毛布
維々てんき
毛布
ここでこの男を追い抜いたら、どうなるだろう。そんなことを考えながら、自転車を走らせていた。前方には、私と同じスピードで自転車を漕いでいる男がいた。男と私は、同じ方向に向かって、同じスピードで自転車を漕いでいるという点では、非常に似通っていた。時折すれ違う、犬の散歩をしている老人や、サッカーボールを持って走ってゆく子供たちからすれば、男と私の間には、何らかの関係性があるように見えるほどだった。だが、男と私はここで初めて会った赤の他人であり、遠目では似通っているように見えた二人は、近くで見ると様子が大きく異なっていた。私は、大学の合格祝いで母に買ってもらった、イタリア製の赤のロードバイクのギアを4に設定し、ウミガメが大海原をゆったりと泳ぐときの鰭の様相で股関節をゆるやかに回転させていた。緻密な計算の上で設計された歯車は、最小限の動作でも十分な推進力を生み出し、きれいに舗装された新興住宅地のアスファルトをスムーズに走っていた。一方で、男はみすぼらしいものだった。自転車屋の一番奥で激安! と紹介され、肩身を狭くして佇んでいるようなにびいろの自転車のペダルを、そうしていないとすぐにでも心臓が止まり、息絶えてしまうかのような勢いで高速回転させていた。男の自転車はシャコシャコシャコ……と不愉快な金属音をあげ、地面のわずかな段差でチリンチリンと鈴を鳴らしながら、私のすぐ前方を走り続けていた。白髪交じりの頭がもさもさと、男とは独立した生き物のように揺れていた。男からはほんのりと、祖母の家の洋服箪笥で嗅いでいたような、化学的な刺激臭の風が吹いてきていた。私はペダルの回転数を上げ、男との距離を詰めようとするのだが、そのたびに男はこちらを振り返り、両のペダルに全体重を掛けるようにすっくと立ちあがると、今までよりもしゃかりきにペダルを漕ぎ始めた。男と私は、近づいたり離れたりしながらしばらく進んでいたのだが、ふと、私の頭にとあるアイデアが浮かんできた。ここで、この男を追い抜いたらどうなるだろう。どうやらこの男は、突発的に生じた私との勝負に全力を尽くしているようだった。ここで私がこの男を追い抜いたら、この男は、負けじと喰らいついてくるだろうか。それとも、すぐにこの無謀な挑戦を諦めるだろうか。どちらにせよ、この男の負け顔を見たいと思った。こんなくだらないことに全力を燃やすどうしようもない男を、圧倒的なマシンの力量でねじ伏せ、追い抜いて、振り返って、笑ってやりたいと思った。そして、追い抜くことにした。ギアを最大の6に設定し、かちり、かちり、という音を立てて一層重くなったペダルを、思い切り踏み込んだ。向かってくる空気の抵抗が強くなり、耳や襟足で重力に甘んじていた髪の毛がぶわっと浮き上がる感覚と共に、男の背中は大きくなり、私の視界の左端をかすめ、そして消えた。そのときだった。「おぉぉぉぉぉぉい!」予期していなかった怒号に、思わず肩が跳ね上がった。いよいよトップスピードに入り、さらに速く回転させようとしていた足が止まる。明らかに、男から私へ向けられた怒号だった。男は、急激にスピードを落とした私を一瞥したが、すぐ前を向き、不格好な立ち漕ぎのフォームでシャコシャコシャコ……と走っていった。男からは、真夏日に散歩している犬のような、荒々しい呼吸音が聞こえていた。「キチガイじゃねえか。」速く打ち始めた心臓を安定させるために、私はギアを落として、低速で走った。男の背中は徐々に小さくなり、やがて、微動だにしない遠くの風景の一部となった。
1年ほど続けていた塾講師のバイトをほとんど飛ぶ形で辞めたのは、大学2年生の4月のことだった。原因は、世の中と私の間における理想の塾講師像の乖離だった。私にとって理想の塾講師像とは、とにかく生徒に好かれる人物であり、授業中に雑談を設けたり、授業を早く終わらせたり、宿題の量を限りなく減らしたり、自分なりに考え様々な努力をしていた。その努力がどうやら間違ったベクトルに向いていたらしい、と気づいたのは、私以外での飲み会が開催されていたことを生徒づてに知った、とある日のことだった。しかし、そのベクトルを正しい向きに修正するにはあまりに遅く、そしてタイミングが悪かった。私は、飲み会の存在を知った次の週から1か月、免許合宿で欠勤してしまった。久方ぶりに出勤した学習塾には、長期欠勤していた男を強く拒絶するような雰囲気が流れていた。「おはようございまーす。」カランカラン、とドアに取り付けられた鈴を鳴らしながら、長らく訪れていなかったビルのフロアに挨拶をする。いつもニコニコと挨拶を返してくる受付の学生バイトが、「あー……」と、何か言いたそうな顔をしながらこちらを見つめている。返ってくるはずの反応がなく、居心地の悪い気持ちでデスクに荷物を置き、そのままファイルと教科書を持って授業を行う教室に向かった。その教室では、げっ歯類のような顔をした、笹塚という背の低い女が、熱心に授業の準備をしていた。笹塚は私の存在に気付くと、わっ、と小さな声を上げ、言い訳をするような口ぶりで言った。「あ、あれ、なんか塾長から辞めたって聞いて、えと、私がこのクラスを引き継いだんですけど、あれ、おかしいな……」なるほど、塾長は私の長期休暇を利用して、私の立場を合法的に奪ったらしい。その結論に至るまでに、長い時間はかからなかった。あたふたしながら更に何かを言おうとしている笹塚を制するように、私は言った。「分かりました。すみません、授業、お願いします。何かあったら、聞いてください。」ハ、ハイ! と、笹塚は背筋を伸ばした。突然仕事がなくなった私はフロアをうろうろしながら、今まで受け持っていたクラスの様子を眺めていた。大きな身振り手振りを使って授業を行う笹塚のシルエットが、すりガラス越しにてきぱきと動いていた。笹塚とは、一度だけ同じ電車で帰ったことがあった。22時に授業を終わらせた私は、授業後の締め作業を適当に済ませて、さっさと駅に向かった。私は、いつも乗っている22時10分発の電車に乗り込み、ホームを眺めながら、ドアが閉まるのを待っていた。発車のアナウンスがあり、電子音と共にドアが閉まるのと、笹塚が私の目の前に飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。ぜえ、ぜえと肩で息をし、膝に手をついている笹塚の胸元から、ほんのり色づいた白色の肌が見えていた。白色を見下ろすような形になった私の視線からは、ゆるやかなカーブを描く左右の膨らみと、ちょうど胸部の中央の、窪んだ暗がりが見えていた。中高6年間を男子校で過ごしてきた私にとって、それはなにやら恐ろしいもののように見えた。ずっと覗いていると、視線がその暗がりに捕えられ、もう二度と出てくることができなくなるような気がした。慌てて目を逸らすと、目の前には脱毛の広告があり、浅黒い肌をしたモデルが、ざっくりと胸元の空いたドレスを着用していた。広告の女の胸元には、やはり笹塚と同じような、乳房の間の暗がりが存在していたのだが、それは、これまでの人生で何度も目にしてきた単なるインクの濃淡であった。広告の女をじっと見つめていると、笹塚が話しかけてきた。「お疲れ様です。へへ。」駆け込み乗車を同僚に見られたことが恥ずかしかったのか、まだ関係を築いていない私と同じ電車に乗ることが気まずかったのか、笹塚は困ったような顔をしていた。私は「お疲れ様です」と返し、お互いに軽い自己紹介を終えると、笹塚が訪ねてきた。「脇田さんは、なんで塾講師のアルバイト始めたんですか?」笹塚の大きな目が、私を見つめているのが分かる。どう答えるのが正解なのだろうと、私は考えていた。私がこのバイトを始めた理由など、無かった。大学入学前、母に「ここがいいんじゃない?」と勧められ、母の作った台本で電話を掛け、適当に面接をしたら、受かった。それだけのことだった。「時給がいいからっすね、やっぱり。」最も普通の大学生っぽい理由を考え、普通の大学生っぽくそれを言うと、笹塚は煮え切らないような顔をして、「やっぱ、そうですよねー」と大きな目を逸らした。その行動が気になって、笹塚に尋ねた。「え、逆に、なんで、このバイト始めたんすか?」笹塚は、私に向き直って、再度大きな目を向けてきた。「私、教員になりたいんです。教えるのが好きなんです。」あー、と思った。私は「へー、そうなんすね」と一呼吸おいて、笹塚に事実を投げかけた。「でも、教員ってブラックらしいじゃないですか、残業とか、月100超えるらしいし。よくそんな職業就こうと思いますね。」笹塚は、私を見たまま、少し考え込んで言った。「ブラックかどうかって、えっと、結局その人によると思います。今は、SNSで、他人のことがわかっちゃうから、いろんな職業の劣っているところばかり目についちゃうけど、うーん、自分の強みとその職業のデメリットがうまく噛み合ってれば、他人からはブラックに見えても、自分にとっては全然ブラックじゃないっていうか。」頼りなさげだった口調から、徐々に自分の発言に自信を滲ませつつ、笹塚は演説を続けた。「私は、生徒の笑顔とか、成績が上がるところとかを見れば、やっていけると思うんです。勤務時間は長くても。ほら、えっと、ゲームとかしますか? ゲームしてるときの夜更かしって、全然つらくないじゃないですか。そんな感じ。わかります?」ありきたりな回答だ、と思った。教員を志すものは、みな同じような回答をする。生徒の笑顔が、成績向上が、労働時間を減らしたり、給料になったりするだろうか。私は口元に笑みを浮かべながら、「あー、確かに、なるほど、めっちゃ真面目ですね、尊敬します」と適当な相槌を打った。その相槌は、同意と言うよりも、次の話題へ向かうためのゆるやかな方向転換のつもりだった。笹塚はくすくす笑い、「そんなことないですよ」と、自身の真面目さをやんわり否定した。私は、笹塚から目を逸らし、広告の女を見つめながら、尋ねた。「どうですか、この後、どっか飲みとか。」笹塚は一瞬私を見つめると、げっ歯類のような顔を申し訳なさそうにくしゃっと歪ませて言った。「すみません、うち、門限厳しくて、駅に親が迎えにきてるんです。」妙に間延びした、何かを演じるような声だった。「どっか飲みとか」。そのセリフを口にするためにドクドクと鳴っていた心臓が、徐々に平常のスピードに戻ってゆく。いつもこうだ。いつになったら、普通のステータスを手に入れることができるのだろう。私は「すみません」と呟くと、吊革を掴む手に力を込めた。「全然、こちらこそ、ごめんなさい」と、笹塚がまたも演じるような声で言った。私が発した謝罪と、笹塚が発した謝罪、どちらも相手に申し訳なさを感じての謝罪ではなく、自己防衛のためのものだった。笹塚の瞳に、私が映っていた。その大きな瞳が、私の無様な姿をわざと映しているように感じた。私は、女性経験がなかった。大学に入れば自然と女性に出会い、自然と親密になり、自然とセックスができるものだと思っていた。男子校の同級生は続々と初体験を終え、会うたびに、何かを成し遂げたような、勝ち誇った顔で体験談を語った。私もそういった奴らに負けないようにと、自分なりの知識で初体験を済ませたように装っていたが、実際にセックスを経験した彼らにとって、私の言動は極めて不自然に写るらしく、すぐに見抜かれてしまうのだった。彼らはいつも、「まず飲みに誘え」「とにかく酔わせろ」「別れた子とか、弱ってる子がチャンス」などと、人間を相手にするのではなく、まるで数学の問題を解くように、セックスに至るまでの道筋を説明した。私には、そんな彼らが動物に見えた。飲みに誘い、うすら寒い雑談をし、多くの金額を支払い、そして目標のセックスに至る。そんな彼らが、求愛のためにダンスを踊る鳥や、大きな音で鳴く虫のように見えた。愛想笑いを浮かべながら、セックスを経験した彼らと、未経験の私の違いについて考えていた。私は、セックスがしたかった。しかし、それは愛や欲望によるものではなく、「セックスをした」というステータスを手に入れるためだった。この世界では、経験のある人間と経験のない人間で他人からの評価が大きく変わるようだった。そしてどうやら、経験のある人間の方が経験のない人間より、格上のようだった。なぜそんな評価軸が存在しているのか私には全く理解できなかったが、とにかく経験しておかないと、社会では馬鹿にされてしまうようだった。生物としてなんの意味も持たない、子孫の繁栄を目的としない性行為が、自身の生物としての価値を高めるようだった。なので、私はセックスがしたかった。「セックスをした」という事実で、経験者に馴染み、未経験者を馬鹿にしたかった。ひとたび経験者というステータスを手に入れれば、私から「セックスをしたい」という欲望は消え去るだろう、という確信があった。私には性欲があり、異性の裸で興奮し、オーガズムに達する。だが、その欲望を、自分以外の人間と共に解消したいとは全く思わなかった。わざわざ誰かを愛し、誰かに愛されるという行為は、私にとって難解だった。それを言うと、社会は「まあ、多様性の時代だしねえ」と、私の言い分も聞かずに何やら納得した様子で去ってゆき、「多様性」に含まれないほうの仲間と、動物の求愛行動のような、セックスが目標である恋愛の話を始めるのだった。普通の人間として社会に紛れるには、セックスをしておいたほうが良いようだった。だが、本気度の無さというか、そういうものが滲み出ているのか、女性へのアプローチが成功することはなく、大学に入学してからの間、結局初体験には至らなかった。そして、今回も失敗だった。笹塚が、私をセックスの対象に選ぶことはなかった。笹塚は、喋り続けていた。私の落胆に気づいているのかいないのか、自身の仕事論、キャリアプラン、生徒の尊さについて火が付いたように語りはじめた。それは私に向けてというよりは、自分の教師という選択を正当化し自分以外の職業を威嚇するように、車両全体に、ひいては社会全体に向けて発信しているようだった。演説をぼんやりと聞きながら視線を前に向けると、そこにはやはり広告の女がいた。広告の女の乳房の間の暗がりと、それぞれの家庭の灯りが現れては消えてゆく夜の車窓を交互に眺めながら、一刻も早く最寄り駅に到着してほしいと考えていた。それっきり、笹塚と同じ電車で帰ることはなかった。彼女は、いつも残業をしていた。22時に授業を終えると、その日の生徒の様子などを逐一メモし、次回の授業に役立てようとしていた。それが彼女にとっては、時給1500円の当然の義務であり、自分が他の人間と比べて真剣に業務に取り組んでいるという自覚もなさそうだった。「お疲れ様です、お先失礼します」と挨拶をして塾のドアを出ると、笹塚のはきはきとした「お疲れ様です!」という声が、後頭部にぶつかった。私は笹塚のような、「いい奴」が嫌いだった。
