきた。
茶色の短い髪の女性。
亜紀だった。
「亜紀さん!」
サクラが駆け寄る。
「来てくれたんですね」
ルナが微笑む。
「ええ。新しいコミュニティセンター、見てもらいたくて」
亜紀は、二人に手を振った。
「一緒に行きませんか?」
「行く行く!」
サクラが飛び跳ねる。
ルナは、少し躊躇ってから――
「ええ、行きます」
三人は、家を出た。
メタバースの空の下。
三人の影が、並んで歩いている。
過去を共有した、三人。
一人の男を愛した、三人。
そして今――
新しい未来へ向かう、三人。
健司が愛した世界は、こうして生き続けていた。
形を変えて。
誰かに受け継がれて。
そして――
新しい物語を、紡ぎ続けていた。
---
現実世界。
病室のモニターの前で、真理子は目を閉じていた。
でも、その唇には、微かな笑みが浮かんでいた。
彼女は、幸せだった。
メタバースの中で。
サクラと一緒に。
そして、新しい友達と一緒に。
生きている。
本当に、生きている。
---
【終】
【サレ妻】夫のメタバース葬に、愛人のアバターが来た ~誰かが愛した世界は、消えない~ ソコニ @mi33x
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