ウーセーの天体暦

マゼンタ_テキストハック

ボーティン彗星に

 国立天文台のアーカイブ室の冷気が、海斗の首筋を撫でた。彼の視線は、ディスプレイに映し出された古い観測データに釘付けになっている。

 85P/Boethin、通称ボーティン彗星。

 1975年にフィリピンの観測者によって発見され、1986年にハレー彗星と並んで夜空を彩 った後、忽然と姿を消した幻の彗星だ。


 公式見解は『崩壊』だ。NASAの探査計画も目標を見失い中止された。だが、海斗は諦めきれなかった。1986年の最後の観測記録。その電波スペクトルの中に、彼は奇妙な揺らぎを見つけたのだ。それはあまりに微弱で、これまでノイズとして処理されてきたものだった。しかし、パターンを重ね合わせると、そこには明らかにリズムが隠されていた。それはまるで声のようだった。


 海斗はそのパターンを音声化し、世界中の言語学者に送った。しかし、返ってくる答えは「該当する言語は存在しない」というものばかりだった。万策尽きたある夜、海斗はネットの海を漂う中で、偶然あるツールを見つけた。星泉ほしいずみという言語学者が作った「地名・人名データベース」。チベット語の固有名詞を、原音に忠実なカナ表記に変換するというものだ。


 彗星と何の関係があるというのか。半信半疑のまま、海斗はツールの解説ページを読み進めた。「なるべく原音に近く、しかも全体として一貫性があり…」。その理念に、なぜか強く惹かれた。藁にもすがる思いで、海斗は開発者の星泉に連絡を取った。


 数日後、星泉から返信があった。彼女は海斗が送った音声データに強い興味を示していた。


『これは失われた古代チベットの山岳方言に似ています。星を読む民が使っていた言葉です』


 星泉の協力のもと、データベースの転写規則を応用してパターンの解析が始まった。画面に、意味のある言葉が浮かび上がってくる。そして、ついに核心となる単語が姿を現した。


「'od zer…」


 星泉が、その意味を告げた。

『ウーセー、と読みます。意味は、“光”です』


 光。その瞬間、海斗の中でバラバラだったピースが一つの絵になった。ボーティン彗星は消えたのではない。自ら光を失ったのだ。彗星は崩壊したのではなく、木星との軌道共鳴の中で、静かに眠りについているだけなのではないか。そして、あの信号は、再び「光」を取り戻す時が近いことを告げる、彗星自身のメッセージだったのだ。


 解読したデータは、2031年末に彗星が通過する新たな座標を示していた。それは、これまでの予測とはわずかにずれた、誰も注目していなかった宙域だった。


 海斗は星泉に深く感謝し、ディスプレイを閉じた。

 まだ世界は何も知らない。

 だが、それでいい。失われた光が戻るその日まで、あと数年。彼は、遠いチベットの地にいるであろう協力者と共に、静かにその時を待つつもりだった。夜空を見上げると、冬の星座が瞬いていた。あの中のどこかに、今は見えない「ウーセー」が旅を続けている。その確信だけが、彼の心を温めていた。

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