現在進行形で私のクラスを受け持っている笹塚は、本当に楽しそうに授業をしていた。わずかに開いている教室のドアの隙間から、授業の音が漏れてきていた。「だから、この三角形の面積は、16平方センチメートルになります。みんな、分かった?」「合ってたー。」「え? 簡単じゃん。」「せんせー、この三角形にはサンヘイホーの定理は使えないの?」「あー、いい質問! 三平方の定理は、角度が直角のときだけ使えるんだったよね!」「あ、そっか!」「お前バカだなあ。先生、何回も言ってたじゃん。」「うるせー。」生徒たちもすっかり懐柔されており、私の授業では決して耳にすることのなかった、知的好奇心による質問が聞こえてきていた。授業から脱線してインフルエンサーや学生生活の話をせずとも、生徒たちは楽しそうに笑っていた。明らかに、私の居場所はなくなっていた。いつもぎょろっとした目で周りを見渡し、自習室での居眠りを注意し、生徒たちから嫌われていた塾長からは、「その書類整理しといて」としか言われなくなった。授業がなくなった私が学習塾に出勤する意味は全く無くなったのだが、時給はかなり良かったため、窓際族として何か月か勤務していた。しかし、決して広くはない塾のフロア全体に漂う、早く辞めろオーラに圧され、塾長に〈辞めます〉とだけメッセージを送り、ろくに手続きもしないまま辞めた。笹塚の台頭で、突然飛んでも誰にも迷惑が掛からないことが、不幸中の幸いだった。学習塾を辞めてから、一度だけ笹塚を見た。23時。門限があるはずの彼女は、私の最寄り駅で同年代の男と歩いていた。その男には、見覚えがあった。同じ学習塾に勤めていた男だった。彼らは私に気付くと何やらひそひそと話し、顔を見合わせて笑うと、べったりとひっついて学生街に消えて行った。街灯に照らされた彼らのシルエットが、四本足の生き物のように見えた。
学習塾のバイトを辞めてから、私はなかなか次のバイトを探せずにいた。私は、ベッドに乱雑に放置されている、ぼろぼろの茶色い毛布に話しかけた。「なあ、俺、また働かなくちゃいけないかなあ、怖えよ、働くの。」毛布は乱暴な口調で、私の問いかけに答えた。「いいんじゃねえか? ほら、母さんに仕送り多くしてもらってさ、適当に生きようぜ。」「金はいいんだよ。まあ、最悪どうにかなるし。でもさ、働きたくないとはいっても、ずっとバイトしてないってのはさ、なんか世間体が悪いっていうか、ダサくね?」「なんだよ、働きたくないって言ったり、働きたいって言ったり。まあ、親の仕送りだけで生活してるってのは、確かにダセえな。俺は毛布だから、世間体とか、分かんないけど。ははは。」毛布は、私にくるまって、続けた。「でもよお、お前、もう一回バイトを始めるには、電話しなきゃいけないぜ。お前、電話、大っ嫌いだろ?」「いやあ、それだよなあ。」私は、毛布の言う通り、電話恐怖症だった。電話には、高度な一般常識とコミュニケーション能力が求められている気がした。はじまりの挨拶から終わりの挨拶まで、音声のみで執り行わなくてはならない。人類が進化させてきた顔面の筋肉を全く使うことなく、自らの意思を音声のみで正確に伝えなくてはならない。いつからか私は、電話を掛ける際に、台本を作るようになっていた。名乗るところから、失礼します、の終わりの挨拶まで。しかし、その通りに事が進むことはほとんどなかった。台本は、相手の応答次第で容易に崩れてしまう。想定外の応答を必要とされると、私の頭は真っ白になり、「えっと、えー」などと、意味のない単語を淡々と発する機械になってしまうのだった。私は、毛布にくるまって聞いた。「俺、どうやって塾講始めたんだっけ。電話してたっけ。」「してたよ、母さんの作った台本で。そのときも、こうやって俺にくるまって。あ、あわ、とか言って。」そう言うと毛布は、はははと笑った。うるさいな、と私が言うと、笑い声をあげたまま肩からはらりと落ちた。
電話という存在にうじうじしていたとき、私の目に飛び込んできたのが、近くのコンビニ、ファミリーストアの求人広告だった。私がファミリーストアを新しいバイト先の候補に選んだ理由は単純で、ウェブから面接に応募できたからである。ウェブで申し込むのに、常識やコミュニケーション能力はいらない。自分の予定と照らし合わせ、ボタンを押すだけで良い。電話が億劫で新しいバイト探しに難航していた私は、番号の代わりにQRコードが掲載されていたファミリーストアの求人広告に、真っ先に飛びついた。ここ数週間毎日のように降り続く雨の中、アパートから歩いて20分のファミリーストアへと向かった。平日の昼間ということもあり、バスケットコート三面は作れそうなほどの広々とした駐車場には、車の影もまばらだった。遠くからでも目立つ緑色の看板が、放置されたプールの水面のように、鈍く光っていた。私は緊張していた。いくらウェブで申し込めると言っても、ここからは対面である。まず、店内の人間に、面接に来た意思を伝えなくてはいけない。私は一度大きく息をすると、意を決して自動ドアに入った。ドアが開くと大仰なチャイムが店内に鳴り響き、眼鏡をかけた中年のパートの女と、三十代くらいだろうか、顔年齢の割に頭が寂しい小太りの男が、レジで談笑していた。私はまっすぐ二人の方向へと向かった。二人は談笑を止め、普通の客とは異なる様子で一直線にレジへ突き進んできた私に視線をよこした。「あの、すみません、面接で……」そこまで言うと、男のほうが遮るように口を開いた。「あ、脇田くん? どぞどぞ、こちらへ。」男はそう言うとにかっと笑い、私をバックヤードへと案内した。その笑顔は柔らかく、初対面の私に安心感を与えた。小太りの男は私より少し背が低く、ひょこひょこと歩いていた。両足が地面に着くたびに振り子のように揺れる左手には、結婚指輪が嵌められていた。「ごめんね、雨、濡れてない?」と、男は言った。「ちょっと濡れました。」私は、少し濡れたズボンの裾を気にしながら答えた。段ボール箱でいっぱいのバックヤードには、ぎりぎり二人が休憩できるほどの小さなスペースが作られており、椅子が二つ、向かい合わせに置かれていた。男はそのうちの一つに腰かけ、私にもう一方の椅子に座るよう促した。所狭しと書類が貼り付けられ、誰かが持ってきたお土産だろうか、ヤシの木の包装のクッキーが2、3枚、机の上に乱雑に放置されていた。かすかに饐えたような匂いが漂っているが、男の匂いなのか、バックヤードの匂いなのかはわからなかった。「じゃあほんと、形式的になんだけど、面接のほう始めますね。僕がここのオーナーの、西です。」西、と自己紹介した男の名札には、にし、とひらがなで書かれていた。まだ七三で前髪を分けることが可能だったころの西の写真が時の流れを感じさせたが、少し丸くなって髪が薄くなった今のほうが、客に威圧感を与えることなく、接客には好印象であると思われた。「脇田くんは、いま、大学生?」「はい、2年生です。」「他のところでバイトは?」「いや、してないです。」「はい、ありがとう。2年生だとどうなんだろう、授業とか忙しいのかな、週どれくらいいける?」「夜勤で入りたくて、平日で2日くらい入りたいなと思ってます。」夜勤、という言葉を聞き、西が「おっ」と小さく声を出した。「助かるよ。今、僕と、スグルくんって大学生と、岸本さんっていう人の3人で回してて。」西はそう言うと、引き出しからシフト表を取り出した。月曜日から日曜日までの7日間が、朝、昼、夜の3つの時間帯に分けられている。朝、昼はたくさんの名前が色分けされてカラフルに記されていたが、夜の枠は3人の名前しか入っていなかった。西はシフト表を見て少し考え込むと、「じゃあ、月曜と火曜の夜、入ってもらえるかな。22時から朝8時まで。」と言った。どこの曜日でも一緒だろう、そう思って、二つ返事で同意した。「よし、ありがとう。口座とかの諸々は初出勤の日にもってきてもらえば。まあ、また連絡します。」そう言うと、西はずっと抱えていたバインダーを置き、名札の紐をくるくると指に巻き付け始めた。「脇田くんは、なんかサークルとかは入ってるの?」完全に雑談に切り替えたのだろうか、先ほどまで地面にしっかりつけていた両足を組み、椅子に深く腰かけた。ついさっきまで優しく物腰の柔らかい口調だった西は、まるでここからが本当の面接だというように、私の人となりを見極める様子に変貌した。私は、これから始まる問答を予感して暗澹とした気持ちになりつつ、わざと自信のなさそうな声で言った。「一応、お笑いサークルに入ってます。」「お笑いサークル! お笑いって、あのお笑い? え、意外だなあ。脇田くんすごい真面目そうじゃん。」ほら来た、と思った。意外、真面目そう、何度もかけられてきた言葉だった。真面目なやつ、静かなやつがお笑いをやってはいけないのか。どうせお前らが想像するお笑いサークルの学生像なんて、飲み会でハメを外し、夏はバーベキューに行き、サウナをこよなく愛する、つまらないやつのことなんだろう、と内心悪態をつきつつ、「そうですね、よく言われます。」と、口の左半分だけで笑顔を浮かべながら答えた。西は続けて、「え、漫才? コント? ボケ? ツッコミ?」と聞いてきた。これも頻出質問だった。本当に知りたい情報ではなく、お笑いといえば、という自分の枠に、目の前の人間を当てはめたいだけなのだろう。そもそも私がどういうお笑いをしているのか、本当に知りたい人がいるだろうか。コントをやっていたら、時給が100円上がるのだろうか。一番腹立たしいのは、これを聞いてくる奴らの中に、必ずと言っていいほどピンの選択肢がないことだった。「コンビとかは組んでなくて、一人でやってるんです。フリップとか。」「へー、そうなんだ。」西は栓を抜いた風呂のように急激に興味を失ったように見えた。やはり社交辞令だったのだろうか、それとも、西の中にピン芸人の知識がなかったことによるものなのだろうか、どちらともとれる雰囲気だった。自身のことに関して根掘り葉掘り聞かれる嫌悪感が私の顔に出ていたのか、突然西が柔らかい口調に戻って、「えーと、面接は以上です。どうしよう、来月から来てくれるかな?」と聞いてきた。特段勤務開始を先送りする理由もなく、「はい、わかりました」と頷く。「よし。じゃあ7月は火曜始まりだから、またその日に。僕もその日は出勤しますんで、いろいろ教えながら。慣れてきたら岸本さんっていう人と二人で入ってもらうことになると思います。」そう言うと西は立ち上がり、後ろの買い物カゴからワカメがたっぷり入ったうどんを取り出すと、「これ、廃棄。ここオーナー店だから、基本持ち帰ってもオッケーです。よかったら。」と差し出してきた。「ありがとうございます。いただきます。」私は、トートバッグにうどんを水平にしまった。バックヤードから出ると、パートの女のレジには列ができていた。西は女に謝りながらレジに向かい、カウンター越しに言った。「じゃあ脇田くん、また来月に。」「あ、はい、えっと、ありがとうございました。」一応、パートの女にも聞こえるように挨拶をする。女は、レジを打ちながらこちらへ軽く目を向けたが、その視線はすぐに商品のスキャンへと戻った。店を出ると、雨はすっかり止んでいた。立ち昇る水蒸気が大気中に発散され、まとわりつくような空気が不快だった。ギターソロのように、早めに出てきた蝉が一匹だけ鳴いていた。黒っぽく湿ったアスファルトを踏みしめながら、傘の先をつま先で蹴って歩いていた。面接、案外簡単だったな。そう考えていた。心配事は、いつもこうやって、あっけなく終わる。電話も、いつもあたふたするが、あたふたしている間に終わっている。なんで私は、あんなに怯えていたのだろう。あんなに緊張していたのだろう。開放感から、歩幅が大きくなる。ぽん、ぽん、とつま先に当たるたびに、傘から水滴が飛んでゆく。せっかく一度乾いたズボンの裾が、またびちょびちょになっていた。家に帰って、貰ったうどんを昼食にした。賞味期限の切れたうどんは、本来のコシを失っているのか、もとからこういう食感だったのか、単に小麦を麺の形に成型しただけの物質、というほかのない味がした。ベッドの上の毛布が、話しかけてきた。「どうだったんだよ、面接。」「普通だよ。」「普通じゃわかんねえけどよ、まあ、あのオーナー、良いやつそうじゃねえか。なあ。」毛布は、山折りになった箇所を見せびらかすように佇んでいた。私は、その山折りの部分をそっと撫でるのが好きだった。山折りの部分からは羽毛が突出していて、指の腹でその部分を触ると、毛布の柔らかさの根源に触れているようだった。私は、その突出した羽毛にくちびるを近づける。感覚器官のたくさん詰まった皮膚で、毛布の柔らかさをより鮮明に感じる。これをしているとき、毛布は喋らない。くちびるで羽毛をなぞりながら、他の山折りを探す。ぐちゃぐちゃに丸まった毛布の表面では、山折りになっていない部分の方が少なかった。指の腹で山折りに触れ、羽毛をつまむ。繰り返していると、徐々に毛布が広がってくる。私はそれに身を委ね、ベッドに倒れる。そして、毛布にくるまる。そうすると、触ろうとせずとも全身が羽毛に触れる。身をよじると、普段は露出していない、二の腕やふくらはぎの皮膚が羽毛と擦れる。セックスは、こんな感じなのだろうか。私にとって、宇宙と同じくらい未知の世界について、突出した部分をくちびるでなぞりながら、考えていた。
初出勤日はすぐにやってきた。夜の20時。シャワーを浴びる。いつものように、頭髪、上半身、下半身の順番で泡を付着させ、擦り、湯で洗い流す。だが、その後にバイトが控えているというだけで、妙に落ち着かない気分だった。塾講師をしているときに味わっていた、バイトに情緒を左右される感覚を思い出す。退勤と同時に精神が解放されたかと思えば、徐々に次の出勤まで蝕まれてゆく感覚。何かの講義で習った、エビングハウスの忘却曲線というのによく似ていると思った。さっきまで着ていた部屋着を洗濯機に投げ入れ、黒いTシャツとスキニージーンズに着替える。シャワーを浴びる時刻は変わらないのに、部屋着から外出着に着替えるという行為が、普段の人生を逆再生しているようで妙に気持ち悪かった。外に出ると、身体中を舐めるような空気が絡みついてきた。日中はあれだけうるさかった蝉がすっかり鳴き止み、ジー、というおもちゃのモーター音のような虫の鳴き声が聞こえていた。ジー、ジー、ジー……。断続的な、性交を求める音色を聴きながら歩いていると、ファミリーストアの看板が見えてきた。看板は、昼間に比べてわずかに膨張しているように見え、近くを通る人間の肌をほんのり緑に染めていた。昼勤の店員に挨拶をして、バックヤードへと向かう。店内は、顔を紅潮させたいくつかの学生グループや、残業終わりで疲弊しきっているスーツ姿の男などでごった返していた。バックヤードには、すでに西がいた。シフト表を作成していたのだろうか、パソコンの画面をじっと睨みつけていたが、私の存在に気付くと笑顔でこちらに振り向いた。「あ、おはよう。久しぶり。元気してた?」「おはようございます。はい、元気でした。」はは、良かった。西はそう言うと、いくつかの書類を私に差し出し、捺印を求めた。軽い書類のやり取りを終え、西と軽い雑談をしていると、22時ぎりぎりになってバックヤードの扉が開いた。「おはようございます。」低い声だった。その声は、私よりも一回り背の低い、小柄な男から発せられていた。40代、もしかしたら50代ぐらいだろうか。ぼさぼさの白髪混じりの頭。前髪は鼻頭まで掛かり、その奥から、小さな目がのぞいていた。男は、初めてバックヤードに姿を現した私を、じっと凝視していた。その目は、祖父母の家で飼っていた猫に、よく似ていた。他の人間には懐くのに、なぜか私には決して心を開かなかった猫。近づこうとすると、警戒するようにじっとこちらを見つめ、口を大きく開けて威嚇してきた猫。その猫の目にとてもよく似ていた。私はこの男に、見覚えがあった。この男は、数か月前私に自転車で勝負を挑み、負けそうになると大声で威嚇し、ペダルを漕いで去っていった、あの男に違いなかった。気づいているのかいないのかわからないが、男は、警戒するような視線を崩さなかった。怖気づいている私に気付き、西が慌ててお互いを紹介した。「こちら、今日からの脇田くん。で、こちらが岸本さん。」「わ、脇田です。すみません、よろしくお願いします。」「よろしく。」短く言うと、岸本は制服に着替え、西と私の間にずいっと割り込んでタイムカードを押すと、そのまま何も言わずに店内へ出ていった。西は私のほうを見て、苦笑した。「まあ、悪い人じゃないから。」その言葉が、狭いバックヤードに空々しく響いた。任された仕事は極めて単純で、覚えやすいものだった。深夜に届く冷凍食品や飲料の品出し、フライヤーの清掃、店内のモップ掛け。あとは合間にレジを打つ。それだけだった。西はそんな単純作業でも、やりすぎなくらい丁寧に教えてきた。「ここね、ちょっと段差あるでしょ?結構みんな躓くんだよ。ここ通るときはちょっと慎重にね。」「あ、はーい。」「あと紙パックなんだけど、これ高く積みすぎちゃうと倒れやすくなるから、絶対ちょっとずつ運んでね。めんどくさいんだよね、これ倒すと。」「はい、わかりました。」他人から見て、一番話を聞いているように見えるタイミングで、一番話を聞いているように見える相槌を打つ。私は内心、こんな単純作業に注意点もクソもあるかよ、と考えていた。西の懇切丁寧な指導を受けながらでも、朝の5時にはすべての業務を終えることができた。岸本もすでに業務を終え、私と西、岸本の三人は、並んでレジに立っていた。30分に1回客が来るか来ないかといった閑散とした時間帯だったため、私と岸本の距離を近づけようと、西が雑談を始めた。「脇田くん、お笑いサークルに入ってるらしいですよ。しかも一人でネタして。」西が振ると、岸本は顔色ひとつ変えずに応じた。「へえ、意外ですね。真面目そうなのに。」その言葉に西がすぐ乗っかる。「そうですよね、僕もそう思ったんですよ。お笑いとかする感じじゃなさそうですよね。」ははは、意外としますよ、と乾いた笑いを浮かべながら、やんわり否定する。「真面目そうなのに」と言われることにもう慣れきっていた。お笑いは、明るく社交的な人間が、コンビを組んで、力を合わせてやるものだと決めつけてくる浅はかさ。それが腹立たしかった。岸本も何もわかっちゃいない、そう思った矢先だった。「でも、意外とそういう人のほうが、面白いこともあるしなあ。ほら、あの、サイコロポテトの、吉田? 知ってますか? あの人もけっこう、私生活では静からしいし。」岸本の口からサイコロポテトの名前が出た瞬間、私は思わず「えっ」と声を漏らした。去年の漫才のコンテストで惜しくも準優勝。独特な間合いと緻密な構成で一部のファンから天才と称えられながらも、ロケやひな壇などのテレビ仕事が苦手で、一般的な知名度はまだ低い。そんなサイコロポテトの名前が、この男の口から出てきた。私は、尋ねた。「岸本さん、お笑いとか見るんですか?」岸本は、駐車場の奥に目をやりながら、ぽつりと答えた。「うん、結構。」その言葉は短かったが、妙な説得力があった。
「じゃあ、お疲れ様でした。」私が退勤の挨拶をすると、西は「おつかれ~」と手をひらひらさせ、岸本は何も言わず、スマホの画面を見つめたままだった。何だこいつ、と思ったが、思っただけで特に口にすることはなく、私はバックヤードから出た。私は、自分が品出ししたパック飲料の棚を眺めて帰った。そこには兵馬俑のように、棚いっぱいにぴっしりと飲料が詰まっていた。朝早くコンビニに来ればこんな光景が見られるのかと思い、しばらく眺めていると、高校生が私の前をさっと横切り、ミルクティーを1本、そこから取っていった。歯抜けになったその棚は、1本抜けただけで妙にみすぼらしく見えたが、勤務時間を終えた私にそれを直してやる義務はなく、そのままにして店を出た。帰って、昨晩見れなかったバラエティ番組を流し始めたとき、毛布が興味津々に聞いてきた。「おい、おい、バイトはどうだったんだよ。辞めろって感じのオーラは出てたか?」私は、廃棄の弁当を温めながら答えた。「初日だぞ? 出てるわけないだろ。」「同僚はどんな奴なんだよ。学生か?」同僚、という言葉を聞き、岸本の顔を思い浮かべる。「なんか、前、話した、自転車のジジイいただろ?」「ちょっと待て、お前、まさか……」毛布は、今にも吹き出しそうな勢いだった。私は続けた。「あのジジイが、同僚だった。」「マジかよ! あのキチガイジジイが? 同僚? は、はは!」毛布は笑い、私をくるんだ。冷房のせいで少し冷えていた肌が、ほんのり温まってゆく。「ピー」というレンジの音が聞こえたが、私は立つことができなかった。初めての夜勤で思っていたより疲れていたのだろうか、毛布の柔らかさがもたらす安心感で、瞼が勝手に下りてくる。温めた弁当をレンジの中に放置したまま、ベッドに倒れ込んだ。流れているバラエティの音声が、大きくなったり小さくなったりを繰り返す。鼻腔を、ケチャップとソースの匂いがくすぐる。ああ、後でもう一回温めなくちゃ。バラエティも、もう一回見なくちゃ。私は、完全に記憶が飛ぶ前に、言葉をひり出した。「でも、そいつ、お笑い好きっぽいし。仲良くなれるかも。」毛布の返答はなかった。
岸本と打ち解けるのに、長い時間はかからなかった。私の好きなリンシャンカイホウというコンビを、岸本が結成当初から追っていたこと。去年の漫才のコンテストは、優勝した横弾幕ではなく、サイコロポテトが勝つべきだったと思っていたこと。最近、サクラ小町という若手が勢いづいていること――。仕事の手が空くたびに、お笑いの話が自然と出るようになった。岸本は基本的に無表情だったが、時折、にやりと口角を上げることがあった。そのときに覗く、ごちゃごちゃとした歯並びの前歯が印象的だった。けれど、それだけだった。岸本に関しては、お笑いが好きだということ以外、何も知らなかった。住所も、家族構成も、趣味も、何ひとつ。知っているのは、ウエストの6ミリを吸うことと、白髪混じりのぼさぼさの頭と、無愛想な佇まい。それだけ。それだけなのに、私は岸本を「どうしようもない男」だと決めつけていた。岸本は、よく働いた。レジはテキパキとこなし、品出しは速く正確で、廃棄チェックの手際も無駄がない。常連と思われる客と短く言葉を交わし、談笑していることもあった。だがそれが、コンビニでよく働くことが、何だというのだ。「普通」の人間は、岸本ほどの年齢になれば、企業である程度の地位を築き、給与が増えて、家庭を養うだろう。比べて、岸本はどうだ。白髪と、顔の各所に刻まれつつあるシワ。おそらく40代後半か、もしかしたら50代。その年齢で、週5日、コンビニの夜勤バイトをしている。初出勤の学生バイトに愛想のひとつもなく、挙句の果てに、道路で初めて会った人間に自転車バトルを吹っ掛け、負けそうになると大声で威圧する。どうしようもない日常で溜まった自身の鬱屈した感情を、そんな惨めな行為で発散する。こんな人間が、まともなわけがない。私はどこかで、岸本を見下していた。必死に受験勉強をして名門と呼ばれる国立大学に通うことになった私は、人並みに勉強をして、人並みにサークル活動をして、いずれセックスもするだろう。何年後かには、名門国立大卒というカードを有効活用して、どこかの大企業の正社員になり、ある程度の給与を得て、家族を持って、普通に暮らしてゆくのだろう、そう考えていた。そんな私にとって、中年でアルバイト生活をしている岸本は、侮蔑の対象になった。この男は、8時に夜勤を終えると、うまく回らない頭に安い煙草でニコチンを滞留させ、人工甘味料をドバドバ入れてできるだけ甘くした缶コーヒーを、口をとがらせて啜るのだろう。そうして店の前の側溝と同じくらい、あるいはそれよりずっとずっと臭い口内から煙を吐き出し、茶色く濁った唾をにちゃにちゃと絡めると、ぺっ、とアスファルトに叩きつけるのだろう。そして、あのにびいろの自転車で、金属音を奏でながら、アパートへ帰ってゆくのだろう。私のアパートよりも数ランク落ちる、6畳で風呂トイレは共同、洗濯機も外置き、そういったアパートに、もう何十年も、一人で、ひっそりと住んでいるのだろう。私は、岸本が品出しをしている姿を眺めながら、何度も何度も彼の私生活を想像していた。想像を繰り返しているうちに、頭の中のぼんやりとした岸本の私生活は徐々に実態を持ち、鮮明な描写になっていった。岸本は6畳のアパートに帰ると、紐を引いて蛍光灯を点ける。チカ、チカ、チカ、と数回瞬いた蛍光灯は、じわあ……と、まるで光速に達していないような、黄ばんだ光を部屋に行きわたらせる。ふう、と一息ついた岸本は、発泡酒を片手に廃棄のカップラーメンを啜る。岸本はテレビを持っていないので、格安スマホで芸人のラジオを聴く。時折、ラーメンを食べる手を止めて、へへ、と笑う。食べ終わると、大きくげっぷをし、ろくに洗わないまま、発泡酒の缶とカップ麺の容器をゴミ袋に突っ込む。ゴミ袋の内面には黒い点や白い点が偏在し、近くで見るとうねうねと動いていることが分かってしまうから、岸本はそれを凝視しないようにしている。そして岸本は、眠る。体は洗わない。わざわざ共同の浴室に向かうのが、面倒くさいからである。皮膚に堆積した、かつて皮膚だったものが、ぽろぽろ布団に零れ落ちるが、岸本は気にしない。歯も磨かない。煙草を吸い、コーヒーを飲み、ラーメンを啜り、酒を飲み、極度に汚染されたぐちゃぐちゃのを歯並びをそのままに、布団に潜り込む。岸本の形に窪んだ布団は黒ずんでいて、体育館に置いてあった古い体操マットを彷彿とさせる。クッション機能を完全に失っている布団は一年中湿っていて、それを気にも留めない岸本は、横たわった瞬間意識を失う。岸本が目を覚ますのは15時頃である。起きてすぐ、岸本は自慰にふける。岸本が自身の性欲を満たすために用いるのは、海賊版のエロサイトである。岸本はそれを違法と知っているが、正規版のアダルトビデオは購入しない。金がないから、違法サイトを使っているんだよ。金があるなら、俺だってちゃんと買うよ。これは、みんなやっていることじゃないか。このサイトは、みんな使っているじゃないか。岸本は、自分を正当化する。手慣れた手つきで海賊版のエロサイトにアクセスすると、40分ほどかけて、脊髄を貫く恍惚感と共に、精液を射出する。岸本は、若い頃に比べ、オーガズムに至るまでの時間が長くなっているのを感じている。年々、自身の雄としての終わりが近づいているのを感じている。果てたあと、岸本は鬱屈とした感情に押しつぶされそうになる。こんな歳になって、ワンルームで、湿った布団の上で、違法サイトで、自慰をしている。射精の後に感じるこの感情は、岸本の雄としての衰えに反比例して、年々強くなってきている。親の体調が悪い。甥っ子が結婚する。意味もなくふらつくことがある。血尿が出る。いつまでも同じ場所に留まっている岸本に、周りの世界が迫り、追い抜いてゆく。その圧迫感に耐え切れなくなって、大きな声で叫ぶ。木造の、古いアパートの壁は、岸本の声をよく通す。隣から、壁を叩く音が聞こえる。さらに叫ぶ。さらに叩かれる。さらに叫ぶ。喉が痛くなる。さらに叩かれる。さらに叫ぶ。涙が出てくる。「うるせえな! 殺すぞ!」隣の部屋から聞こえてきた言葉で我に返った岸本は、大きく伸びをして外へ出かける。岸本は、自転車に乗っている時間が好きだった。この機械に乗って足を動かすと、自分の力だけでは到底出せないような速度が出る。速く動かすと、その分速くなる。岸本はその機械に乗って、全てを追い抜いてゆく。岸本を追い抜いていった社会を、逆に追い抜いてやるのだ。前を歩いている、高そうな時計をつけているサラリーマンを、未来あふれる子供たちを、追い抜いてやるのだ。しかし、その日は、岸本を邪魔するものがいた。走っていると、何者かが後ろから近づいてくるのを感じる。振り返ると、真っ赤なロードバイクに乗った大学生だった。岸本は一目見て、その学生が、自分とは違う環境に置かれていることを理解する。この学生は、当然のように、このピカピカのロードバイクのスピードを上げ、追い抜いてゆくのだろう。岸本はそれを許すことができず、無理やりスピードを上げて、学生を背後から少し遠ざける。存在を、この学生に知らしめてやるために。もっと速く漕いで、もっと速く走らなければ。座って漕ぐだけでは速さが足りず、ペダルに体重を乗せるために、立って漕ぐ。煙草で委縮した肺はすぐに限界を迎え、身体中の血管の拍動を感じる。絶対に、この学生には負けない。吸い込んだ酸素が脳に供給されなくなり、視界の隅に、星が散らついてきたときだった。後ろから、カチ、カチ、と、ギアを変える音が聞こえたかと思うと、赤いロードバイクがぐんぐんとスピードを上げ、岸本の右側を通過する。どんなに速く漕いでも追いつけない。学生は、月面を飛び跳ねている宇宙飛行士のような足の回転で、ゆっくりと、ペダルを漕いでいる。それなのに、学生と岸本の間には、埋めることのできないスピードの差があった。学生が、岸本を取り巻く社会の代弁者に見えた。岸本は、もう、限界だった。「おぉぉぉぉぉぉい!」学生に、岸本を侮蔑する社会に、この地球全体に聞こえるように、ありったけの力で叫ぶ。岸本は毎日、必死に生きている。それなのに、誰にも目を向けられることなく、当たり前のように、追い抜かれる。その腹立たしさを、殺意を、赤いロードバイクに向ける。学生の肩が跳ね上がり、急激にスピードを落とす。見たか、ざまあみろ。岸本は学生を再度追い抜き、ぐちゃぐちゃの歯を丸出しにして笑う。そういう日常を送っているのだろう、と、何も知らない岸本のことを勝手に蔑んでいた。そうすることで、私の価値が上がる気がした。岸本の私生活を想像すると、彼を下げる形で、人間としての自分のランクが上がる気がした。私は、バイトに行くことが、岸本とお笑いの話をしながら内心見下すことが、いつしか優越感を得る1つの手段になっていた。
10月。残暑も落ち着き、空気がひんやりとし始めた夜。私は、運送業者から届いたパック飲料のカゴを台車に積み、店内を運んでいた。業務に慣れてきていた私は、カゴを高く積み、台車を勢い良く押すことで、作業の効率化を図っていた。そのとき、ガクン、と衝撃が走った。台車のタイヤが床のわずかな段差に引っかかり、勢いよく押していたカゴが急停止する。積んでいたパックが物理法則に従って、なすすべなく崩れ落ちた。バシャッ。店内に響き渡る水の音とともに、床に叩きつけられた牛乳、桃のジュース、緑茶など、様々な紙のパックが弾け飛び、内容物がこぼれ出す。それぞれの液体は混ざり合い、混沌としたマーブル模様を作ってゆく。「え、ヤバくね笑」「大丈夫? 濡れてない?」「あれ弁償なんじゃない?」客の視線が、呆然と立ち尽くす私と、足元にできたジュースだまりを交互に往復する。これは、自分でどうにかできるトラブルではない。そう思ったとき、私は反射的に岸本の姿を探していた。岸本なら、いつもの無表情で片付け方を指示し、対処してくれるに違いない。岸本は、中年になって週5でコンビニバイトをしている、救いようもない男だが、幸い仕事だけはできる。冷凍食品の品出しをしている岸本のほうに向かい、声をかけた。「岸本さん、すみません。」岸本は品出しの手を止めないまま、こちらを振り向きもせずに言った。「パック、倒したんでしょ。」乾いた声だった。「オーナーに言われなかった? あそこの段差、気を付けてって。」ようやく顔を上げた岸本は、低い声で続けた。「脇田くんさ、いっつも台車ガーッて押してたよね。カゴもあんなに積んで。どう考えても倒れるよね? 頭使いなよ。」ゆっくりと、一つ一つの言葉を突き刺すように言う。「自分で掃除して。俺も仕事あるから。」そう言うと、岸本はまた顔を陳列棚に戻した。私は、その場に立ち尽くしていた。岸本に見放された。それだけではない。正論で、批判された。この男に、正論で。私は憤りを覚えていた。誰だって、ミスはするだろう。そのミスを周囲の人間が許容し、優しく矯正することで、人は成長し、社会に馴染んでゆくのではないか。岸本には、その優しさがない。たった一度のミスで人間を突き放し、否定する。普通の人間にあるはずの、ミスを許容する優しさが欠如している。この岸本という男は、たしかに仕事はできるし、まあ多少お笑いに対する理解があるかもしれないが、この年になってバイト生活を送り、無愛想で、しかも、人を育てる優しさもない。私は奥歯を噛みしめながら、マーブル模様の液体を拭き取り、アルコールスプレーを吹きかけ、ただひたすらに床を擦った。擦れば擦るほど、自分が惨めに思えてきて、視界がじんわりと滲んだ。勤務中に涙を流すなんて、しかも岸本が原因で、そんなことはあってはならない。ここで泣いたら、私の負けじゃないか。そう思い、何度も瞬きをして、懸命に涙を瞳の中に封じ込める。岸本は、床に這いつくばりながら液体を拭き取る私に「使えねえな」と言葉を投げかけ、軽蔑の視線を向けながら、バックルームへと消えて行った。「死ね。」私は、はっきりと、そう呟いた。堪えていた涙が、1粒こぼれた。床の清掃が終わったのは、6時過ぎだった。岸本が私の業務を肩代わりしてくれることはなく、品出しは終業時間ぎりぎりになってようやく片付いた。私と岸本は、レジで無言で過ごしていた。無言の空間が、苦痛だった。この空間において、私が岸本よりも下の人間であるという事実に、耐えられなかった。岸本は私に対し、明確に「使えない」という言葉を発し、軽蔑するような視線を向けてきた。国立大学に通う未来ある大学2年生が、週5でコンビニの夜勤をしている男に軽蔑されるなんて、あってはならないことだった。朝勤の西が出勤し、岸本が、迷惑そうに言う。「今日、脇田くんがパック倒して、大変だったんですよ。」西は、岸本から私に視線を動かした。叱責を覚悟したが、西はにっこりと笑い、私の肩をぽんぽんと叩きながら言った。「ああ、やっぱやったかー。いや、ぜんぜん気にしないで。うーん、やっぱ、あそこ危ないよなあ……」西の明るい声の向こうで、差し込んでくる朝陽が岸本の顔を照らしていた。岸本は、笑っていた。バイトを終え、退勤のタイムカードを押した瞬間、誤魔化していた疲れがどっと押し寄せてきた。ずっと黙っていた岸本が、話しかけてきた。「パック買って帰ったら? オーナー、優しいけど、絶対怒ってるよ。弁償、しなよ」そう言うと岸本は、白髪頭をもさもさ揺らしながら、さっさと帰っていった。岸本がバックヤードから出たのを確認すると、私は再度「死ね」と呟いた。私は、レジ前の清掃をしている西に話しかけた。「オーナー、すみません、紙パック、弁償したほうがいいですか……?」「え! いやいや全然! 大丈夫! 大丈夫だから!」「えっと、でも、岸本さんが……」「あ、もしかして、岸本さんに弁償しろとか言われた? いいよ、あいつの言うこと、真に受けないで。」あいつ。西は、レジに並ぼうとしているサラリーマンを横目でチラチラ見ながら、「とにかく、ほら、家帰ってゆっくり休んで、また来週! はい、おやすみ!」西はそう言うやいなや、あ、はい! いらっしゃいませ! と、サラリーマンが待っているレジに駆けていった。突如現れた「あいつ」という敵意丸出しの言葉が引っかかって、その後の言葉がよく聞こえなかった。結局私は、パックのリンゴジュースを買って帰った。ストローを刺して、透き通った黄色の液体を口内に流し込む。りんごジュースにしては苦く、さっきまでの陰鬱としたファミリーストアの空気を吸収しているようだった。岸本の侮蔑したような視線や「使えねえな」という一言を思い出し、涙がこぼれた。すっかり色づいた広葉樹の赤や黄色が滲んで混ざり合い、床に叩きつけられて死んでいったパック飲料のように見えて、さらに涙があふれた。家に帰って、さらに泣いた。頭から皮脂や汗が混ざり合った匂いがしていたが、シャワーを浴びずにベッドに仰向けになって、泣いた。私は、社会に向いていないのだろうか、このバイトも、前のバイトのように徐々に居場所がなくなって辞めるのだろうか、西は笑ってくれていたが、岸本の言った通り、本当は怒っているんじゃないだろうか。次にミスをしたら有無を言わさず、あの優しそうな笑顔を瞬時に凍らせて、「来週から来ないでね」なんて言ってくるんじゃないだろうか。あの岸本にさえ、コンビニの仕事ができるだけのなんのとりえもない中年男にさえ、使えない人間としての烙印を押され、怒られ、蔑まれ、そして私はまた辞めるのだろうか。そんなことを考えながら、部屋の天井を見ていた。見ながら、泣いていた。涙が止まらなかった。勤務中必死に堪えていた涙が、あふれ出していた。岸本の視線を思い出し、西が私の悪口を言っているところを想像し、泣いた。西は、私のことを嫌っているに違いない。あれだけ説明していたのに。「倒すと面倒臭いからね」そう言っていたのに。アドバイスを全く活かさない舐めた態度の若者を、嫌っているに違いない。そう考えると、涙は止まらなかった。私は、毛布に話しかける。「な、なあ、お、お、俺って……」嗚咽で、言葉が上手く発音できない。「俺って、社不なのかなあ。」毛布は、笑った。「社不に決まってんだろ。じゃなかったら、毛布に話しかけたり、しねえよ。」「そ、そ、そそうかあ。」私がぎゅっと握りしめると、毛布は山折りを差し出してきた。私は、それをくちびるに当てる。毛布がさらに続けた。「お前ってつらいことがあったら、すぐ逃げるしさ、ずっと人の目気にしてるし、言動は変だし。生きづらいよなあ。」私は、毛布を殴った。ぽす、と、布に衝撃が加わった音がした。「お前、何も変わってねえよ。部活やめたときから。」毛布は、突き放すように言った。同じように、涙が止まらず横になっていたことがあった。そのときのことを、二度と思い出さないために海馬の奥底に封じ込めていた記憶を、毛布のせいで思い出していた。私は高校時代、ハンドボール部のキャプテンだった。キャプテン就任時に掲げた県大会ベスト8という目標を、本気で達成するつもりだった。もちろん私以外の部員も、同じように本気で目標に向かっているものだと思っていた。正直言って、部員一人一人の実力はライバル校に遠く及ばなかったが、私個人には確かな実力があり、私の考えた作戦で動けば、ベスト8どころかベスト4、その上も十分狙えると考えていた。私は朝練を取り入れ、放課後の練習の時間も今までより30分伸ばし、土日も2日間、みっちりと練習のスケジュールを組んだ。練習の日々の中で、目に見えて部員の動きは変わり、実力がついてきていた。そんな中、キャプテン就任後、初めての練習試合を迎えた。結果は、芳しくなかった。前日に練習を詰め込んだせいだろうか、部員の動きは緩慢で、キャッチミスやイージーなシュートミスなど、明らかに集中力を欠いていた。「6番!」数週間何度も練習した形で、部員たちが動き始める。相変わらずゆっくりとパスを回す部員たちは、途中でパスを相手にカットされ、カウンターで得点を許した。自分が、彼らを引っ張らないといけないと思った。私は、彼らにパスをするのをやめた。強引にフェイントを掛け、ディフェンスを完全に抜いていない体制からシュートを撃った。シュートは、キーパーの手の届かない、ネットの左隅に突き刺さった。最初からこれで良かったじゃないか、と思った。私は、作戦をやめた。自分の力で、得点をもぎ取った。たまに部員が決めることもあったが、私に比べて確率は低かった。おい、パスを回せ。俺にパスを回せ。撃つな。決まらないから。俺にボールを集めろ。なにやってんだ下手糞。俺に撃たせろ。私は、不格好なシュートフォームになりながらも、チームの得点のほとんどを稼いだ。練習試合を終え、私が泥だらけの足を洗って、荷物の置いてあるピロティに戻ったときだった。そこで着替えていたチームのメンバーの、楽しそうな声が聞こえた。「なあ、今日の脇田ヤバくなかった? あいつ、バカキレてたやん笑」「あれ、あの3試合目のやつでしょ、6番! とか言って、いやその作戦何回もミスってるし笑」「あいつ自分の思い通りにならないとキレるじゃん? で、俺らがフェイントでディフェンスずらして、最後結局あいつが決めるんよ笑」「あいつ、俺らが決めてもなんか不満そうだよな。」「見下してるんだよ、俺らのこと。」「なんかマジでベスト8目指してね? いや無理だろ、俺、放課後遊びいきたいし、朝練とか、クソ眠いし。」「努力は報われる! とか思ってそうだよな」「そういうカレンダー持ってそう笑」彼らは、私のシュートフォームを真似ると、手を叩いて笑い始めた。私は、荷物も持たずに、帰宅していた。一連の彼らの言動を聞いていなかったふりをして、あの輪の中に戻ってゆくことなど、できるわけがなかった。家のドアを開けると、母が出てきて、手ぶらで帰ってきた息子を心配した。そんな母にぶっきらぼうな態度を取って、自室のドアを勢いよく閉めた。砂埃の付着したジャージ姿のまま、ベッドに横たわって、泣いた。体から水分がなくなって、皮膚だけになってしまうんじゃないかと思うくらい、泣いた。拭いても拭いても、壁を殴っても、叫んでも、涙は止まらなかった。そのときも、毛布は話しかけてきた。「お前が悪いよ。お前、ウゼえよ。」私は、何も言わなかった。思い切り、毛布を噛んだ。柔軟剤の匂いが、口腔を通って、臭腺を刺激した。毛布は、何のリアクションも示さなかった。こいつに、暴力は通用しなかった。それが悔しくて、さらに力を入れて噛んだ。涙と鼻水に加えて、開きっぱなしの口から唾液が垂れてきた。毛布すら受け止めてくれないこの感情を、どこにぶつければ良いのか分からなかった。部活に行けなくなった思い出と、古いバイト先で嫌われ、新しいバイト先でも自分の立場が不安定になりつつある今の状況が、重なっていた。私は、社会に向いていないのだろうか。もしかしたら、普通の人間としての生活を、送ることができないのだろうか。私は、社会不適合者なのだろうか。ぼんやりとオレンジ色に光っているシーリングライトが徐々に輪郭を失い、大きくなったり小さくなったりしているように見えた。オレンジ色の光が一瞬ふっと大きくなったかと思うと、身体が浮く感覚を伴って、視界が真っ暗になった。
目を覚ますと、机に置いてあるデジタル時計は19時を示していた。その日は、サークルの飲み会があった。朝の8時過ぎに帰宅した私は、シャワーも浴びず、布団で涙を流しながら、倒れ込むように眠っていた。寝起きのまま、髪も整えず、適当にジャケットを羽織って家を出た。飲み会が行われる河合さんの家は、ファミリーストアのすぐ近くにある。岸本とすれ違ったらどうしよう、と思ったが、出勤の時間まではだいぶ余裕があった。「すみません、遅くなりました。」「おー、ワッキー、うーす。」河合さんが、チューハイをぷらぷら揺らして振り向いた。サークル員は、私のことをワッキーと呼ぶ。部屋には私を含めて三人しかおらず、先にいた二人は、過去のライブ動画を見ながらだらだらと飲んでいた。一人は家主の河合さん、4年生の先輩で、私と同じようにピンをメインに活動している。河合さんはこの前の夏の大会で、予選を勝ち進んで決勝に出場した。東京の強豪サークルの学生が続々と出てくる中で、知っている顔が舞台を大きく使ってネタをしている姿は、私にとっても誇らしいものだった。決勝の舞台で、河合さんはウケた。贔屓目を抜きにしても、その日で一、二を争うウケだったと思う。ただ、ウケ方は理想的とは言い難かった。もたつく、噛む、大声を出す、その後、数秒間が空いてドッとウケる。河合さんはいわゆる「裏笑い」の芸人だった。笑わせるのではなく、笑われる。尊敬の笑いではなく、軽蔑の笑い。結果だけ見れば立派だが、私は、芸人として河合さんを尊敬できなかった。一度本人に直接言ったことがあった。「河合さん、今日もめっちゃウケてましたね、でもあのネタ……」学内ライブが終わった後、行きつけの中華料理屋の喫煙所で煙草を吸いながら、河合さんは私を見上げた。「大会ではやらない方がいいと思います。結構裏笑いっていうか。審査員の作家とか、プロの芸人にはウケないと思うし。」河合さんは突如せき込むと、からからと笑い始めた。「ワッキー、言うねえ。」煙草を吸い切った河合さんは、水を一口飲み、ペットボトルをぷらぷら揺らしながら言った。「俺もさ、俺が裏笑いの人間ってのはわかってるよ、そんな馬鹿じゃないしさ、俺。」けどさ、と言うと、河合さんは立ち上がって続けた。「俺、それでいいと思うんだよな、もちろんプロみたいなさ、伏線回収! センスある大喜利! ってめっちゃ憧れるけど、できねえよ。でもさ、俺が変なことしてたら、裏笑いでも、お客さんは笑ってくれるんだよな。俺を見て、涙流して笑ってる人がいるんだよな。俺はさ、別に大会で優勝したいとか、プロになりたいとかじゃないしさ。それでいいと思っちゃうんだよな。」河合さんは、もう一本煙草を吸い始めた。「ワッキーもさ、もっと普通じゃないネタしたほうがいいよ。なんかさ、どっかでかっこよく笑わせたいってのが、ネタに現れてる。もっと、お前らしさ出したネタ作りなよ。」そう言って煙草を吸い終わると、河合さんはサークル員の輪の中に戻っていった。私は、「らしさを出したネタ」の意味が分からなかった。そんな河合さんの隣で体育座りをしながら、紙コップでジンジャーエールをちびちび飲んでいるのは、1年生のエリだった。エリは河合さんとは真逆で、誰もが憧れるセンス系の人間だった。1年生ながら夏の大会では大ウケ。どこかつかみどころのないふわふわとしたボケのエリと、関西弁で鋭くツッコむサトルの漫才は、組んでから数か月とは思えないほど、息もぴったりで完成度も高かった。決勝進出とはいかなかったものの、そのネタの完成度が話題を呼び、他大学のライブにも呼ばれるようになっていた。SNSでコンビ名を検索すると固定ファンもついているらしく、「今日のネタ新ネタ? 面白かった!」など、好意的な投稿もよく見かける。しかし、エリにその投稿が届くことはなかった。エリは、SNSをやっていなかった。ライブ告知やコンビの窓口も、全て相方のサトルが請け負っていた。そんなミステリアスな部分も、彼女の魅力なのだろう。エリにSNSをしない理由を問うと、「世の中に毒されたくないからです」と言っていた。なんだそれ、センスぶってんなよ、と言おうとしたが、彼女はすでにどこかへ歩き出していた。こういった飲み会にもよく参加しているが、いつもほとんど喋らず、楽しいのか楽しくないのかよくわからない人間だった。そんな私、河合さん、エリの3人は、修学旅行で余り物がグループを作らされたかのようなちぐはぐさで、しばらく無言でそれぞれの飲料を飲み進めていた。「全然人いないっすね。」沈黙に耐え切れなくなった私が言うと、「なんかみんなそんな乗り気じゃなくて、今日。三人しか集まらなかったわ、今テスト期間だっけ?」「知らないっす。僕テスト勉強とかあんましないんで。」と私が答えると、「ハハッ、やっぱワッキーおもしれー。」と、河合さんが笑った。私がテスト勉強をしないのは、毎回の授業で復習をちゃんとしているからなのだが、それの何が面白いんだろう、と思い、よくわからないままとりあえず私も笑う。サークル員といると、時折意図しない場所で笑われるときがある。それを活かそうと、息の合わない相方と組んでいたコンビを解散し、ピンネタに挑戦したものの、いざ作ってきたネタを見せると、「なんかもっとありのままやっていいよ」や「お前らしさで勝負しろよ」など、訳のわからないアドバイスをされる。ありのままとは、どういうことなのだろう。舞台上を三分間歩いていれば、この人たちは笑ってくれるのだろうか、と考え、私のピンネタは迷走しつつあった。加えて、私はアドリブが苦手だった。ネタを飛ばしたり、噛んだりすると、頭が真っ白になってしまう。ネタは覚えれば良いのでまだ対処できるのだが、問題はネタ以外の部分だった。MCで私が何か発言すると、一瞬間が開いて、どっと笑いが起きる。私が最も軽蔑している、裏笑いだった。ただし笑いが起きれば良い方で、完全な静寂が訪れることもある。そのときに私に突き刺さる客席の視線が、怖かった。そのうち、私はネタ以外の出番を避けるようになっていった。ある程度酒が進み、話も盛り上がったころ、河合さんが切り出した。「ワッキーさ、最近そこでバイトしてるよな。」河合さんが、親指でファミリーストアのある方角を指す。「え、河合さん、来てたんですか? 声かけてくださいよ。」「いや、俺の彼女が脇田くん見たよ、って。なんかおっさんと仲良くお笑いの話してたらしいじゃん。」岸本の顔が、脳裏に浮かぶ。あの侮蔑の視線、冷たく見下すような表情、吐き捨てた、使えねえなという言葉。私は、チューハイを一口飲み、軽く笑って言った。「ぜんぜん仲良くなんかないっす。」「あ、そーなの?」河合さんが大げさに目を見開く。この人は、いつもリアクションが大きい。そこが俺のいいところなんだよ、と自分で言っていたのを思い出す。いかにも興味津々といった様子で、河合さんが岸本について聞いてくる。「え、そのおっさんとなんかあったの?」「いや、アイツやばいっすよ。もう50?くらい? それでコンビニバイトって。いや、言っちゃ悪いけど、人生終わってるじゃないすか。」ははは、と笑い、河合さんが面白がるように、「マジかよ、やべえな。俺もそうなるかも笑」と相槌を打つ。そうですね、河合さんもこのままだとそうなりますね。と心中で呟く。河合さんは、4年生の10月という時期になって、まだ就職先が決まっていない。早期化という言葉など知る由もなかった河合さんが就活を始めたのは、7月に入ってからだった。加えて、何か打ち込んだものもないし、特筆した才能があるわけでもない。この人の未来は、岸本だろう。私は、本気でそう思っていた。すでに、缶チューハイを4缶開けていた。自分の顔が紅潮しているのが分かる。私は、酒が好きだった。酒を飲むと、普段溜め込んでいる不満が、奥底に眠っている不満が、引きずり出されるようだった。酒は、周りの目を気にしながら、務めて普通の学生を演じようとしている偽りの自分から、はっきりと言いたいことを言える、本当の自分に変えてくれる飲み物だった。調子に乗って、さらに言葉を重ねる。この場では、私は被害者で、岸本がどうしようもない底辺害悪アルバイターということにしたい。どうにかして岸本を悪人に仕立て上げようと、経験したことのない速度で舌が回った。「しかもそいつ、挨拶もできねえで。髪もぼさぼさで。社不っすよ、社不。」「いやー、やべえなあ。」河合さんが更に笑う。これでいい。岸本なんて、笑いのネタにしてしまえば、それでいい。岸本をこの場でバカにしてなんだというのだ。それが何か法律に違反しているのか? 実際に河合さんは、大きく口を開けて笑っているではないか。それが自分の未来の姿であるとも知らずに、げらげらと。私の舌はより速く回り、岸本に自転車で追い抜かされた話をしようとしているときだった。「ワッキーさん。」不意に、エリが口を開いた。エリは、岸本の話を始めてからずっと押し黙っていたが、いつものことだな、と思っていた。エリの目は大きく見開かれ、私を見ていた。エリの目に映る私の姿が見え、それがエリの涙腺から分泌される透明な液で、きらきら揺れていた。わずかに潤んだエリの目が、今から言わんとしていることを予感させた。「ちょっと偏見が過ぎますよ。その人も、もしかしたら前職を辞めちゃったりとかあったんじゃないですか? メンタル的な感じで。そもそも、コンビニのアルバイトも、ワッキーさんのご両親がついている仕事も、どっちも立派な職業です。なんでそんな、終わってる人生とか言えるんですか? 親の金で受験して、親の金で大学に入って、親の金で暮らしている私たち学生が、どうして自分でお金を稼いで生活してる人のことを見下せるんですか?」ご両親。立派な職業。終わってる人生。親の金。ワンルームの空気が、すっと冷えた。エリの声は、舞台上で聞こえるぽわぽわした声とは違っていて、冷たくて、静かだった。私は、一瞬言葉に詰まる。「いや、あいつに限ってメンタルとかないって。マジで。あいつに限って。」「ワッキーさんは、なんかその人に危害加えられたりしたんですか?」「いや、まあ、それはないんだけどさ……」岸本に受けた叱責を脳裏に浮かべながら、しどろもどろになって返答する。「その人のことなんも知らないで、陰でそんなこと言えちゃう人のほうが、私はヤバいと思います。」先輩が出ている学外ライブの映像が、静まり返った部屋に響き渡る。「殺すぞ!」と、恐竜の格好をした先輩が大声で叫び、一拍おいて拍手笑いが生じる。目の前のテレビから流れてきているはずなのに、隣の部屋から壁越しに聞こえている音声のように、くぐもって聞こえた。私は、何とか言い返そうと必死だった。「エリちゃんって、意外と思想強いっていうか、結構真面目ちゃんなんだね、えっと、意外だわ。」私は、和やかな方向に持っていこうと、笑顔で言い返した。「どういうことですか。」エリの表情は変わらなかった。どうもありがとうございましたー。先輩が終わりの挨拶をして、舞台袖にはけようとしたところでセットの机に躓いて、倒れる。また大きな拍手笑いが起きる。「真面目ちゃんっていうか、当たり前のこと言っただけですけど。ワッキーさん、もっと、人のこと考えたほうがいいと思いますよ。」「まあまあ、エリ……」先輩がたしなめるが、エリの目はまっすぐ私を見ていた。エリは、あのときの岸本と、同じ目をしていた。目の前の人間を、本気で蔑んでいる目。深層心理まで見透かし、表層から深層までの全てを軽蔑している目。思わず、エリの視線から目を逸らす。私の、負けだった。また、正論で正され、怒られ、侮られ、蔑まれた。私は、居心地の悪さを感じながら、缶チューハイを一口飲んだ。喉を通る感触が、さっきまでとは違っていた。心地よく顔面の血管を火照らせて、舌を回転させるモーターの役割をしていたはずのアルコールが、口内からまっすぐ膀胱へ落ちてゆく感覚がした。「河合さん、すみません、明日一限なので帰ります。」「あっ、ちょっと……」「また誘ってください。」河合さんの言葉を遮り、エリは立ち上がった。彼女は、私のいる飲み会にはもう来ないだろう。そんな確信があった。河合さんは、「まあうん、そうだな、うん」と、謎の相槌を繰り返していた。河合さんの部屋を出ると、夜の空気が冷たかった。ほんの1か月前は熱帯夜で、窓を開けて扇風機を回しても全然寝付けなかったのが嘘のようだった。誰かが煙草を吸っているのか、甘ったるいバニラの匂いがほんのりと漂っている。体に少しだけ残っているアルコールの火照りを抜くように、ゆっくりと秋の空気を堪能しながら歩いた。何度も、エリから投げかけられた言葉を繰り返しては、忘れようとしていた。大きくため息をついて、スマホを操作する。イヤフォンから、リンシャンカイホウの二人のラジオが流れだす。二人のトークなら私を助けてくれるかと思ったが、ダメだった。すぐに、エリの言葉、あのときのエリの視線が脳内を圧迫する。エリの視線がどんどん誇張されてゆき、私を責め続けた。そんなとき、交差点の向かいにファミリーストアが見えた。日が沈んでからはここが世界の中心だと言わんばかりに、真っ黒の世界を看板の緑で侵食しているように見えた。目を凝らして光り輝く店内を見つめると、せっせと動いている影があった。岸本だった。変わらない無表情。機械のような動きで、いつものように品出しをしている。時折レジに並ぶ客に対応しつつ、深々と頭を下げ、また品出しに戻る。レジを打ち、頭を下げ、品出しをし、レジを打ち、頭を下げ、品出しに戻る。──もっと、人のこと考えたほうがいいと思いますよ。岸本は中年にもなって、コンビニの夜勤で、しっかりとミスなく、俊敏に業務をこなしていた。それだけのことだった。それだけのことなのに、私は岸本から目が離せなかった。すっかり涼しくなったこの時期にしては珍しく、湿った空気を含んだぬるい風が、頬を舐めるように吹いた。岸本がこちらを向いた気がして、慌てて歩き始めた。リンシャンカイホウのラジオは、いつの間にか終わっていた。
また、パックを倒した。台車のタイヤが床の段差に引っかかり、バランスを崩したカゴが前のめりに傾く。次の瞬間、牛乳やりんごジュース、緑茶のパックがリノリウムの床に叩きつけられた。水の塊がたたきつけられる衝撃音とともに、紙パックが破れ、内側に閉じ込められていた液体が一斉にあふれ出す。白、黄色、深い緑が、混ざり合い、広がる。重力により、地面にだらりと広がるはずの液体は、スライムのような粘性を持っていて、その中心がマーブル模様で混ざり合いながら、ぐぐぐと持ち上がってゆく。私は、慌てることもなく、じっと身体を硬直させ、液体が重力に逆らい、形になってゆくのを眺めていた。液体は、一気にずずずっと持ち上がると、私よりも小柄な、とある人間の姿に変貌した。岸本だった。マーブル模様の渦を巻く液体から、あの男が浮かび上がる。前髪の奥から覗く両の目。歪んだ前歯。そして、あの冷たい視線。岸本は肌の色をぐるぐると目まぐるしく変えながら、口にあたる部分をゆっくりと開いた。べちゃべちゃべちゃという音と共に、くぐもった、耳元に直接届けられているような声が、聞こえ始める。「もういいよ、お前、何回同じことするんだよ。」岸本が、頬から液体を垂らしながら言った。零れ落ちた液体は、床に落ち、広がり、そこからまた新しい岸本が産まれる。今度は、後ろから声がする。「いいよ、死ねよ。」え?「もう、死ねって言ってるんだよ。」後ろに立っていた岸本の輪郭がぼやけ、次第に別の形になっていく。私の太ももほどの高さになって、体育座りの形をとり始めた。エリだ。「ワッキーさんは最低ですよ。」「偏見で人の人生が終わってるとか言って。」「もっと、人のこと考えたほうがいいと思いますよ。」同じ目。岸本と、エリの、同じ目。私のことを心底侮って、蔑んでいる目。私はいつの間にか、たくさんの岸本とエリに囲まれていた。エリと岸本は徐々に一体化し、輪郭が不明瞭になり、両の目だけが残る。突き刺すような視線を向けながら、虹色の液体はほとんど同時に言った。「死んだほうがいいですよ。」「死ねよ。」その言葉と同時に、目が覚めた。心臓が速く動いている。全身が汗でじっとりと湿っている。手足はがくがくと小刻みに震え、喉がからからに渇いている。岸本とエリのあの視線が、私の精神を支配していた。「なんか、うなされてたな。」暗い部屋で、毛布が話しかけてきた。遮光カーテンを通して室内に降り注ぐ月光で、かろうじて毛布の茶色が分かる。「ちょっと、夢を見て。」「どんな夢?」毛布の問いかけには答えず、反対に毛布に質問する。「なあ、ずっとバイトの人生って、どう思う?」「別に、いいんじゃねえか。人それぞれで。」「でもさ、それって、普通の人から見たら、終わってる人生だと思うんだけど。人それぞれ、ってよく言うけど、それって、終わってる奴らの言い訳だろ?」月が雲で隠れ、毛布が周囲の闇にとりこまれてゆく。暗闇から、毛布の声が聞こえてくる。「最初から人生で考えるから、そういう極端な結論に至るんだよな。例えば、自転車、って聞いて、お前は赤いロードバイクを思い浮かべる。けど、汚ねえにびいろの自転車を思い浮かべる奴もいるよな? 良い仕事、って聞いて、お前は9―17時で、残業もなくて休日も取れる仕事を思い浮かべる。けど、残業は多いけど、子供に携わることができる仕事を思い浮かべる奴もいるよな? この理論で人生を考えた時に、お前の思い浮かべる良い人生と、他人の思い浮かべる良い人生って、必ずしも一緒じゃなくなるよな? わかるか? お前、自分以外の視点を持った方がいいぜ。しかもお前は……」悪夢で強制的に中断された睡魔が再度やってきて、私の意識を中断した。毛布はその後もうだうだ何か言っていたが、聞き取れなかった。
ある夜勤後の朝のことである。朝食やシャワーなど一通りを済ませ、ベッドでスマホをいじりながら眠気がやってくるのを待っていると、見ていた動画が突然ピタッと止まり、バイブレーションと共に、着信を示す通知が表示された。電話は、母からだった。私は、体を横たえたまま、耳にスマホをあてがった。「もしもし?」「あ、もしもし? お母さんだけど? あのー、昨日ね? 春学期の成績表が、うちに届いてたんだけど……」成績、その言葉を聞いて、ごくりと唾を飲み込む。「大丈夫? この生態…ナントカ…学っていうの? これ…D評価だけど。」私は、必修の講義の単位を、1つ落としていた。その講義は、かなり退屈だった。よぼよぼの教授が、マイクを通しても聞き取りづらいぼそぼそ声で、高校生レベルの内容を60分間喋り続けていた。極力授業で寝ないようにしていた私だったが、その教授の授業だけは、時折意識を飛ばすこともあった。ただ、毎回の講義で配布されるレジュメの内容は頭に入っていたし、何よりその内容は、高校時代に死ぬ気で頭に入れた内容そのものだった。私は、意気揚々とテストに臨んだ。テストは、想像を絶する難易度だった。教授が講義中に少しだけ喋っていた研究や、そもそも講義中に一度も聞いたことがないような内容など、私の頭の中にない知識ばかりだった。ペンを、動かすことができなかった。教授のぼそぼそ声や仕草を必死に思い出しながら、びっしり埋まるはずだったA4のレジュメを、ただ見つめていた。見つめながらも、私はどこかで希望を持っていた。このA4用紙を埋めることができないのは、私だけではないはずである。同じように講義を受けていた教室の全員が、同じように絶望しているはずである。そうなれば、単位取得の基準は下がり、仮にテストの点が低くても、出席などの応急措置で単位は出るだろう。そう考えていた。教授がよぼよぼとした声でテスト終了の合図をすると、寄せてくる波のように後ろから解答用紙が送られてきた。手元に回ってきたほかの生徒の解答用紙は、細かい文字でびっしりと埋まっていた。私は、驚愕した。教授が亀のような歩みで教室を後にしてからも、しばらく立ち上がることができなかった。どこか欠席していた講義があったか? そう思ってノートやレジュメを確認したが、講義は10回すべて受講し、レジュメも10回分きっちりと揃っていた。一瞬意識を飛ばした時に説明していた内容だったのか? たまたまその数分間の内容がテストの全てだったのか?背後のグループが立ち上がり、解放感に満ちあふれた声色で話し出す。「え、マジで過去問のまんまじゃなかった?」「それな、あのジジイ、授業だけじゃなくてテストも手抜きかよ。」「てかあの問題、授業でやってなくね?」「過去問もってない人とか、詰みじゃん。かわいそ~。」「詰み」の人が目の前にいることも知らず、彼らは教室を後にしていった。教室には、私と同じように他のグループの会話に聞き耳を立て、静かに絶望している者もわずかながらいた。そういった者の多くは、講義に遅刻してきたり、講義中に延々とスマホゲームをしていたり、開始のチャイムが鳴るや否や机に突っ伏して睡眠を始めたりと、およそ単位を取得できるような授業態度ではなかった。しかし、テストが終わった後の私は、彼らと同じ状況に立たされていたのだった。おかしいではないか。そんなのは。知識や、学習や、勉強の成果ではなくて、このテストの点数は、人脈の成果ではないか。そういった趣旨のメールを教授に送ったのだが、教授はいつものぼそぼそ声とは違って、きっぱりと「単位は出ません」の一点張りだった。理不尽なテストを思い出し、忘れていた怒りが再度ふつふつと滾ってくるのを必死に抑えながら、私は母に言った。「大丈夫、これ必修じゃないし。面白そうだからとってみたんだけど、なんか分野が違って。」「そう、それなら良いんだけど。まあ、そうね。なんかあったら帰って来なさい。」「うん。」「はい、じゃあね。はーい。」「はーい。」──なんかあったら帰って来なさい。母が常套句のように口にする言葉を、脳内で反復する。私は、大学に入学してから1年半、実家に帰っていなかった。母は、賢い人だった。国立大学を出て、県庁に就職した。そこで出会った人と結婚し、最初で最後の、私という子供を設けた。母は、私に持てる愛情のすべてを注いだ。習字、ピアノ、水泳、野球、器械体操。ありとあらゆる習い事を経験させた。しかし、そのどれも、私には向いていなかった。私は、とある場所ではいじめられ、とある場所では暴力をふるい、どの習い事も、何回か通うと「行きたくない」と駄々をこね始めた。母は、そのたびに困ったような顔をすると、また別の習い事を勧めてきた。私はその全てで居心地の悪い思いをし、それを拒んでベッドで泣いて、決して安くはない受講料を無駄にし続けた。私は、一人で遊んでいたかった。ずっと一人で遊んでいたかった。絵を描いたり、人形で遊んだり、そういう風に遊んでいると、母がチラシを持ってきて、見知らぬ場所に連れて行くのだった。私はそれが耐えられず、「一人でいたい」と母に懇願した。母は、びっくりしたような顔をすると、顔をくしゃっとして、笑った。そして、私の頭を撫でた。なんだ、始めからこうすれば良かったのか。私は安堵し、クレヨンで机に絵を描き始めた。母は、私に習い事を勧めるのをやめた。その代わりに、パソコンの前で悩んでいる時間が増えた。一度、母が画面を消し忘れていたことがあった。私は、ずっとパソコンを触ってみたいと思っていた。クレヨンや、色鉛筆や、ソフビ人形とは違って、パソコンには、無限の可能性がある気がした。私はまるで街灯に集まる蛾のように、画面に寄っていった。そこには、見慣れぬアルファベットの文字列と、症例、付き合い方、治療方法など、まだ私の辞書にはない様々な熟語が並んでいた。当時の私は、そのウェブページが示している意味など全く分からなかったのだが、なぜかパソコンの画面から目が離せなかった。呆然と画面を眺めていると、突然バン! とパソコンの画面が閉じた。パソコンを閉じた手が繋がっている先を辿ってゆくと、そこには母の顔があり、驚いたような、今にも泣きだしそうな、そんな顔をしていた。私が「ママ」と言うと、母は私をぎゅっと抱き、ごめんね、ごめんねえと泣くのだった。何がごめんなのだろう。私は、母の頭の匂いを嗅ぎながら、その謝罪の意味を考えていた。母は、私を病院に連れて行った。その病院の診察室には、いつもの病院のような銀色の細長い棒や、注射器や、臓器の模型などの恐ろしい物体は無く、青空の模様の壁紙と、観葉植物と、パソコンが置いてあるだけだった。その空間にいる大人が、私にいくつか質問をしてきた。その後、母とその大人は何やら話し合っていたようだが、母は「そうですか」と呟くと、がっくりとした。どうやら、母の望む結果は得られなかったようだった。母は「家庭環境が悪いんでしょうか」と、何度も聞いていた。あまりに何度も聞き、そのたびに病院の大人に否定されていたので、私は、意味のない時間だと思い、「ママ、早く帰ろう」と言った。病院を出ると、母が手を繋いできた。そして、お菓子を買ってくれた。いつもは買ってもらえない、戦隊ヒーローのおもちゃ付きのお菓子だった。私は、あの場所に行ってあの大人と喋るだけでこれを買ってもらえるのであれば、毎日でも話すのに、と思った。だが、それっきり、私があの場所に行くことはなかった。母は、よく家にいるもう一人の大人と、しきりに喧嘩するようになった。おそらく、内容は私のことだった。喧嘩が始まると、私は自分の部屋に籠った。喧嘩はいつも、同じ流れだった。母は賢いので、論理的で正しいことを言う。もう一人の大人は、大きな声で、めちゃくちゃなことを言う。そして、もう一人の大人の暴力的な大声で、徐々に母の精神が壊れる。一定のラインを超えると、先ほどまでの冷静さを失った母は、物を投げたり、自分を傷つけたりする。そして、暴れ疲れた母は静かに泣き始め、もう一人の大人がそっと母を抱く。そして、二人は何かを始める。その何かは喧嘩ではないようだったが、それが始まった瞬間、私はなぜか吐きそうになって、歯を食いしばる。それの最中は、母の泣いているような声が聞こえてくるのだが、先ほどまでとは違って物が割れる音や、もう一人の大人の怒鳴り声はしない。母が発する高い声だけが、断続的に聞こえてくる。しばらくすると静かになり、時折、かすかな笑い声が聞こえてくるようになる。その間、私はぎゅっと毛布に包まり、なるべく聴覚に神経が行かないように、耳に指をねじ入れていた。初めて毛布が話しかけてきたのは、二人の行為中だった。「ねえ、聞こえる?」母の声にも、祖母の声にも、サッカーのチームメイトだったマーくんの声にも、大好きだったクマのキャラクターの声にも聞こえる、不思議な声だった。毛布は、続けた。「大丈夫? ねえ、僕と話さない?」「うん。」私は、毛布とたくさんのことを話した。毛布は、私の趣味をたいてい網羅していた。読んだ絵本、特撮、アニメ。一方で、私の知らないことは、毛布も知らなかった。二人が喧嘩の後、何をしているのか毛布に尋ねると、「わかんない、けど、すごく怖い。」そう言って、私にぎゅっとくるまった。私も、わからない、けど、すごく怖い、そう思っていた。自分と同じ感情を持っている毛布が、心強かった。そして毛布は、私の友達になった。人生で、初めてできた友達だった。毛布と喋っていると、二人の喧嘩の音が小さく感じられた。私の家ではない、どこか遠くから聞こえてくる音のように感じられた。母ともう一人の大人は、家の外でもよく喧嘩していた。私は、それが恥ずかしかった。他の大人が外で喧嘩しているのを、見たことがなかった。二人が喧嘩を始めると、周りの大人は必ずこちらに視線を向けてきた。そしてなぜか、その視線は二人ではなく、私に向けられていた。それが、恥ずかしかった。私に向けられる視線は、間違いなく憐みの視線だった。なんでこの二人は、外で喧嘩するんだろう。なんでこの二人は、個人的な感情を公共の場で吐き出してしまうんだろう。年齢を重ねるに従って、私を育てた二人の大人は異常であるという事実に気づいていった。もう一人の大人は、私が小学校高学年のときに、家を出ていった。「金は出すから、もう、こいつはお前が育ててくれ」と、そんなことを言っていた気がする。私はもう一人の大人を見下していた。大声で他人を威嚇することしかできないこんな大人に、なりたくないと思っていた。一方で、母のような大人にもなりたくなかった。知力では大きく勝っているのに、この男の暴力性に屈服する、母のような弱い大人になりたくなかった。彼らは、私の中で、侮蔑の対象となった。私は、中高6年間、欠かさず共にいた母と、たまに姿を見せるもう一人の大人を、見下していた。そして、私は家を出た。努力し、実家からは通うことができない、遠くの国立大学に合格した。私には、家族に対する愛情が無かった。ドラマやアニメで見るような、親子の絆というものが、全く理解できなかった。だが、決して嫌いというわけではなかった。DVを受けていたり、受験を強制させられていたり、そういった環境で育った子供のような、親に対する殺意などは持ち合わせていなかった。この社会で、親というものが善と悪の二つに分けられている意味が分からなかった。私は、親に対して愛情も殺意も持っていなかった。ただ、関わりたくなかった。私にとって、親は、無だった。母は常套句のように帰って来いと言うが、彼女のために時間を作り、遠くまで帰る意味が分からなかった。毛布はこの家に持ってきているし、私が実家に帰る理由は皆無だった。私がうまくやれていないことを知ったら、母はどういう反応をするだろう。細部が不明瞭になってきている母の顔を思い浮かべながら、私は目を閉じた。「母さんは全部わかってるよ、お前のこと。」毛布が話しかけてきたが、無視して眠った。
ファミリーストアでの勤務は、もはや私にとって耐えがたい苦痛の時間へと変貌していた。バイトのない時間でさえ、岸本の影が意識の片隅に焼きつき、執拗にまとわりついて離れない。それはまるで消えない染みのように、私の心にじわじわと染み込み、静かにその領域を広げてゆく。勤務時間が近づくにつれ、岸本への畏怖が膨れ上がり、身体の内側を侵食する感覚が強まる。腹を下し、手先が震える。恐れは具体的な形になって私を支配する。誰かに打ち明けることもできず、ただ一人で抱え込むしかないこの感情は、徐々に憎しみへと形を変え、静かにその輪郭を際立たせてゆく。ただのルーティーンになっていたバイト前のシャワーは、いつの間にか岸本への呪詛を吐き出す儀式と化していた。湯気に包まれ、白く曇る世界の中で無意識に呟く。死ね、死ね、死ね……やり場のない純粋な殺意が、フレッシュフローラルの香りの泡とともに排水溝へと流れてゆく。最後にいつ掃除したのかわからない、黒々とした人毛が絡みついた排水口の荒い網目は、増幅する感情をひしと受け止め、風呂場のオレンジの明かりでぬらぬらと輝いていた。私は勤務中もアドリブが効かない人間だった。大量の酒を買い込んでゆく大学生グループのせいで、レジに長蛇の列ができてしまったとき。クーポンを使ったのが反映されていない、と激怒しているクレーマーに突撃されたとき。通常の業務にない緊急事態が訪れると、私は立ち尽くすしかなかった。どうすることもできずに硬直していると、岸本がやってきて問題を解決し、「困ってるんだったらさっさと呼んで」と吐き捨て、私に聞こえるように大きく溜息をついて去って行くのがいつもの流れだった。私も馬鹿ではないので、岸本にヘルプを求めることが最適解であることは分かっていた。だが、いざ岸本に声を掛けようとすると、パックを倒したときの光景がフラッシュバックする。あの夜のように、「レジ? 知らないよ、遅いのが悪いんでしょ」「クーポン? 自分で考えてよ」などと突き放されたりしたら、バイト中にも関わらず涙が止まらなくなってしまうだろう。私の中の岸本は常に無慈悲であり、恐ろしい存在だった。私は、岸本に叱責されることを、怖がっていた。そのトラウマから岸本に声をかけることができず、問題解決が遅れ、さらに怒られ、一層声をかけづらくなるという、わかりやすい悪循環に陥っていた。私と岸本の間から会話がすっかり消えてしまった、そんなある日のことだった。いつものように、出勤前のシャワーを浴びながら、岸本への憎悪を泡と共に排水溝へと流していた。そのとき、ふと、ながらく探していた紛失物が突如見つかったときのような感覚があった。心の奥底から、一つのアイデアが浮かびあがってきた。岸本の叱責に、言い返したらどうなるだろうか。私のことを何も知らないくせに、勝手に無能の烙印を押してきた岸本に、将来の選択肢が無数にある、まだ20歳にもなっていない若者の立場を利用して、言い返してやったらどうなるだろうか。きっと岸本は私と自分の社会的立場の差に気付き、私に怒るのをやめるだろう。やめるどころか、岸本がバイトを辞めてしまうかもしれない。私への負けを認め、私に畏怖し、自分の情けなさで涙をこぼしながら。岸本の泣き顔を想像すると、自然と口角が上がった。岸本が私を怒る際の頻出ワードとして、「使えない」「自分で考えろ」「社会に出たらどうするの」の3つがあった。私は、最後の1つ、「社会に出たらどうするの」に目を付けた。岸本は、成人してからの数十年を、この店舗内で過ごしている。つまり、この店舗以外の社会を知らないのだ。外の世界を見たことがないのに、私に社会を語る資格があるだろうか。井の中の蛙に井の外のことを説法されて、うんうんと頷くやつがいるだろうか。そこを突いてやるのだ。そこを突いて、岸本の心を、ぐずぐずにしてやるのだ。私の中で、その計画がはっきりと形を成していった。まず、私が勤務中に些細なミスをやらかす。これは何でも良い。できれば「こんなことで呼ぶなよ」と岸本を逆撫でするような、つまらないミスであると好ましい。そしてできるだけ間延びした声で、「岸本さぁん」と呼びかける。岸本は振り返り、私に注目する。大きくため息をつくと、彼は慣れた手つきでトラブルを解決する。私は申し訳なさそうな顔で、「すみません」と小さく言う。岸本は、その謝罪を聞き終わるか終わらないかのタイミングで、自身のストレス解消も兼ねた説教を始める。ここまでは、確実に上手くいく。しかし、ここからが一苦労である。先の頻出ワードの中でも、「社会に出たらどうするの」は最も出現率が低いのだ。そこはもう、私の頼りないアドリブ力に任せるしかない。なるべく、この若者は社会に出たらどうするのだろう、そう思わせる。頼りなさげで人を舐め腐っている態度で、岸本に接する。そうすると、岸本が口を開く。「脇田くんさ、いい加減にしなよ、毎回毎回ミスばっかりで。すみません、じゃなくてさ、謝る前に考えてよ。ねえ、社会に出たらどうするのさ。」その瞬間、「し」から始まる、あの聞き飽きた、私を侮辱する言葉を耳にした途端、私は切りかかる。「僕はまだ、社会に出る前の人間なんですよ、わかります? こうやってミスすることで、社会に出る経験値を蓄えてるんです。僕は、これからも、たくさんミスをすると思います。だけど、そのミスを活かして、他人との関わり方とか、そういうのを、社会に出た瞬間にちゃんとやれるように準備してるんです。確かに今社会に出たらぼろぼろになりますよ? でもそんなの当たり前です。人間って普通そういうものでしょう?」いつも一方的に叱っている若者から出てきた反論に、岸本は目を大きく見開き、じっとこちらを凝視するだろう。私は弱っている岸本に、とどめを刺す。「岸本さんはわかったように社会を語ってますけど、あなた、コンビニバイト以外したことあるんですか?」私が決定的な一言を突き刺すと、岸本は特徴的な歯並びをぎりぎりと擦り合わせ、「まあ、今度は気を付けて」とか言って品出しに戻るのだろう。私は勝ち誇った顔で、あの日、岸本に向けられた、エリにも向けられた、あの視線で、じっと岸本を見つめてやるのだ。我ながら完璧なシナリオで、岸本の無様な姿を想像して、思わず笑みがこぼれる。おかしくてしかたがない。まるでドラマのワンシーンではないか。あまりに完璧な作戦を考えついた私は、鼻歌を歌いながら体中の泡を落とし、今日の勤務で早速実行しよう、と意気込むのだった。その夜は雨だった。客足は少なく、ファミリーストアの中の時間は、ただ淡々と過ぎていった。岸本は品出しを終えると、休憩に入り、ウエストの6ミリとカップラーメンを購入した。その後、店先の喫煙所で一服し、バックヤードへ消えて行った。きっと今頃、もさもさとカップラーメンを食べているのだろう。私は仕事を進めながら、この閑散とした店内を恨めしく思った。いくら私が無能だからといって、火種がなければ火事は起こらない。いっそ、もう一度台車を段差に引っ掛けて、パックを倒してしまおうか。そんなことを考えながらレジを打っていたそのときだった。「ビーーーーーーーー!」操作した機械から、耳をつんざくような電子音が鳴り響いた。レジの向こうの客がイヤフォンを外し、迷惑そうに顔をしかめる。な、なんだこれ。どうすればいいんだ。私は怯み、頭が真っ白になった。また「すみません、すみません」と頭を下げる機械になるところだったが、ふと、さっきまで考えていた計画が頭をよぎった。今日は、岸本に聞けば良いのだ。助けを求めて、解決させて、無能呼ばわりしてきたら、思い切り言い返してやれば良いのだ。しかも今は、岸本の休憩中だ。同僚の休憩中にミスを起こして、助けを求めて来るなんて、そんな若者は、社会に出たらどのように生きてゆけば良いというのだ。そんな若者を叱責するチャンスを、岸本が逃すはずがない。私は「少々お待ちください」と自信たっぷりの表情で客に言い放つと、バックヤードにいる岸本のもとへ向かった。やはり岸本は、もさもさとカップラーメンを食っていて、動画サイトでリンシャンカイホウのネタ動画を見てにやついているところだった。「岸本さん、すみません。」岸本が、こちらに振り向く。「なんかレジから音がして、動かなくなっちゃって。」そこまで聞くと岸本は、机の上に乱雑に置かれていた制服を羽織ると、無言でレジに向かった。狭いバックヤードで、岸本の肩と私の胸がぶつかった。岸本は少しよろけたが、私の方を振り向くことなく店内へ出ていった。岸本がレジの下の引出しから鍵を取り出し、なにやら複雑な動作をすると、「ピロン」という電子音と共に、いつも見ているレジ打ちの画面が表示された。そのまま岸本は客の対応をし、私がバックヤードに向かっている間に並んでいた数組の客を、あっという間に捌いた。「すみません。あ、ありがとうございます。」岸本は私を見つめた。そして、大きく溜息をついた。その瞬間、私は身構えた。これからやってくる岸本の叱責に言い返すために、脳内で何度もシミュレーションをしていた。きっと、休憩中なんだから……」と切り出し、私を叱るだろう。さあ、叱れ。来い。私は、待っていた。「社会に出たらどうするの?」と、キーワードが聞こえた瞬間、ずっと構えていた刀を振り下ろし、岸本に切りかかるのだ。そう思い、私は岸本の口元に注目していた。さあ、言え。叱れ。「またなんか、あったら、呼んで。」そう言うと、岸本はバックヤードへと消えて行った。肩の力が抜けてゆく。なんだ、それ。今日に限って。言い返してやる、と強い気持ちで臨んだ今日に限って。溜めていたエネルギーを発散できないまま、残っている品出しに向かう。牛乳パックを手に取り、消費期限の遠い順に奥から並べてゆく。なんだよ、あいつ。今日に限って。牛乳を並べる。もっと、いつもみたいに、怒れよ。並べる。こっちを、あの目つきで、睨めよ。並べる。並べる。くそ。並べる。くそ。くそ。くそ。くそ。──またなんか、あったら、呼んで。岸本の言葉が耳にこびりついて離れない。あの日倒して、リノリウムにアーティスティックなマーブル模様を描いていたパックを陳列しながら、岸本の言葉を反芻していた。
ある日、岸本が夜勤を休んだ。岸本が欠勤するというのは、初めてのことだった。バックヤードでじくじくと22時になるのを待っていると、慌てて入ってきたのはもさもさとした白髪交じりの頭ではなく、前頭葉にあたる部分が禿げ上がった、西の頭だった。「あ、脇田くん。おはよう。」西は、少し荒くなった呼吸もそのままに、やあ、という形で手を上げて挨拶した。「おはようございます。あれ、岸本さん、休みっすか?」「そう、さっき連絡あって、子供、ほら。危なかった、脇田くん、ワンオペになっちゃうとこだった。」子供? 意味が分からず、私は聞いた。「子供って、え?」西は少し面食らった顔をすると、「あれ? 聞いてない? ほら、岸本さん……」西が続けた言葉は、一文字一文字、くっきりと、狭いバックヤードに響いた。「もう、子供、産まれるからって。」子供? こども? コドモ? 人生の中で何度も聞いてきた単語の概念と岸本の姿がうまく結びつかず、西の発言を何度も繰り返す。岸本に? 子供? ということは、岸本に、妻? 岸本が、誰かを愛し、その愛に応えた人間がいた? 岸本は、狭い部屋で一人で暮らし、他人に当たり散らしてストレスを発散する、どうしようもない男だったはずだ。すると、母体から出てきたばかりの新生児を抱いて、涙する岸本の姿が浮かんだ。私の中の岸本像が崩れ、新しいイメージに塗り替えられてゆく。決して多くはない収入の中で、日常に些細な喜びを見出し、愛する家族と共に生きる一人の人間として。妄想という頼りない線ではなく、妻の出産によって欠勤したという事実、その一本の、力強い、近くで見ると一面真っ黒に見えるくらいの太い線が、私の中の岸本を書き変えたのだ。情けない気持ちが、ずぶずぶと溢れてくるのが分かる。「よし、今日も、頑張ろう!」西は、岸本が到底口にしたことのないセリフを明るく吐き出すと、店内に飛び出していった。バックヤードの壁には、岸本がいつも使っている、右ポケットに大きな白いシミがある緑の制服が、掛かったままになっていた。そのシミは、岸本に叱責されているときに、何度も見ていたシミだった。その汚れが誇らしげに見えて、制服を、殴った。ぼん、と布の音がして、制服は何度か大きく揺れ、何事もなかったかのように元の姿に戻った。大体の業務を終え、客足も落ち着いてきた朝4時。店内に客がいないタイミングを見計らって、西が話しかけてきた。「脇田くん、夜勤長く続けてくれて、助かってるよ。」「長くって……まだ半年も経ってないですよ。」「いや、最長、今までで。少なくとも、岸本さんがいる間は。」西は強調するようにわざと岸本の名前を付け足し、続けた。「脇田くんさ、岸本さん、どう?」「どう?ってのは?」「ほら、岸本さん、ちょっと癖あるでしょ?実はさ、何回も夜勤のバイトさん雇ってるんだけど、岸本さんと合わないって、結構な割合ですぐ辞めちゃうんだよ。」「あー、まあ、確かに、とっつきづらいところはありますね。」「俺も一緒に夜勤入るんだけど、なんか絡みづらくてさ、自分の仕事に誇り持ってるっていうか、いや、そんな真剣にやらなくていいから、みたいな。」「まあ、確かに。」「だからさ、脇田くんは岸本さんのことどう思ってんのかな、って。」西が口角をあげてこちらを見つめている。私は、これまで岸本に抱いた憎悪の感情を思い浮かべていた。私がここで岸本への不満をぶちまければ、西から岸本に言伝が回り、何らかの行動変化がみられるかもしれない。または、私が朝勤や昼勤へ配置転換される可能性もあるだろう。しかし、私には、岸本とうまくいっていないことを白状することは出来なかった。それは、私にとって、敗北宣言だった。岸本という男に、悪夢を見るほど苦しめられ、うまくやっていけていないこと。そのことを、岸本のいない場で、岸本以外に話すこと。それは岸本に負けること、それ以外の何物でもなかった。岸本は、ファミリーストアの業務において、私よりも優れている。私よりも速く、正確に平常業務を行い、突然訪れる緊急事態にも対応できる。朝、勤務を終えて家に帰れば、私がいつも廃棄の弁当などで済ませている朝飯を、妻が作って待っている。そして風呂に入り、ふかふかの布団で眠る。時折、妻と身体を重ねることもあるのだろう。その結果、岸本の家には、新しい命が産まれようとしているのだから。私は、岸本がセックスを済ませていることに、憤りを覚えていた。私にとって、岸本という男に性体験で負けているということは、あってはならない事実だった。岸本は、童貞でなくてはならなかった。日当たりの悪いワンルームで、年々、自分の終わりに怯えながら、自慰を行っているべきだった。誰かと抱き合い、愛を交わしながら、肌を触れ合わせる行為など、行ってはいけなかった。岸本が桃色の肌を抱いて、幸せそうに眠っている姿を想像すると、苛立ちが溢れてくる。私はその光景を振り払い、言った。「まあ、岸本さんとは、普通にやってますよ。」「良かったー。そうだよね、一緒にお笑いの話とかして。」最後に岸本と雑談をしたのはいつだろうか。岸本の口からポテトカレッジの名前が出てきた、初めて勤務したあの日のことを、思い出していた。
翌々週になると、岸本は何事もなかったかのように出勤してきた。本当に何事もなく、まるで岸本には、妻もいなければ、子供も産まれていないような様子だった。いや、もしやすると、岸本には、妻もいないし、子供も産まれていないのかもしれない。いやいや、これは岸本には、妻もいないし、子供もいないに違いない。私は、いつも通りにてきぱきと業務を進める岸本を見ながら、考えていた。この男は、西と私という、狭いコミュニティに意地を張るために、自分が家庭を持ち、養っているという、嘘をついたのだ。そうに違いない。この男は、本当にどうしようもない男だ。この男に、私が負けるわけがないのだ。私が岸本の一挙手一投足に注目しながらレジを打っていると、ソーセージの男が話しかけてきた。「兄ちゃん、長くバイトしてるよな。なあ、あいつどう思う?」男は岸本をアゴで指し、すぐに私に向き直った。男はこの店の常連で、毎日深夜1時になると、ソーセージを一袋だけ買ってゆく。この店のソーセージは割高であり、そのへんのスーパーマーケットに行けば安く、さらに量も入っていて合理的なのだが、なぜかこの店でソーセージを買って行くのだった。この男は、何十円かを積み重ね、莫大な無駄金をこのファミリーストアに落としながら死んでゆく、そんな男なのだろう、いつもそう考えていた。そんな男が、話しかけてきた。私は戸惑いながら、曖昧に答えた。「えっと、はあ。」「あいつ陰気だろお、嫌われてんだよ、みんなから。」男はそう言うと、はは、と乾いた笑いを漏らした。男の歯並びは、岸本によく似ていた。男と岸本の写真の口元を切り取って、100枚くらい並べて、神経衰弱をしたいと思った。「はあ、そうですか。」私はそう言うと、ソーセージのバーコードをスキャンして、「お支払方法は?」と、何の感情も込めずに言った。男は、その風体に似つかないバーコード決済で料金を支払うと、「兄ちゃん、負けんなよ」と力強く言葉をかけて去っていった。負けんなよって、何にだよ。私は男に悪態をつきながら、品出しを進める岸本の背中をじっと見ていた。私より一回り小さい岸本の背中は、さらに小さくなったように見えた。勤務を終え、煙草を吸っている岸本を見ながら、考えていた。この男を尾行したらどうなるのだろう。この男はどんな家に帰るのだろうか、果たして本当に家庭を有しているのだろうか。奇しくも、岸本のことを知りたい、そう能動的に考えたのは、ファミリーストアで働き始めてから初めてのことだった。そして、尾行することにした。もし岸本が、私の住む築30年の木造アパートよりも、さらに小汚いアパートに住んでいたら、ほくそ笑んでやろう、そして、もしワンルームマンションに住んでいて、家庭を有していたら、そのときはそのときである。おとなしく負けを認めて、来週からバイトを飛ぼう。そう考えていた。バイトを飛ぶことは、負けであり、勝ちである。少なくともその夜は、岸本は一人で品出しを行い、レジを打たなければいけないのだ。岸本は平常時の2倍の業務量に押しつぶされながら、平常時と同じ時給で働くのだ。そんなことを考えていると、岸本がにびいろの自転車に乗って走りだした。私も慌ててロードバイクに乗り、一定の距離を保ちながら岸本の後を追った。初めて会ったあの日と似ている。そう思った。岸本は少し進むと、何やらスマホを操作し始めた。画面に目を落としている岸本は、時折思い出したように辺りをきょろきょろと見渡した。何のためかは分からないが、ロードバイクが岸本の視界に入らないように、物陰に隠れなければならなかった。私の真っ赤なロードバイクは、間違いなく岸本の海馬にこびり付いているだろう。私の顔面を認識できずとも、このロードバイクが、私のアイデンティティとして、はっきりと存在を証明してしまうに違いない。電柱の影に隠れながら遠くの男を睨んでいる私を、通行人が怪しげに見つめていた。岸本はスマホをポケットにしまうと、またシャコシャコと走り始めた。こいつはどうやら、私の家の近くに住んでいるらしい。そう思ったのは、私の家のすぐ近くの公園で、岸本がのんびりと休み始めたからである。岸本は、朝の日差しがぽかぽかと照り付けるベンチに座ると、ちょうど「考える人」の姿勢で、またもやスマホをいじり始めた。こいつ、何してんだよ、早く帰れよ。スマホなんて家でいくらでもいじれるだろ。私はそう思うのだが、週5日夜勤で働いている岸本にとって、この時間は日光を浴び、セロトニンを分泌する大事な時間のようだった。私は公園の入り口の、ちょうど岸本からは死角になっているベンチに座り、岸本が次の行動に移るのをただ待っていた。この男は、あと何時間こうしているつもりなのだろう。もしこの男があと1時間ここにいたら……。そう考えると、現在進行形で私の時間を奪い続けているこの男に対する、憤りの渦がぐるぐると全身を回り始めた。それと同時に、退勤してこんな無駄な時間を過ごしているようなこの男を待っている家族など、いるはずがない、そういった確信が力強さを増してゆくのだった。20分ほどスマホをいじっていた岸本は、唐突に立ち上がると一度大きく伸びをして、そしてまたにびいろの自転車に乗ってどこかへ走り出した。夜勤明けの私にとって、ベンチに降り注ぐ日光と、それに伴って徐々に上昇してゆく気温は、意識を少しづつ刈り取ってゆく心地よいものであり、遠くに見えている岸本が実在しているものなのか、私の脳が産みだした幻影なのか、あいまいになってきたところだった。私も急いで自転車に飛び乗った。まだ力が入りきっていない身体は言うことを聞かず、何度か左右にふらつきながら、小さく見えている岸本の背中を追う。晩秋の朝の、突き刺すような冷たい空気が夜勤明けの目に容赦なく突き刺さり、私の目からは、悲しみや痛みとは違う、生理現象としての涙が流れていた。岸本が自転車を停めた建物は、私のアパートの向かいだった。岸本のアパートは、二階建ての、褪せた緑色の外壁の、まるで一つの家庭が住んでいけるような間取りには思えない、ボロアパートだった。私は、笑った。岸本は、嘘をついていた。この男は、自分を誇張して、周りに威嚇するために、家庭を持っていると嘘をついたのだ。にやりと口角をあげるだけでなく、ははは、ははは、と断続的に息を吐きだしていた。尾行してよかった。今度この男に何か言われたときは、逆に言ってやるのだ。「岸本さん、お子さんはお元気ですか?」そう言ってやるのだ。岸本は言うだろう。無表情で、隠し通そうとしながら、「ああ、うん」と言うだろう。それで、また、言ってやるのだ。「写真、見せてくださいよ。」その後の岸本の顔を想像すると、顔面の筋肉が自然と笑顔の形になる。そういう風に顔を動かすことが、本能に刻み込まれているようだった。これをネタにすれば良いではないか、そうすれば客は笑うではないか。岸本が舞台に出てきて、「私は子供がいます」と言って、その後プロジェクターで岸本のアパートを大きく映し出せばよいのだ。よし、岸本。お前、お笑いサークルに入れ。ははは。あー、おもしろい。よし、帰ろう。帰って寝よう。一通りの妄想を終え、ロードバイクに乗って帰ろうとしたときだった。またもや、私の頭に、アイデアが浮かんだのである。ここで岸本の部屋を訪ねたら、どうなるだろう。もし私がチャイムを強く押したら、岸本は、こんな時間に誰だろう、そう思って玄関にやってくるだろう。そして、覗き穴から私を認めると、居留守を使うだろう。子供ができたと嘘をついておきながら、本当は一人で住んでいるなんてことを、一緒に働いている大学生に知られれば、今までぶつけていた軽蔑の視線が、ひっくり返って自分に向かってくることが分かっているからだ。いつまでも開かない、けれど確かに向こう側に岸本の存在を醸し出している茶色のドアに向かって、私はこう言ってやるのだ。「あれ、岸本さん?岸本さーん?」そして、私は部屋を訪ねることにした。にびいろの自転車が停まっているドアの前に立ち、ふう、と息を整えると、呼び鈴を押した。どたどたどた、と足音が聞こえ、覗き穴を覗いているのだろうか、一瞬しん、とした時間が流れると、茶色のドアがガバっと開き、岸本が出てきた。「何?」岸本が、心底迷惑そうな顔で言った。すぐそこのキッチンからは、炊きあがった白米の甘い匂いと、味噌汁の出汁の匂いがしていた。岸本の肩の向こうから、太陽光の差し込む部屋が見えていた。差し込んだ光に照らされて、こちらを心配そうに見つめる女と、ベビーベッドが見えていた。ふと玄関に視線を戻すと、そこには、写真が飾られていた。その写真には、奥でこちらを見ている女と、まだ頭が白くない岸本が、仲睦まじく、写っていた。そして、今、私の目の前に立っている、本物の岸本に目をやると、岸本は、あの視線で、私がパックを倒して、床に這いつくばって拭いていたあのときに、私に向けていた、軽蔑したあの視線で、私を見ていて、キッチンでは、味噌汁が沸騰しつつあって、その煙が、換気扇へと吸い込まれていて、奥の部屋からは、爽やかな音楽と、昨日のニュースを伝える音声が聞こえてきていて、岸本の口から、「何? 気持ち悪い」と聞こえてきて、その言葉を聞いて、私は、ここで、この男を殴ったら、どうなるだろう、そう思って、そう思ったその瞬間、目の前の男の顔面には、右の握り拳が、思い切り、めり込んでいた。岸本が倒れて床に後頭部が跳ねたのと、奥の女が叫び声をあげ、ベビーベッドから泣き声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。私は急いでドアから飛び出し、ロードバイクを置いたまま、向かいのアパートへ走った。右手の指の付け根が、岸本の頭蓋骨とぶつかった衝撃でじんじんと痛んでいた。殴る方も痛いんだ、と思った。ドアを開けて部屋に入り、鍵を閉めて、大きく深呼吸をした。玄関から、私の部屋が見えていた。カーテンの隙間から漏れている日光が、埃だらけの部屋の輪郭を、わずかに浮かび上がらせていた。ベッドには毛布がぐちゃぐちゃに丸まっていて、そこに一筋の光が刺していた。光が当たっているところがちょうど山折りになっていて、突出した羽毛が妙に官能的に輝いていた。私は、焦りのような、苛立ちのような、興奮のような、とにかく毛布にくるまりたいという欲求に駆られた。靴も脱がないままベッドに転がり込むと、体を丸めて毛布にくるまった。小さい頃は全身を覆ってくれていた毛布は、もうそれをしてくれなくなっていた。どんなに体を丸めても、頭や足先がはみ出してしまい、それが私を苛立たせた。毛布を握りしめ、身体にきつく巻き付けた。すると頭がぽわりとする感覚がした。射精のときや、寝る前の感覚と似ていた。その感覚に身を委ねながら、毛布に話しかけた。「なあ、なあ、俺、岸本殴っちゃったよ、でも、勝ちだよな? 俺の、俺の勝ちだよな? 殴って、岸本が倒れたってことは、俺の。」「お前の負けだよ。ずっと。」そうか、そうだよな。ずっと、そうだよな。ドアが強くノックされていた。
毛布 維々てんき @ii_tenki_
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